塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察
 

 
概 要

村落のはずれの路傍に祭られている塞の神(道祖神)には、(1)境界守護の神という性格と(2)夫婦和合の神という2つの異質な性格がある。この第二の性格によって、塞の神は、しばしば陽石、陰陽石、さらには男女二体の夫婦の石像によって表される。ところが、その石像の男女はしばしば兄妹婚の夫婦であるとされている。これは何故であろうか。一般にはその由来をイザナギ・イザナミ神話に求めるが、これには賛同しがたいことを示した上で、我が国を含め東南アジアの水田稲作地帯に広がる兄妹婚肯定の空気が、その背景として存在することを指摘し、さらに、我が国古代では異母兄妹婚は通例のことであり、同母兄妹婚も強い禁忌ではなかったことを見てゆく。その上で、「いもせ」という言葉が、(1)兄妹(姉弟)(2)夫婦の2つの意味を持っていることが教えるように、兄妹と夫婦とは、もともとは区分されることのない同一の概念であったが、後に両者の間に区分線が引かれて、それぞれ別の概念とされた時、その境界線上にあるものが兄妹婚であることを見る。他方、塞の神は村落の内と外との境界に置かれるものである。この境界領域の事象ということにおいて両者は一致する。かくて、塞の神が兄妹婚の夫婦とされるのはこのためと考えられることを論ずる。記号論は連続したものを記号によって不連続に区分した時に生ずる境界領域には、神聖さと不吉さが備わるという。村落の境界と兄妹婚は、その属性においても一致することを述べる。
 
 
(1)クナドの神
 
 塞(さい)の神(障の神)は集落の入口にあって外部から邪霊が侵入することを防ぐ神である。現在でも村境の道端に小祠で祭られているのを、しばしば見ることができる。
 この塞の神は、中国の「道祖」と呼ばれる道の神の観念と習合し、「道祖神」あるいは「道陸神(どうろくじん)」とも呼ばれるようになり、村落の入口だけでなく、峠や橋のたもとなど交通の切所にも祭られ、旅人が道中の安全を祈るために供え物をするようになり、「手向(たむ)けの神」とも呼ばれるようになる。
 塞の神の最も古い形は、柴や小枝を折って路傍に積み上げた「柴折り」や、石を積み重ねた「石積み」であったと云う。「柴折り」によるものは「柴神」と呼ばれることもある。藁や木で大きな人形を作り村境などに立てておく例もある。
 やがて、丸石、石棒、陽石、陰陽石など石造のものへと遷ってゆき、石に「道祖神」という文字を刻んだ文字碑によるものも現れてくる。陽石は金精(こんせい)様と呼ばれたりする。
 そして、江戸時代の中期になってくると、石工技術の発達に伴って石像が作られるようになるが、その石像の多くは男女二体の像である。双体道祖神と呼ばれるものである。多くは、一つの石に男女像を陽刻し、中には露骨な性の姿態を表したものまで作られる。
 
 この塞の神には次の二つの性格があり、人々が霊験・利益(りやく)を求めてそれを祀る目的にも次の二つがある。
    (1)境界守護の神(村落の境界にあって邪霊や疫神や外敵の侵入を防ぐ神)
    (2)夫婦和合の神(夫婦を和合せしめ良縁・安産・子育てに霊験のある神)
塞の神が石造の男女像で表され、中には露骨な性の姿態を刻んでいるものまであるのは、この第二の性格のためである。

 
 まず、この塞の神の由来について、古事記や日本書紀がどのように記しているかについて見ておく。

(1)クナド神
 日本書紀は、この神をイザナギ神が死んだ妻のイザナミ神を黄泉国(よみのくに)に訪ねていって逃げ戻る時、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止めるために投げた杖から成った神であると云う。すなわち、神代上第五段の一書第六に「すなわち、その杖を投げたもう。これを岐神(ふなどのかみ)と云う」。また、一書第九に「これを岐神(ふなどのかみ)と云う。これ、本の名は来名戸(くなど)の祖神(さえのかみ)と云う」と記す。また、古事記は、逃げ帰った後、穢(けが)れを払うために禊祓(みそぎ)をした時、投げ捨てた杖あるいは褌(はかま)から化生した神とする。すなわち、「投げ棄つる御杖に成れる神の名は衝立船戸(つきたつふなど)神。・・・・投げ棄つる御褌に成れる神の名は道俣(ちまた)神」と記す。 このように、記紀では、この神を「岐神」と書き「クナド神」または「フナド神」と呼んでいる。
 
(2)塞がる磐の大神
 イザナギ神は追ってきたイザナミ神に最後の離婚宣言をする時、黄泉の国とこの世の境の坂に大石を引き据え、その石を中に置いて、向い立って離別を云い渡すが、この大石について記紀は次のように云う。日本書紀は神代上第五段の一書第六に「塞(ふた)がる盤石(いわ)というは、これを泉門(よみど)に塞(ふた)がります大神という。亦の名は道反(ちがえし)大神という」。古事記は「黄泉(よみ)の坂に塞(さや)りし石は道反之大神、また塞(さや)ります黄泉戸(よみど)大神とも云う」。この石がまた塞の神である。塞の神の像が石で作られるのはこのためであるとも云われる。
 
(3)猿田彦神
 塞の神は猿田彦神であるともされている。これは、この神が天孫降臨神話の中で、降臨する道の途中に塞さぎ立って出迎え、降臨を先導した神として描かれているためである。日本書紀はこの神話の中で、猿田彦神を天鈿女(あめのうずめ)という女神が問責する時、彼女はその胸乳を露出させ裳帯(もひも)を臍(ほそ)の下まで引き下げた姿で立ち向かったと描いている。これは正に性交に先立って女性が男性を誘惑し挑発する姿である。

