大吉のおみくじとラウラ

             ○ 2008年
 2日に墓参りと初詣、墓参りは富士川町、丸子の自宅からはバイパスを主に使って一時間の距離だ。私の生まれ故郷である。私が親父の墓を作って埋葬してある。親父の兄弟、姉妹や先祖代々の墓も同じ場所にある。寂しくないと思う。この地は、一号線の富士川橋の延長上の丘の上にあるので、風向は大変明媚にして、壮観である。ここへくるたびに、気持ちが洗われる気がする。お盆やお彼岸に来れないので、正月には必ず行くようにしている。今回ははじめてアルノさんが同行した。私にとっては子供のころから見慣れた富士山、当たり前の風景である。

 帰り道、旧東海道の由比で広重美術館に寄ったり、本陣跡で茶の湯を体験した。外国人にとっては大変ラッキーだったと思う。
 また、薩(さった)峠も案内した。ここからの景色は、よく報道でも紹介される場所で、バイパス、東名高速道路、東海道本線を眼下にし、駿河(surga)湾、富士山、愛鷹(あしたか)山、伊豆半島を全貌できる。江戸時代はどうしてもここを通らなければならなかった難所だったが、この絶景にしばし、心が和んだのではないでしょうか、興津付近の海を清見潟(きよみがた)といい。この辺りにあるお寺、清見(せいけん)寺は朝鮮通信使も立ち寄ったということで、有名です。前後が興津と由比に宿場である。多くの散策観光客に出会った。

 

 午後は静岡の浅間神社へ初詣によった。大変な混雑よう、私は何十年ぶりか中学生のころ行ったきりであるが、浅間さんは中学校が西麓、高校が東麓だったので、六年間、百段にはほぼ毎日のように走ってきていた。時には臨済寺の裏山から降りて、高校まで帰ったこともあった。自分の庭のような気持ちでいた。そのころ、自分の将来について考えてはいたが、まさか、私がインドネシアからきてドイツから来た孫たちと初詣に来るとはまったく想定外であった。
 混雑振りにはアルノ君、びっくりだったが、日本の新年の習慣に参加できたことと、浅間神社のたたずまい(建築)にはなにかと驚きを感じていたようだった。また、着物姿のカップルに目を引かれたようだった。

生まれ故郷の富士川町の富士山

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 30日は典型的な冬型の気圧配置になり、静岡地方は強風ながら、快晴。この日を逃しては次のチャンスは滞在中にあるかどうかわからないので、急遽、日本平と久能山東照宮へつれてゆく
事にした。
 まず、久能海岸のイチゴハウスでイチゴ狩りをすることにした。これが、味噌のつけ始め、1月1日からオープンと全園が閉まっていた。客集めの手段なのでしょう。一番お客さんが来るときにもうイチゴがないでは商売にならないからでしょう。
 孫二人が非常に楽しみにしていて、期待させ、裏切られて、落胆し、大泣きされた。日本平からの景色は駿河湾、清水港は絶景だったが、肝心の富士山があるはずの方向は雲だけ。ロープウエーで久能山東照宮に行き、お参りをし、駿河湾の写真を撮り、戻ってきたのが一時間半後、再び展望台から富士山を眺めようとしたが、さっきと同じ、富士山だけなかった。
婿殿に、再挑戦を約束する。

28 12 2007
〜06 01 2008

最終日4日は、県立総合病院で、何の障害も不安もないことを報告した後、パニック障害の薬の処方をしてもらった。その折、半年くらい前から空腹時におなかが痛み、近所の胃腸外科でカメラで検査し、異常なし、その後、いろいろな種類の薬を試したが、一向に治る気配がないことを話したら、それも、神経性のものだといわれた。90日分の胃薬を処方してもらった。今度、帰国するときまでには治っているはずだとも言われた。そう願いたいものであると思ったが、その日、病院からの車の中で処方された薬を飲んだら、治ってしまった。六日の今日も空腹でも気持ちが悪くならない。一種の催眠療法に引っかかっている気配もあるが、治るならそれでもいい。病は気からだと思いたくないが、どうもそうらしい。
 
 その夜、すき焼きを娘夫婦がご馳走してくれた。

5日、早朝6時20分家をでた。成田まで一緒で、私は第二の車内で皆と別れた。私はジャカルタへ彼らはドイツへ出発した。

この二週間余りの日々は、夢幻のように過ぎ去ってしまった。下の孫、眞弓アンジェリーナからもらった頬の引っかき傷以外はすべて消えてしまった。ジャカルタを出発するときの期待感はその通りの経過と結果を辿った。何の不満はないし、不足もない。しかし、すでに過去のものになってしまい、現実には、今はすべて消え去った。望めば、また、いつかは、巡ってくる状況ではあるが、今はない。

