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選り抜き殷本紀(未完)

参考:「史記」殷本紀


略系図

帝天乙(1)太丁帝太甲(4)帝沃丁(5)
帝外丙(2)帝太庚(6)帝小甲(7)
帝中壬(3)帝雍己(8)
帝太戊(9)
 
 
帝仲丁(10)帝祖乙(13)帝祖辛(14)帝祖丁(16)帝陽甲(18)
帝外壬(11)帝沃甲(15)帝南庚(17)帝盤庚(19)
帝河亶甲(12)帝小辛(20)
帝小乙(21)
 
 
帝武丁(22)帝祖庚(23)
帝祖甲(24)帝廩辛(25)
帝庚丁(26)帝武乙(27)
 
 
帝文丁(28)帝乙(29)帝辛(30)

 ピンク地の九代は、嫡子相続の軽視により乱れたとされる部分。帝陽甲参照。
 アクア地の12代は、所謂殷代後期にあたる部分。出土の甲骨文字群は、この時期の第一次史料(同時代史料)である。


 帝乙、帝辛については、別項殷末三代に譲ります。

 殷本紀中になにがしかのコメント(即位記事「帝○○立(即位)。」と崩御記事「○○崩。」以外の文章)がある諸帝は、全てピックアップしました。以下に「(全文)」とあるのは、殷本紀中の関連記事を全て抜粋してあるという意味です。(逆に言えば、在世中の記事がこれしか収録されていない、というコトです。(笑))
 つまり、マトモに取り上げられているのは、六帝しかいないんですね。あはは。


第1代 帝天乙(成湯)

 所謂湯王。亳に遷都し、善政を敷いた。を討って天子となった。

 ※詳細は後日追記予定。


第4代 帝太甲(太宗)

 帝天乙同様に、賢臣伊尹の補弼を受けて善政を敷いた。

 ※詳細は後日追記予定。


第5代 帝沃丁

 彼の時に賢臣伊尹は亡くなった。咎単伊尹の事績をまとめ「沃丁」を著し教訓としたという。
 cf.「帝沃丁之時、伊尹卒。既葬伊尹於亳、咎単遂訓伊尹事、作沃丁。」(全文)


第8代 帝雍己

 彼の代で、王朝は一度衰える。 cf.「殷道衰、諸侯或不至。」(全文)


第9代 帝太戊(中宗)

 立派なヒトだった。(ぉぃぉぃ

 ※詳細は後日追記予定。


第10代 帝仲丁

 河北のgouの地に遷都した。
 ※gou→阜偏敖旁
 古本「竹書紀年」によればとも。


第12代 帝河亶甲

 帝仲丁が遷都した時、に居た。
 彼の在位時に、殷は再び衰えたらしい。 cf.「河亶甲時、殷復衰。」(全文)
 古本「竹書紀年」によればに遷都したらしい。


第13代 帝祖乙

 帝仲丁が遷都した時、に遷った。即位後に遷都したか否かは、殷本紀からは窺い知ることはできない。
 彼の時に巫賢なる賢臣の補佐を得て復興を果たしている。 cf.「帝祖乙立、殷復興。巫賢任職。」(全文)


第18代 帝陽甲

 帝祖乙の一時復興こそあれ、総じて殷は衰亡傾向にあったらしい。これは、帝仲丁から帝陽甲までの九代にわたり、嫡子後継が機能せず、叔父(故帝の兄弟)と子(故帝の息子)が相争う形勢が続いたため。結果、ついには諸侯からの入朝(朝見)も無くなってしまった。
 cf.「帝陽甲之時殷衰。自仲丁以来、廃適而更立諸弟子。弟子或争、相代立。比九世乱。於是諸侯莫朝。」(全文)


第19代 帝盤庚

 立派なヒトだった。(ぉぃぉぃ

 ※詳細は後日追記予定。


第20代 帝小辛

 彼の時、早速衰えだしている。百官は先代(帝盤庚)を慕って「盤庚」三編を著したという。
 cf.「帝小辛立、殷復衰。百姓思盤庚、廼作盤庚三篇。」(全文)
 しかし「盤庚」三編は帝盤庚存命中の記事とされ、「史記」の記述には疑義がある。


第22代 帝武丁(高宗)

 立派なヒトだった。(ぉぃぉぃ

 ※詳細は後日追記予定。


第24代 帝祖甲

 彼は人間性に問題があったらしく、殷はまた衰えたらしい。 cf.「帝祖甲淫乱、殷復衰。」(全文)


第27代 帝武乙

 (原文)
 帝武乙無道。為偶人、謂之天神。與之博、令人為行。天神不勝、乃僇辱之。為革嚢盛血、仰而射之、命曰射天。武乙猟于河渭水之間。暴雷、武乙震死。(全文)

 (意訳)
 帝武乙は、人形を作って「天神」と名付け、天神人形の代理人を立てて、彼と博打を打った。天神が負けると侮辱して愉しんだと言う。また、革袋に血を入れて、仰いでこれを射て、「儂は天を射たぞ」と言ってのけたという。
 (※この「仰いで」が良くわからん。革袋は天神人形にセットしたのか、それとも、全く別の文章で、高いところに吊したのか。ふむぅ。)
 武乙は、黄河と渭水の間で狩猟を催した際、突然に雷に打たれて死亡した。


第28代 帝文丁

 「史記」殷本紀では帝太丁と記載がある。しかし殷の聖天子湯王の太子も太丁として知られており、帝文丁の誤りと考えられている。



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