 
次に、この塞の神は時間的経過と空間的拡がりの中で多様に展開しているが、それらの中で、上記の二つの性格がどのように表れているかを見てゆく。
 
(1)道饗祭
 宮中祭祀の中に道饗祭(みちあえのまつり)がある。これは、毎年6月と12月の晦日に、京都の四境(和邇、逢坂、大枝、山崎)の路上で、ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ、クナドの三神を祀り、邪悪なものが京へ入ることを防ぐ祭事である。この時に祭る三神は同一の神で、これが塞の神である。
 この塞の神がヤチマタ神(八神)と呼ばれるのは、道が八方に分岐した交通の要所に祭られたからである。すなわち、チマタは道路の分岐点の意味であり、ヤチマタは数多くに分かれた分岐点の意味である。日本書紀が岐神と書くのは、この意味である。「岐」は道の分岐点である。
小野宮年中行事、扶桑略記、本朝世紀などには、道饗祭の際に東西両京の路上に男女二体の神像が建てられ、それらには腰の下に陰陽の絵が刻んであったと述べられている。これは境界守護の祭でありながら、夫婦和合の神という第2の性格が仄かに現れているものである。
 なおまた、宮中ではこの祭の日の夜、皇居の四隅で神を祭り火災防止を祈る鎮火祭(ひしずめのまつり)を行った。そして、道饗祭と鎮火祭とはあわせて四角四境の祭とも呼ばれた。
 
(2)御門祭・石神
 柳田国男氏は「石神問答」において、関東地方や中部地方で見かける、石を御神体とした「石神(しゃくじ)」と云うのは、塞の神の転訛した言葉であろうと云う。これを承けて、谷川健一氏は「日本の神々」において、宮中祭事の中にある御門祭(みかどまつり)に言及する。すなわち、この祭事は、櫛石窓(くしいわまど)、豊石窓(とよいわまど)の二神を宮門において祭るものであが、その祝詞の中には「四方内外(よもうちそと)の御門(みかど)に、ゆつ磐(いわ)むらのごとく塞(さや)りまして」と云う言葉があり、二神が宮門において大岩のように塞がり立って、外からの邪霊の侵入を防ぐことを祈るものである。
 この二神は、古事記の天孫降臨の段に、天孫に随伴する神の一人として出てくる天石門別神が二神に分身したものである。従って男女神ではない。古事記が「天石門別(あめのいわとわけ)神、亦の名は櫛石窓神と云い、亦の名は豊石窓神と云う。この神は御門(みかど)の神なり」と書いているのがそれである。神名の中の「石」は防御のための大岩の意味であり、「窓」は「真戸」すなわち「門戸」の意味と考えられ、櫛石窓・豊石窓神は塞の神に外ならず、従って、石神は塞の神に外ならないと谷川氏は追論する。
 ところが、民間では、この石神は良縁・安産・子育てに霊験があるとして祭っている。これは塞の神の持つ第二の性格に他ならない。
 
(3)アラハバキ神
 谷川健一氏は「日本の神々」の中で、関東・東北地方で見られる「アラハバキ神」も塞の神であると云う。「アラハバキ」とは、神社の門に置かれた、衣冠束帯姿で脛巾(はばき)を着け、弓矢・刀剣を帯びた二体の随身の木像のことを云う。しかし、谷川氏は、「新編武蔵風土記稿」によると、大宮市の氷川神社が古くは荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ、その祭神を櫛石窓・豊石窓の二神であるとしていることや、また、同風土記稿が多摩郡養沢村の門客人(あらはばき)神社の祭神を豊石門戸(とよいわまど)命と櫛石門戸命としているなど、多くの例をあげて、アラハバキの神もまた塞の神であると云い、特に、追い払った蝦夷の人たちが再び侵入してくるのを防ぐための塞の神として置かれたものと云う。
 
(4)地蔵菩薩
 本地垂迹説では、塞の神の本地仏は地蔵菩薩であると云う。地蔵菩薩は、自ら「仏」になることを延期して「菩薩」のままにとどまり、五濁(ごじょく)の悪世において衆生を救済し、衆生の苦しみを除くことを本願とした菩薩であり、このため、他の仏や菩薩たちのように天上にあって人々を救うのではなく、剃髪して錫杖と宝珠を持ち、常に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を巡って人々を救うものとされた。従って、地蔵菩薩はこの世の道のみならず、あの世の道をも、いつも歩いているので、道行く旅人の護り神となってゆき、塞の神、道祖神と結び付いてゆく。なかんずく、地蔵菩薩はこの世とあの世との境に立って人々を救うものと考えられるようになる。
 この世とあの世との境にある三途の川の河原が「塞の河原」と呼ばれるのは、境界である「塞」からの名であろう。死んだ幼児は、この塞の河原で小石を積んで父母を供養するために塔を作ろうとするが、地獄の鬼がやって来て、作っても作っても壊してしまう。子供たちが石を積むというのは、塞の神の古い形が石積みであったことによるものである。そして、泣いている子供たちを地蔵菩薩が救済する。「塞の河原地蔵和讃」が歌うところである。かくて、いよいよ、塞の神と地蔵菩薩は一体化し習合する。
 
5)勝軍地蔵(愛宕権現
 京都の北西、山城と丹波の境にある愛宕山に鎮座する愛宕神社は、王城の乾(いぬい)の方角の守護神とされ、また、祭神八座の中に火の神である天迦倶土(かぐつち)神が加わっているいるので、「火伏せの神」として信仰され、この神社が出す御札は「愛宕札」と呼ばれて火除けの護符とされる。また、修験道においては祭神を愛宕権現と称し、その本性は太郎坊と云う天狗であるとし、神仏習合の思想に立って、この愛宕権現の本地仏を勝軍地蔵とする。
 勝軍地蔵は錫杖と宝珠を持つ地蔵ながら、身には甲冑を着け軍馬にまたがる姿であり、祈れば必ず戦いに勝つ霊験を持つとされ、鎌倉時代頃から武家の間で篤く信仰された。明智光秀は本能寺を急襲するに先立って、この社に参籠し百韻の連歌の会を催し、徳川家康は江戸の芝桜田山(愛宕山)にこの神を勧請した。ところが、この「勝軍地蔵」の「勝軍」と云う語は「塞の神」の「塞神(さくじん)」が転訛したものであると柳田国男氏は云う。「地蔵」はもとより塞の神としての意味である。従って、この勝軍地蔵と云うものは、京都に侵入する邪霊を防ぐための塞の神が軍神の姿をとったものと考えられる。そして、この神が防火の神ともされるのは、宮中で道饗祭と鎮火祭がセットで行われるのと同じ発想によるものであろう。
 
