暮しの手帖 『井筒さんとバードハウス』
1950年池田勇人蔵相は中小企業の倒産も止む無しと発言、雑誌の休、廃刊は511件に及んだ。東京は見渡す限り焼野原、米穀は配給制度、学生たちは戦争協力の矛盾を感じながら、「朝鮮戦争で使用する砂袋」の製作、「朝鮮戦争で戦死した米兵の死体処理」などのアルバイトをしながら「形而上学諸問題」の講義を聴き、アルバイトで得た収入でヘーゲルの「エンチクロペデイア」を購入したのである。こうした時代背景の中にあって「暮らしの手帖」は1958年のサンデー毎日(加藤秀俊データベース)によれば「現在の発行部数七十万あまり、この読者数はおどろくべきものだ」とある。
〜 『暮しの手帖』社創業の時代 〜
『暮しの手帖』社は、敗戦翌年の昭和21年(1946)日本読書新聞のOLだった大橋鎭子と花森安治がコンビで銀座に創業した衣装研究所がその始まりだった。
私が生れたのは福島、自由学園の創始者羽仁もと子に心酔していた母は『婦人の友』の愛読者であり、師範学校付属小学校の級友たちは『少年倶楽部』を読んでいたが、母は、私には婦人の友社発行の『子供の友』以外は買ってくれなかった。勿論母は『婦人倶楽部』などは見向きもしなかった。そして、戦後の我が家に現れたのが『暮しの手帖』の前身『スタイルブック』であり、その後の『暮しの手帖』だった。昭和24年(1949)ユネスコは日本文化紹介のため雑誌を世界に送ったが、奇しくも、婦人雑誌の中から選ばれたのが、『婦人の友』であり、『暮しの手帖』だった。
私は、昭和25年(1950)地元の福島経済専門学校(現福島大学経済学部)を卒業、福島民友新聞の記者となるも、飽き足らず、翌昭和26年(1951)青山学院文学部英米文学科に再入学をした。東京での初めての生活は、神田駅前の父の関係していた会社の焼けビルの屋上に建てられた掘立小屋であった。
『暮しの手帖』躍進の因は、種々あげられているが、類まれな花森安治のデザインセンス、正義観、そして並外れた大橋鎭子の事業感覚と人間関係・・・大橋鎭子は『「暮しの手帖」と私』と題する平成22年、90歳で出版した自著の中で”学者や研究者、作家、映画監督、マスコミの人たちに、ご専門についてではなく「暮らし」について書いてもらう、というのが、花森さんの考え方でした。原稿をお願いにあがったのは主に私と妹でした”とさりげなく書いている。この考え方こそ、競争が激しい、浮き沈みの多い出版界で『暮しの手帖』が今日存在する要因の一つであると言えるだろう。
当時の学生生活を如実に物語るのは、財団法人学徒援護会が全国の学生に募集した『わが大学にある日々は〜アルバイト学生の手記』である。学徒援護会は1945年文部大臣を会長とする動員学徒援護会がその始まりであり、1947年に財団法人学徒援護会と改称、敗戦後の混乱から生活に困窮する学生、生徒を支援する事業をおこなっていた。「アルバイト学生の手記」募集はA4一枚に書かれた印刷物を、各大学が学生課の入り口に張り出すといった簡単なものであったが、全国から353編の手記が寄せられた。そして、その中の28編が選ばれ、国土社から『わが大学にある日々は』と題して出版された。
早稲田大学法学部のBさんは、映画のエキストラのヤクザ役、同じく早稲田大学文学部のWさんは「朝鮮戦線で用いる砂袋作り」、東京大学経済学部のS子さんは「競輪場のアナウンサー」、早稲田大学仏文科のSさんは「学用品、日用品」の押し売り販売、早稲田大学文学部のSさんは「国立予防衛生研究所の伝染性下痢症患者の菌を濾過したビールスの実験体〜モルモット」、早稲田大学文学部のI子さんは「製薬会社への売血」、一橋大学大学院のKさんは「売血」、都立大学理学部のYさんは「終日出るように仕組まれたパチンコ台で玉を出すパチンコヤのサクラ役」、慶応大学法学部のCさんは、「薬品会社の外交販売員」、東京女子大のK子さんは「たばこの宣伝アナウンサー」、多摩美大のHさんは渋谷ハチ公前で映画のサンドイッチマン」・・・・選者は「結果的にみると東京の学生にかぎられてしまったが別に意図のあることではない」と巻末で述べているが、地方にはアルバイトの口が全くなかったというのが実情だろう。
実は、私もクラスメートFさんの朝鮮戦線の米兵と交際している進歩的女性の恋文翻訳アルバイトと、私の日常生活を中心としたレポートを、エドモン・ロスタン(1868〜1918)の醜悪な容貌の男が、眉目秀麗だが、ことば貧しく、その恋心を打ち明けるすべを知らないの友のために、恋文を代書する韻文戯曲の主人公シラノ・ド・ベルジュラックに倣い「シラノ・ド・ベルジュラック」と題し寄稿した。『近代文学』の創刊者の一人であり文芸評論家だった荒正人(1913〜79)は解説の中で『「シラノ・ド・ベルジュラック」(井筒明夫)は、異邦人と交際している進歩的な女性のラヴレターの翻訳と代書と云う珍しい仕事をやっている。健全とか不健全と云ったことは、ここでは問題にもなるまい。それでいいのだと思う。自炊、下宿、外食、寮生活と4つの種類の生活をやってみて、最後のものが一番安上がりだと云っているのは、当然のことであるが、学校当局にとっての緊急の課題である。ただし、自炊生活の献立表が出ているのは、もしこれが何人かの共同生活であったならば、いっそう安上がりにゆくのではないかと考えさせるのである。アルバイトといえば、金を稼ぐだけで終わるのではなく、その稼いだ金の合理的な使用方法も、二次的には当然含まれているのである。その点で、この手記には、他にみられぬ特徴を持っている。生活の技術ということに工夫がなされている』と評している。
「わが大学に在る日々は」は元日本放送作家協会会長 阿木翁介(1912〜2002)が脚本を書き、読売ホールで劇団「東芸」が公演、更に新東宝が、鈴木英夫監督、製作野坂和馬がオムニバス映画として発表するなど、当時の世相を象徴する本であった。
『暮しの手帖』第一世紀15号で21歳の学生のエッセー「自炊も楽し」を取り上げていただき、更に60年ぶりに,この雑誌に「井筒さんとバードハウス」と題して取り上げていただき感無量である。(Feb. 1, 2012)