ジャカルタに到着し、むっとした暑さを感じたときから、また、新生活を再突入した。明日から現実が待っている。納期が限られた試作が待っている。また、インドネシアでの時間が動き出した。

親がいなければいないで、じいちゃんばあちゃんとなんとなく仲良くできるものだ。両親が帰ってきても、しばらくは飛びつかなかったが、やがて、思い出し、やはりべったりに戻ったが、明らかに、彼等が旅行に出かける前とは違って全体を手分けしてできるようになった。
 
 会話は日本語、英語、ドイツ語そして時々インドネシア語が出てしまう。二歳半の上の子は日本語とドイツ語でする。まったく不自由なし、妻はドイツ語の猛勉強をしていたので、娘の手伝いをあまり頼ることなく、話している。私はドイツ語はほとんどだめなので英語が多くなってしまう。


○  日本へ一時帰国 2007年末

12月21日真夜中ジャカルタ発、22日から1月5日まで日本滞在。今回の一時帰国は、藤沢電工本社訪問やいろいろ必需品の購入や手配のためではあるが、なんといっても主目的は家族が家に集合し、全員で正月を迎えることだ。

孫あり遠方より来る。私も遠方から日本へ戻る。成田第一ターミナルで集合である。私は12月22日朝8時半過、成田第二に到着、早速成田第一へ向かう。ブリティッシュ、エアーウエーでドイツからロンドン経由で孫達が日本へ来る。それにあわせて、インドネシアから戻ったのでした。11時、第一に彼らが到着した。彼等は13時間、私は7時間の空路だった。彼女たちは一年ぶりの日本、私と会うのは5ヶ月ぶりだった。

 一緒に成田エックスプレスに乗り、新幹線で、静岡に到着。15:00を過ぎていた。上の優季子は静岡の家を覚えていたようだった。タクシーを下りてすぐ“じいちゃんち”と言った。早速、24日から、娘夫婦は日本国内旅行に出かけてしまった。孫、二人を置いてである。部屋中、荒らすし、夜はなかなか寝ないし、きゃあぎゃあ大きな声で泣き叫ぶし、最初は往生したが、三日目ごろから、家の雰囲気にも慣れたろうし、時差ぼけも解消したようで、まともな生活時間になってきた。私は私で、厚木や名古屋へ出掛けたので、妻は一人きりで大変だったろうと思う。しかし、限定された日々なので、楽しみのほうが多く、苦情はなにも言っていなかった。
 27日、PT.AFMIに導入する装置についての打ち合わせなどで、名古屋から戻って、これを書いているが、妻と上の孫は近くの公園へ遊びに出かけていない。下の孫は私の眼の前の廊下で、昼寝をしている。静かな落ち着いた世界である。
しばらくして起きてしまったが、泣かなかった。

 

峠から東海道本線、東名高速道路、バイパス、そして富士山

富士川と富士山と愛鷹(あしたか)山麓

先祖代々の墓から富士山

帰る途中、スーパーへ寄って、いちごを買ったことは書くまでもない。ドイツには甘いイチゴがまったくないので、かぶりつくように手掴みで彼女らは食べる。その後も日本を離れるまで、毎日イチゴを食べ続けた

 娘夫婦は28日の夜、帰ってきた。せっかくおとなしくしていた孫たちが、パパ、ママを見たとたんに、泣きながら、へばりつき、片時も離れようとしない。せっかく、一週間でやっと慣れたのに、孫の心、じいちゃんばあちゃんの心知らずである。
 広島(宮島)から京都、静岡を通り過ぎて東京まで行ってきたらしい。何もかもが感動の連続だったとか、秋葉原がクレ−ジーだと言っていた。
 我が家のハイテクトイレから風呂場まで感動し、写真を撮り、マックスバリューをマメージィングパークだと言い、回転寿司に驚き、なんのこっちゃという感じ。ユーロ高で、日本の方が何でも安い、デジカメのバッテリーやDVD−RAMを大量購入してきた。
 
 彼らが次に来るのはいつになるかわからないからと妻がコーディネートして、写真館で全員写真を撮ることにした。こういうことをしたことがない私とアルノは興味がなかったが、女二人は興奮気味だった。そんなものでしょうか。