(6)咳のおばさま
 関東地方を中心に、咳のおば様と云う民間信仰がある。老婆の石像で、これに祈ると子供の咳の病気が治ると云う。柳田国男は「日本の伝説」において、これも塞の神が転じたものであると云う。すなわち、「塞(せ)き」あるいは「関」が「咳」になってしまったのだと云う。そして、本来、塞の神は男女二神であるが、これが女性のみ、それも恐ろしい顔の老婆の姿になってしまったのは、十王経において、三途の川岸に関を据えて、この世からやって来る亡者の衣服を剥ぎ取る奪衣婆(だつえば)(葬頭河(しょうずか)の婆)が語られていることによると云う。それにしても、なぜ、子供にだけ霊験があるのか。それについては、柳田氏はなにも述べていないが、塞の河原の地蔵和讃との結びつきによるものであろうと私は思っている。
 
(7)歓喜天
 歓喜天は仏教において天部に属する護法神の一で、歓喜自在天、大聖歓喜天、略して聖天とも呼ばれる。ヒンドウ教におけるガネーシャが仏教に取り入れられたものである。障りをなす魔神を支配する神とされ、除障・富貴を目的として祭られる。象頭人身の男女の相擁する姿で表される。路傍の小祀に祭られた塞の神の神像が、この二神抱擁の歓喜天(聖天)であることもあると報告されている。
 
(8)百太夫(ひゃくたゆう)(百神
 路傍に祀られる道祖神のことを遊女や「くぐつ」たちは百太夫、あるいは百神と呼び、男の客が跡を絶たぬようにとこれに祈った。摂津西宮に百太夫社として祀るものは特に有名である。梁塵秘抄の380番にも「遊女(あそびめ)の好むもの、雑芸、鼓、小端舟(こはしぶね)、おほがさかざし、とも取り女(め)、男の愛祈る百太夫」とある。

 
 このように塞の神には、境界守護という第一の性格のほかに、夫婦和合の神という第二の性格があるが、この第二の性格が何故、境界守護という第一の性格の上に加わったのか。

 一般的にはイザナギ・イザナミの夫婦にその根拠を求め、あるいはサルタヒコ・アメノウズメをその根拠とするのが常である。柳田国男氏は、あからさまな性の行為には悪霊や疫神を退ける避邪の力があるとされていることに根拠を求めた。

 他方、高群逸枝氏は、これについて、その著「日本婚姻史」の中で、これは、村落間で群婚的に通婚が行われていた古い時代、塞の神を祭った広場が群婚の婚所であったことによるとする。すなわち、塞の神は「クナド神」あるいは、それが転訛して「フナド神」と呼ばれるが、「クナド」とは「クナギドコロ」の意味であり、「クナギ」とは性交の意味である。すなわち、「クナド神」とは、性交をする場所を邪霊から護る神と云うことである。そして、「クナド神」と云う語には「岐神」と云う漢字が当てられているのは、ヤチマタがすなわち通婚の場所であったためであると述べている。
 塞の神が、多くは石で作られた夫婦の姿で表され、古くは男性の性器の象徴である石棒や陽石、あるいは陰陽石などで表されていたのは、まさにそこが男女の愛欲の場所であったためであると云う。

 私には高群説の当否を判断する力はないが、少なくとも、私が知る中では最も説得力がある説のように思われる。
 群婚と云う結婚形態が古代にあったとする高群説は必ずしも定説にはなっておらず、疑問を差し挟む向きも多いが、日本書紀武烈天皇条に見られる海石榴市(つばいち)の歌垣(うたかき)や、万葉集で高橋虫麻呂が歌う筑波山麓の「かがい」などが、群婚の存在を一概には否定できぬことを示している。
 さらに、「岐」は「分かれ道」と云う意味であるが、道がY字状に二つに分かれる場所には人間の股のイメージがある。すなわち、陰部のイメージである。クナド神と云う語に岐神と云う漢字が当てられたのは、このためでもあろうかと私は思っている。

 村落の境界が持つ通婚の場所という性格は、男女の交合が「歌垣」や「かがい」に見られるような屋外での行為から、屋内における行為に変化し、更にそれが秘め事へと変化してゆくに伴って、次第に忘れられていった。しかし、「クナド」(フナド)と云う言葉として生き続け、何か知ら男女の性にまつわるものと云う意識は脈々と流れていった。その深層の思いが表面に浸み出して、男女双体道祖神として表現されるようになったに違いない。
 
(2)兄妹相姦
 
 
 塞の神(さいのかみ)(道祖神)は一般に石造の男女像で、この男女は夫婦であるとされているが、しかも、この男女はしばしば兄妹であるとされ、時には父娘であるとされ、兄妹相姦あるいは父娘相姦の物語が伝えられている。大島健彦氏はその例を全国にわたって調査し、東は栃木県から西は長崎県に至る範囲内において104例を採録している。その分布を見ると、
 北関東
 北陸道
 東山道
 東海道
 山陰道
 九州
  栃木・群馬
  新潟・富山
  長野・岐阜
  静岡・愛知
  島根
  福岡・長崎・大分・熊本
  23例
   3
  48
   7
   1
  22

ただし、九州地方では、採録された22例のうち、19例までが父娘相姦であって、兄妹相姦は3例のみとなっている。なお、全国的に、母子相姦の例は全く見られない。
 なぜ九州地方にだけ父娘相姦の伝承があるのか。娘の方が父に要求するというエレクトラ・コンプレックスが前面に出てくるのかについては明らかでない。私は、これらも、もともとは兄妹相姦の伝承であったものが、近世に入って、強い罪の意識に導かれて、このような形に変形したものではなかろうかと考える。
 
 塞の神について兄妹相姦を語っている伝承の中から数例あげる。
@群馬県勢多郡粕川村月田
 美男美女の兄妹がいた。二人はそれぞれに、夫婦となるにふさわしい相手を探すために国中を歩き回る。二人がいずれも探しあぐねて再び家に帰って来た時、求めていた相手というのは、実の兄であり、実の妹であることに気付く。そして、兄妹は夫婦となった。
A栃木県上都賀郡栗野町上粕尾・下粕尾
 兄妹がいた。二人とも性器が大き過ぎて誰とも合わないので、相手を探すために、それぞれに諸国を歩き回ったが、結局どちらも良い相手が見つからなかった。そこで、兄妹同士で合わせてみたら、うまく合ったので夫婦になった。
B岐阜県吉城郡宮川村中沢上
 ある双生児の兄妹がおり、兄は旅に出て行き、妹は女郎になる。幾年か後、兄が旅先で女郎を買いに行き、美しく気立ての良い女郎を見染めて通いつめ愛し合うようになり結婚を約束した。しかし、身の上話で二人が双子兄妹であることを知り、二人は渕に身を投げて心中した。その後、この地方では双生児が生まれると、二人を別々に育てて後に夫婦にしてやると云う。

 
 では何故、塞の神の男女が兄妹にして夫婦であるとされるのか。一般には塞の神の神話的根拠となっているイザナギ・イザナミの二神が兄妹にして夫婦であるためであると考えられている。そして、この二神が性交して最初に生まれた子が蛭子(ひるこ)、次いで生まれた子が淡島で、いずれも不具の子であったのは、兄妹相姦が引き起こした遺伝的異常児の出産と考えられるとまで云われている。
 しかし、私はこのような論には、にわかには賛同し得ない。まず何よりも、世界の創世神話の中では兄妹婚はしばしば見られるところであって、何も我が国の神話のみのものではないからである。
@旧約聖書
 エホバは先ずアダムを作り、ついで、その肋骨の一つからエバを作った。従って、彼らは兄妹である。二人は結ばれて子供たちを作った。
Aギリシャ神話
 混沌から生まれた大地の女神ガイアは、その子の一人である天の神ウラノスと母子結婚して子供を生む。その子供たちは兄妹で結婚する。オケアノスとテテュス、コイオスとフォイベ、ヒューペリオンとティア、クロノスとレアである。クロノスとレアの間に生まれたゼウスとヘラも兄妹結婚する。
Bエジプト神話
 宇宙創造神アトゥムは大気の神シュー湿気の神テフヌトを生み、この二人は兄妹結婚して大地の神ゲブと天空の神ヌトの兄妹を生み、この兄妹も結婚する。その子のオシリスも妹のイシスと結婚する。
 
 中国古代の自然哲学である陰陽五行説によれば、宇宙の根源的本体である「太一(たいいつ)」(太乙)より、陰陽二元の気が生じ、この二元より木火土金水の五行が生ずるとする。このように、宇宙の原初に何らかの「一つのもの」を想定する場合は、次の段階として、その一つから正反対の特性を持つ、すなわち「陰陽の二つ」が生じたと考えるのが最も容易な考え方である。その時、陰陽の二者は同一の母の胎内から生じたものであるから、当然に同母兄妹となる。イザナギ・イザナミが兄妹であるのもこの思想によるものである。

 そして、次の段階として、その陰陽二者が結び合って諸々のものが生まれなければならないので、そこでは、同母兄妹婚が行われなければならないことになる。イザナギ・イザナミの兄妹婚もこのためである。この見地から見れば、世界の始祖伝説の中に同母兄妹婚が数多く見られるのは当然のことである。

 このことは、創世神話の中に同母兄妹婚が多く見られても、それは多分に哲学的思弁上、あるいは物語の構成上のことに過ぎず、それが直ちに、古代の社会風俗を反映したものと考えることのできないことを示している。従って、それをもって、塞の神における兄妹相姦伝承の発生の原点とすることはできない。

 
 では何故、塞の神に兄妹相姦の物語が付随するのか。それには、まずは、前提として、兄妹相姦を必ずしも社会的禁忌としない民俗的土壌が存在したと考えねばならない。この見地に立って見る時、東南アジアから我が国に及ぶ範囲では、兄妹相姦の物語がある種の明るさをもって語り継がれていることが注目される。
 
(1)我が国における例(妹背島)
 宇治拾遺物語の第56話「妹背島の事」、および今昔物語の第二十六巻第十話「土佐国妹兄、知らぬ島にゆき住めること」に、いずれも同じ内容で、土佐の妹背島の始祖物語として兄妹婚の話を記している。
 すなわち、男の子と女の子の二人の子供を持っていたある夫婦が、自分の在所から遠く離れた浦に持っている田圃の田植をするために、小舟に稲苗、食料、農具、鍋釜などを乗せ、あわせて、子供たちも家に残すことが出来ないので一緒に乗せて出かけた。そして、田圃のある村の海岸に舟を着け、子供たちを舟荷の番として船の中に残したまま、田植を手助けしてくれる人たちを集めに行っている間に、潮は満潮になり突風も吹き出して舟は沖へ押し流され吹き流されてしまう。やがて舟は南の沖の無人島に漂着する。帰るすべもない兄妹はそこで健気にも田を作り小屋を作って自活を始める。そして、兄妹は夫婦となり沢山の子供を作り、子孫が増えてゆくことになると云う物語である。
 
(2)西南諸島における例
 兄妹婚、なかんずく兄妹始祖伝説は奄美・沖縄・宮古・八重山にわたる島々のうちの幾つかで伝えられ、それらは山下欣一氏の「南西諸島の兄妹始祖説話をめぐる問題」、伊藤清司氏の「沖縄の兄妹婚説話について」などにまとめられている。
 大島健彦氏は「道祖神と地蔵」の中に「始祖に関する近親相姦の伝承一覧」を取りまとめ、南西諸島において45の事例を掲げている。その内訳は、兄妹が34例、単に男女または夫婦とするもの9例、叔母甥1例、母子1例である。仮に、単に男女または夫婦とするものも元々は兄妹ではなかろうかと考えて合計してみると兄妹関係が43例にも達することになる。例を示すと、
 @奄美大島本島
 大島を沈める大津波が来たとき、アデツ兄妹だけが山に避難して助かり夫婦になる。
 A奄美徳之島
 ウトウンジャマエー(兄妹穴)という鍾乳洞に仲の良い兄妹が住んでいた。二人は交わって多くの子供を生み、島の始祖となった。
 B八重山諸島鳩間島
 鳩間島を大津波が襲い、兄妹だけが島の高い所へ逃げて助かる。やがて津波が引き二人は里へ降りていったが、急坂で先を行く妹が石につまずいて倒れ、後を行く兄も倒れた妹につまずいて妹の上に倒れて結ばれた。妹は兄の子を生み、更に子孫が栄えた。
 
(3)沖縄における例
 これらの民俗伝承とは別に、「琉球神道記」「おもろさうし」「中山世鑑」などが語る沖縄の創世神話によると、天からアマミキュという女神とシネリキュという男神が下ってきて(あるいは、日神に島造りを命じられて)、波に漂っていた小さな島に土や草木を運んで国土を造ったと云う。二人は性の交わりは行わなかったが、それぞれの家を並べて建てたので、アマミキュは往来する風によって妊娠し、三人の子が生まれたとする。
 この物語は兄妹という言葉を避け、交合という言葉も慎重に避けてはいるが、上に述べたような諸島の兄妹始祖伝説が洗練され変容したものであることは疑いもない。
 
(4)東南アジアにおける例
 大林太良氏が「神話の話」において、それらの例を示している。
 @スラウェシのバランテ半島の神話
 原初の海水に覆われていた地上に、天神は舟型の箱にトプルとラボロリングの兄妹を裸のまま入れて天から降ろす。箱には雄鶏と雌鶏も入れられていた。やがて海水が引いて陸地が出来た時、兄妹は箱から出て、鶏が交わる様子を見て性交のことを知り、自分たちも交わって人間の始祖となった。
 Aフィリピンのルソン島のギャンガン地方のイフガオ族の神話
 洪水が引いて乾いてきた地上に、まず兄のカビガットが天から遣わされる。次いで妹のブガンが兄の所へ遣わされる、二人は性交して妹は妊娠する。
 
(5)中国南西部少数民族における例
 中国の古代神話に、伏羲という男神や女?という女神が登場する。本来彼らは何の関係もない別々の神格のものであったが、漢代末頃から、二人は夫婦であり、結婚して人類の祖先となったと考えられるようになる。ところが、この神話が中国南西地区のミャオ族・ヤオ族などに伝わると、そこでは彼らは実の兄妹で夫婦になったものと語り継がれるようになってくる。
 
 これらは始祖伝説の形をとってはいるが、兄妹が宇宙の始源の単一神から生まれたとは考えられておらず、先に述べた創世神話とは明らかに別のものである。すなわち、世界の始まりの物語ではなく、あくまで、兄妹婚ということを主題にした物語である。



しかし、このように、兄妹相姦を忌むべきものとして否定的に語るのではなく、ある種の明るさをもって肯定的に語っているは、決して世界一般のことではない。もとより、世界のほかの地域にも兄妹相姦の物語はあるが、それらは強烈な罪の意識を伴う実に暗い物語である。
 
@千夜一夜物語第11・12話
 実の妹に恋い焦がれた王子は、ひそかに墓の下の地下に広間を作り、そこで妹と愛し合う。父の王がようやくそこを発見した時、二人は神の怒りの火で焼かれて、抱き合ったまま黒こげになっていた。
Aフィンランドの民族叙事詩カレワラ
 クツレルボ(トウイレトウイネン)が野原で美しい乙女と出会い、その娘と交わるが、身元を尋ねた時、彼女が行方知れずになっていた実の妹であることを知り、妹は滝に身を投げ、彼もやがて自殺する。
B朝鮮民話1
 孫晋泰氏の「朝鮮の民話」には、大洪水が起こり、二人の兄妹だけが高い山に流れ着いて生き残ったが、二人は神意を伺うために、それぞれに雄臼と雌臼を山から転がすと、臼の両片が谷底でぴったりと重なってつながっていたので、神も特別に許し賜うものと考え、兄妹は結婚することにした。あるいは、別々の山の頂で青松葉を燃やすと、その煙が風もないのに空中で一つに合体したので結婚することにしたと云う話を記している。
C朝鮮民話2
 また、同書には、姉弟が連れだって峠を越えようとした時、俄雨で姉の単衣がぴったりと肌に張り付き、それを見て弟は急に激しく春情をもよおすが、そのことを恥じて石で自らの陰茎を打ち砕き自殺した。姉は「云えばいいのに」と悲しんだので、その峠は今も「云えばいいのに峠」と呼ばれていると云う話を記している。(これは、我が国の峠道などにある塞の神にも通じる話である)
D朝鮮民話3
 今村鞆氏は「朝鮮風俗集」に、チャンスン(長生)の由来譚を述べている。チャンスンは、我が国の塞の神と同じように村境に立てられ、天下大将軍、地下女将軍とそれぞれに書かれた男女一対の木偶のことである。張という大臣が王に「肉親の兄妹は決して交わることはない」と云い張ったので、王は「では、お前の息子と娘を深山に放せ」と命じたところ、やがて二人の間に子供が生まれる。そこで、彼らは都から追放されて死んだ。チャンスンはその魂を慰めるものである。あるいは、別の話として、張という宰相が妻を失い、淋しさのあまり娘と通じたので、王は張を処刑し、見せしめのために、その像を立てるように命じたのがチャンスンであるとする。(チャンスンは朝鮮半島における塞の神の形と考えられる。そこには、塞の神と同じように兄妹相姦の物語がからむ。しかし、何と暗い陰惨な話であることか)
 
  このように見てくると、兄妹相姦の物語は世界的に普遍的ではあるものの、深い罪悪感を伴い、そのおおむねは当事者の異常な死をもって結末する。ところが、東南アジア地域にあってのみは、それが肯定的に、微笑ましさと好感をもって語られていることが知られる。このような兄妹相姦肯定文化圏とでも云うべきものの範囲は、東南アジア全般を中心として、中国西南部、および沖縄・奄美の西南諸島を経て、我が国の本州にまで広がっているもののようである。この範囲は、ちょうど水田稲作の文化圏とほぼ一致する。あるいは、中尾佐助氏が提唱した照葉樹林文化圏、もしくは、鳥越憲三郎氏の云う倭族の文化圏と重なっていると見ることもできよう。

 
 このように兄妹相姦を肯定する文化圏の一部であるためであろうか、我が国では、その古代史の中においては兄妹婚はごく通例のことである。すなわち、父が同じであっても母が異なる兄妹、いわゆる異母兄妹の結婚は数多く見ることができる。例えば、仁徳天皇と八田皇女、履中天皇と幡梭皇女、敏達天皇と推古天皇(額田部皇女)、藤原不比等と五百重娘などを始めとして枚挙に暇もない。これは、当時は母系社会であり、妻問婚の時代であったため、子はそれぞれの母の家で生まれ、かつ、それぞれの母の下で育てられていたために、母が異なれば父が同じ兄妹でも、別の系統の他姓の人のごとく認識されていたためであろうが、それのみならず、同母兄妹の結婚と思しきものも幾つか見ることができる。
 
(1)天智天皇と間人皇后
 舒明天皇は皇后宝皇女(後の皇極・斉明天皇)との間に葛城皇子(中大兄(なかのおおえ)皇子、後の天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の3人の子を儲けた。間人皇女は軽皇子(孝徳天皇)の皇后となる。しかし、中大兄皇子と間人皇女とは相愛の仲であった。
 白雉二年の末、6年の歳月を費やして造営した難波長柄豊碕宮が完成し、孝徳天皇以下朝廷はここに移った。しかるに2年後の白雉四年には、皇太子中大兄皇子は天皇に、大和に都を遷そうと云い出す。もとより天皇は許さない。すると、中大兄皇太子は、母の皇極上皇、弟の大海人皇子、それに妹の間人皇后までをも引き連れ、群臣を引き具し、孝徳天皇一人を難波に残して勝手に大和へ移ってしまう。間人皇后は夫を捨て兄の方に従ったのである。この時、孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が、「鉗(かなき)着け 吾が飼う駒は引出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」(厩の中から引き出しもせず、いつも棒に頚をつないで大切に飼っている私の駒を、人が見たことであろう)。ここで、駒が間人皇后、人が中大兄皇子を指すことは明かであるが、これは、それだけの意味ではない。吉永登氏によると、この歌の中にある「見る」という語は、古代、男女の間で用いられる場合は「夫婦の契りを結ぶ」と云う意味であり、従って、この歌は、自分を捨てて、いま、兄中大兄に抱かれている間人への孝徳の怨みの歌であると云う。孝徳は傷心のうちに、翌五年、難波において没する。
 その後、中大兄は間人との間を結婚と云う形で表沙汰にすることは避けた。しかし、孝徳の没後、再び母皇極上皇が斉明天皇として重祚し、中大兄は引続きその後も長く皇太子のままでいたのは、天皇になると皇后を決めねばならないが、さりとて、間人を皇后にすることも出来なかったためであろうと吉永氏は推理している。
 少なくとも、中大兄と同母妹間人との兄妹相姦は当時公然の秘密であった。しかし、二人の関係は、他人の妻を犯したという意味で不倫(姦通)であり、スキャンダルではあっても、天も人も許さない禁忌を犯したものとして断罪されるものではなかったのである。
 
(2)木梨軽皇子と軽大娘
 允恭天皇の子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)とその同母妹軽大娘(かるのおおいらつめ)(軽大郎女)との相姦はよく知られているところである。木梨軽皇子について日本書紀は「容姿佳麗、見る者おのずから感ず」と記して美男子であったと述べ、軽大娘についても「また艶妙」と記し美人であったとする。日本書紀は二人の相姦は露見し、軽大娘は伊予の国に流刑になる。木梨軽皇子は皇太子であったので罪せられなかったが、群臣の心は彼から離れてゆき、やがて允恭が没した時、穴穂(あなほ)皇子(後の安康天皇)に囲まれて自殺したと述べる。古事記は露見は允恭が没した直後のこととし、木梨軽皇子は穴穂皇子に囲まれて捕らえられ伊予の国へ流されるが、軽大娘は彼を流刑先の伊予まで追って行き、そこで心中自殺したとする。
 近親相姦を論ずる場合、この史談をもって、我が国においては古代より同母兄妹婚は禁忌であったと述べるのが一般であるが、私はこのような論には疑問を差し挟まざるを得ない。
 それと云うのも、木梨軽皇子を死に追いやった穴穂皇子自身が同母姉弟婚をしているからである。すなわち、古事記によると、穴穂皇子はやがて皇位につくと、父の異母弟の大草香皇子を殺して、その妃となっていた同母姉の長田大郎女を奪って皇后にするという挙に出ているからである。日本書紀の方は、大草香の妃であった女性を従妹にあたる中磯(なかし)皇女であったとして同母姉弟ではなかったようにしているが、そのために各所に不自然な点がちらついている。大草香皇子が同母妹(幡梭(はたひ)皇女)の娘(中磯皇女)を妻とする不自然は有り得ないことではないとしても、弟(雄略天皇)が兄(安康天皇)の妻(中磯皇女)の母(幡梭皇女)を妻とするという決定的な不自然さになっている。
 従って、私には、この話は穴穂による木梨軽皇子殺害と皇位継承を正当化するための意図をはらんだもののように思われる。木梨軽皇子と軽大娘が深く愛し合ったことは事実であろう。しかし、当時は同母兄妹の相姦といえども社会的地位を全て失うまでの強烈な禁忌ではなかったのではあるまいか。
 
(3)崇神天皇と御間城姫
 我が国の古代史の中に、兄妹婚とはどこにも書いてないし、また、そうでないように記しているが、どうも、兄妹婚ではないかと思われる事例が、崇神天皇(紀では御間城入彦(みまきいりひこ)五十瓊殖(いにえ)、記では御真木入日子印恵)と、その正妃(紀では御間城姫(みまきひめ)、記では御真津比売)とである。記紀はいずれも、姫を大彦の娘としている。大彦は崇神にとっては伯父に当たるから、これは従兄妹婚である。しかし、古事記は他方で崇神の父である開化天皇の段で、御真木入日子印恵と御真津比売を同母の兄妹としている。そして、大彦の子孫について記した孝元天皇の段の記述の中には御真津比売は記されていない。
 そもそも、同母の子たちには類似した命名が行われるものである。 欝色雄(うつしこお)−欝色謎(うつしこめ)、伊香色雄(いかがしこお)−伊香色謎(いかがしこめ)、豊城入彦(とよきいりひこ)−豊鍬入姫(とよすきいりひめ)、狭穂彦(さほひこ)−狭穂姫(さほひめ)など、例示に事欠かない。これらから見れば、御間城入彦と御間城姫は同母兄妹に違いない。
 結局、記紀の編者は、兄妹婚を忌避しようとして作為しながらも、開化記において消去し忘れて、馬脚を現してしまったものではないかと感じられるのである。そして、我が国古代においては兄妹婚はさほどの禁忌ではなかったのではないかと思わせるのである。
 
 このように、我が国古代においては、異母兄妹間の結婚はもとより、同母兄妹間の結婚といえども必ずしも禁忌ではなかったと思わせるものが、 延喜式巻八神祗八祝詞が記す大祓の神事の祝詞の中にもある。そこでは、「国つ罪とは、-------おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪、-------」と述べている。すなわち、母子相姦、父娘相姦は獣姦などと並ぶほどの罪であると云うが、兄妹については、異母兄妹はもとより、同母兄妹の相姦についても、何ら罪として数えていないことが注目される。

 
 このことを、さらに強く感じさせるものが、「いもせ」(妹背)という言葉である。
 「いも」という語には、(1)女のきょうだい(姉・妹)、(2)妻、の2つの意味がある。「せ」という語にも、(1)男のきょうだい(兄・弟)、(2)夫、の2つの意味がある。従って、「いもせ」には、(1)兄と妹、あるいは姉と弟、(2)夫婦、の2つの意味がある。
 すなわち、我が国においては古い時代、兄弟姉妹と夫婦とは区別されることのない同一の概念である。
 記号論が示すところによると、人間は事象を不連続に分節する時に、それぞれの分節にコード(記号)、すなわち名前をつける。例えば、一日の連続した時間の流れを二つに分割して、それぞれに「ヒル」「ヨル」と云う名前をつけるのは、「ヒル」と「ヨル」とが区別されるべき別のものであると考えられているからに他ならない。区別する必要がなければ別々の名前(記号)はつけず、同じ名前で呼ばれる。従って、現在、兄弟姉妹と夫婦とが別の言葉で表されているということは、兄弟姉妹と夫婦とが区別されるべき全く別のものであると考えられているからである。しかし、古代において、兄弟姉妹と夫婦が別の語で表されるのではなく、どちらもが同じ「いもせ」と云う言葉で表されていたと云うことは、それらが区別する必要のない同じものであったと云うことに他ならない。このことは、現代では禁忌とされている兄妹・姉弟の間の性的関係も、夫婦間と同じように、何等妨げられるものではなかっことを示している。

 
 この考えを更に傍証すると思われるのが、奄美・沖縄に伝わる「オナリ神」信仰である。
女性である姉妹を「オナリ」と呼び、男性である兄弟を「エケリ」と呼ぶ。そして、「オナリ」は「エケリ」を守護する霊力を持っているという信仰である。姉妹は兄弟の守護神である。従って、男が航海に出る時、そのオナリは自らが作った手帛(テサジ)や、あるいは自らの髪の毛を男に持たせる。
 小野重朗氏によると「おもろさうし」の中の恋歌13首のうち、半数の6首がオナリとエケリの恋を主題にしたものであると云う。その中には、航海する船にオナリが美しい蝶になり、あるいは白い鳥になってとまり、その航海を護ってくれると云うものもあると云う。
 谷川健一氏は「日本の神々」の後書に、久高島におけるオナリとエケリの成婚の儀式について報告している。それによると、「イザーホー」の祭で霊力(セヂ)を身に着けたオナリは、祭の後、家に帰り表座敷でエケリと向き合って座り、エケリと神酒の盃を取り交わし、庭先では神女たちが祝婚歌を歌うと云う。それは夫婦の結婚の式と何等変わるものではない。
 
(3)塞の神における兄妹相姦の意味
 
 
 いよいよ本論に入る。双体道祖神における男女が何故夫婦にして兄妹であるとされるのかと云う理由についての私見を述べるべき段階に入った。
 
 このようにして、我が国においては、兄妹と夫婦とは本来は分離されない同一の概念であったが、それだけでは、なお、双体道祖神において兄妹相姦の物語が語られる理由を説明するには不十分である。これを説明するには記号論が示す境界領域の特性を考えねばなるまい。
 記号論が論ずるところによると、人間はアナログ的に連続した事象を言葉(記号)によって不連続に分節する。例えば、連続した一日の時間を「ヒル」と「ヨル」と云う言葉(記号)によって不連続に区切る。このように区分した時、そこに生ずる境界領域は、どちらにも属し、しかも、どちらにも属さない曖昧なものとなってくる。「ヒル」と「ヨル」との境界は「たそがれ」であり「しののめ」であるが、それらは「ヒル」でもなく「ヨル」でもない。このような区切りの境界領域は「記号化し得ないもの」「どこにも所属しないもの」であるため、社会の秩序を保つためには社会の表層に置くことができない。そこで、「聖なるもの」として祭り上げるか、もしくは「不吉なもの」として禁忌の対象となる。このようにして「たそがれ」は「逢魔の刻(おうまのとき)」となり、「しののめ」は暁の女神エオスの支配する神聖なる時刻となる。
 境界領域に神聖と不吉の両方が持たされる例も多い。人と魚との境界領域である人魚は、洋の東西を問わず不吉なものとされると共に、その肉は不老長寿の霊薬とされる。コウモリは哺乳類と鳥との境界流域の存在であるため、魔女に随伴する不吉なものと考える一方では、神のお使いと考えられる。このように境界領域は並のものとは異なった特別のものであり、そこには特別な性格が付与される。
 
 先に述べたように「いもせ」と云う言葉が、兄妹(姉弟)という意味と、夫婦という意味との2つの意味を持つことから考えて、古くは兄妹(姉弟)と夫婦とは区分されることのない同一の概念であった。その連続したものに一つの区切線が引かれて、兄妹(姉弟)と夫婦とが分割されることになった時、分割線が作った境界領域にあるものが兄妹婚である。これは夫婦であると同時に兄妹であるという両義的存在であって、どちらにも属し、しかも、どちらにも属さない。兄妹婚は一つの境界領域の存在である。
 他方、塞の神が祀られる場所は、内なる村落と外なる外界との境界である。日々の生活を営む親しみある村落共同体と、異様なるものも棲むべき異界との境界である。それは、地蔵菩薩が立ち給う、この世とあの世、此岸と彼岸との境界と同じである。塞の神の祀られる場所もまた一つの境界領域である。
 このようにして、兄妹婚も塞の神もいずれも境界領域にある特別な存在であることにおいて両者は一致する。塞の神が兄妹婚の夫婦であるとされるのは、このためであると考えられる。
 
 先に述べたように、境界領域にある存在には「神聖」もしくは/および「不吉」という特別な性格が付与される。塞の神も兄妹婚も神聖さと不吉さを備えている。塞の神が祀られる村落の境界は、「ひだる神」や「産女」などの妖怪たちがしばしば姿を現す忌むべき空間であり、塞の神がそこに置かれるのは、そのような境界を浄化し鎮護するためであると云えるが、同時にそこは、「神」を祀る神聖な場所でもある。
 他方、兄妹婚は、忌むべき不吉なものとしてタブー視されるが、同時に、それは聖なる結婚「聖婚」のイメージをも持つ。エジプトのプトレマイオス王朝では伝統的に兄妹または姉弟が夫婦となった。それは、この王家にのみ許された神聖なるものと考えられたからである。最後の女王となったクレオパトラ7世も、その弟プトレマイオス13世と夫婦になる。
 このように、塞の神も兄妹婚も、いずれも神聖さと不吉さという境界領域特有の属性を持っており、この点においても両者は一致する。塞の神が兄妹婚の夫婦であるとされるのは、このためである重ねて云うことができよう。
 更に、こんなことも云えるかも知れない。冒頭にも述べたように、塞の神には@境界守護とA夫婦和合との二つの性格があるが、時代とともに婚姻形態が変わってゆき、「クナド神」の言葉の由来がもはや完全に忘れ去られた時、人々は塞の神の持つこの二つの性格が余りにも相互に異質であることを感じて、その二つの性格を関連させ整合させるために「兄妹相姦」ということを無意識の中で描き出したのではあるまいか。それは意識的な知的操作ではありえず、無意識の中での感覚的操作であろうが、このように操作した時、両者が整合することを感じて心の中で安心したのではあるまいかと。
                                (完)

 
(参考文献)
・谷川健一『魔の系譜』(講談社学術文庫)講談社、1984年。
・谷川健一『日本の神々』(岩波新書)岩波書店、1999年。
・大林太良『神話の話』(講談社学術文庫)講談社、1979年。
・柳田国男「石神問答」『柳田国男全集15』(ちくま文庫)筑摩書房、1990年。
・柳田国男「日本の伝説」『柳田国男全集25』(ちくま文庫)筑摩書房、1990年。
・柳田国男「橋姫」「一目小僧その他」『柳田国男全集7』筑摩書房、1998年。
・柳田国男「妹の力」『柳田国男全集11』(ちくま文庫)筑摩書房、1990年。
・高群逸枝『日本婚姻史 』(日本歴史新書)至文堂、1963年。
・大島健彦校注・訳『御伽草子集』(完訳日本の古典49)小学館、1983年。
・大島健彦校注『宇治拾遺物語』(新潮日本古典集成)新潮社、1985年。
・大島健彦『道祖神と地蔵』三弥井書店、1992年。
・黒岩勝美編『交代式、弘仁式、延喜式前編』(増補新訂国史大系)吉川弘文館、1973年。
・山田孝雄他校注『今昔物語四』(日本古典文学大系25)岩波書店、1962年。
・伊波普猷「をなり神」『をなり神の島1』(東洋文庫)平凡社、1973年。
・小泉保『カレワラ神話と日本神話』(NHKブックス)日本放送出版協会、1999年。
・孫晋泰『朝鮮の民話』(民俗民芸双書)岩崎美術社、1974年。
・『千一夜物語1』(世界古典文学全集31)筑摩書房、1964年。
・高辻正基『記号とはなにか』(ブルーバックス)講談社、1985年。

掲載誌は、「生活文化史」40号、日本生活文化史学会、2001年9月


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