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| 26/Apr./2012 プラトンの幸福論 7 国家と正義 ソクラテスは個人の正義を論じるかわりに国家の正義について考えようと提案します。なぜなら国家と個人のあいだには完全なアナロジーが成立し、国家の正義は個人の正義が大文字で書かれたようなものであるからです。そこでソクラテスはかれの国家の建設にとりかかります。最初に建設される国家は、市民それぞれがそれぞれの仕事を分担し「穀物や葡萄酒や、衣服や履物を作って暮らすのではないかね。そして家を建てて、夏はたいてい裸・素足で、冬はたっぷりと着こみ履物も履いて、働くことだろう。身を養う食べものとしては、大麦から大麦粉を、小麦からは小麦粉をつくって、それに火を通し、あるいはそのまま捏ね固めて、出来上がったお上品な菓子(生パン)やパンを、葦やきれいな木のは葉のうえに盛りつけて出すだろう。蔓草や桃金嬢(てんにんか)を敷いてつくった床の上に身を横たえて、自分も子供たちも楽しく食べ、そのあとで葡萄酒を飲み、頭には花の冠をいただいて神々を賛美しながら、お互いに楽しくいっしょに暮らすことだろう。貧乏や戦争のことを気づかうがゆえに、自分の分不相応に子供の数をふやすことなく」暮すような、つつましいながら、平和で健康な国家です。 そのような国家にたいし、グラウコンはそれは豚の国家ではないのかとひやかします。そして、考えなければならないのは要するに「彼らがみじめな思いをすべきでないとすれば、ちゃんと寝椅子の上に横になり、食卓について食事をし、そして現在の人々が食べているような料理やデザートを食べる」アテナイのような国家についてではないのかと提唱します。 プラトンはそのような国家を贅沢な熱でふくれあがった「もはや必要のためにに国々のなかに存在するのではないようなさまざまなものを、数・量ともにいっぱいに詰めこまねばならない」国家とよびます。このような国家は大きな領土を必要とし、戦争の原因ともなりかねません。しかしそれが現実の国家であり、あの小さな国家はいかに健康な国家であれ魂のない国家にすぎません。まさに豚の国家であるのです。したがって熱でふくれあがった不健康な国家に、いかにして健康を回復させるかが、まさに、プラトンの関心事となるのです。 |
| 29/Mar./2012 プラトンの幸福論 6 徳と正義の問題 2 しかしもしギュゲスの指輪、適当な時にその姿を消すことによってなんでも手に入れることができる指輪が二つあったとして「その一つを正しい人が、他の一つを不正な人がはめる」としましょう。それでもなお正しい人が正義のうちにとどまることができる正義とはどのようなものでしょうか。けっきょく正義とは「個人的には善いものではなく・・・すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えて・・・誰しも、自分が不正をはたらくことができると思った場合には、きっと不正をはたらく」のではないでしょうか。 引用があまり長くなるのを避けて、プラトンのことばをできるかぎり生かしながら、わたくしなりにまとめますが、完全に不正な人間は最大の悪事をはたらきながら、正義にかけては最大の評判を確保できる人であると考えざるをえないでしょう。そのためには雄弁の能力も必要でしょう。また味方と金を用意することによって相手を押さえつけるだけの実力も持っていなければならないでしょう。いっぽうかれが完全に正しい人であるならば何一つ不正を働かないのに不正であるという最大の悪評を受けるものでなければなりません。そうでなければ、かれが正しい人であるのは〈正義〉そのもののためか、それとも正義であるという評判からくる褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。そのように完全に正しい人は鞭打たれ、拷問にかけられ、縛りあげられ、両目を焼かれてくり抜かれ、あげくの果てにありとあらゆる責苦を受けたすえ、磔にされけっきょく正しくあることではなく、正しくおもわれることをこそ望むべきだと思い知らされることだろうというのです。 グラウコンの兄アデイマントスが弟のことばを補うかたちでいいます。節制や正義はたしかに美しい。しかしそれは困難で骨の折れるものであり、放埓や不正は快いもので、たやすく自分のものとなる。それが醜いとされるのは世間の思惑と法律・習慣のうえのことにすぎないといわれているのだから、そこでぜひ〈正義〉は〈不正〉にまさるということを言葉のうえで示すだけでなく、それぞれは神々と人間に気づかれる、気づかれないにかかわらず、それ自体としてそれ自身の力だけで、その所有者にどのような働きをおよぼすがゆえに、一方は善であり、他方は悪であるぁを示してください、とソクラテスに促すのです。 |
| 01/Mar./2012 プラトンの幸福論 6 徳と正義の問題 1 徳と正義についてのプラトンの議論とはどのようなものだろうか。まずグラウコンが『国家』の第二巻の冒頭で正義の起源とその本質についての問いを発します。「自然の本来の在り方からいえば、他人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、・・・その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人びとは法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を「合法的」であり「正しいこと」であると呼ぶようになった。これがすなはち、〈正義〉なるものの起源であり、その本質である。つまり〈正義〉とは、不正を働きながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協である」というホッブス的な社会契約論的な定義を紹介します。そこにおける善(利)とは契約を満たすことであり、それが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむるやりに平等の尊重へとそらされているにすぎないというのです。 |
| 02/Feb./2012 プラトンの幸福論 5 国家の問題は正義の問題に収斂する 国家の問題はすべて正義の問題に収斂することになります。それでは、プラトンにとって正義とはいかなるものでしょうか。プラトンの国家の市民はそれぞれ自分にとって固有の仕事をもっています。国家は完全なる分業の上に成立しています。もちろんプラトンの国家の分業は現代社会の分業とはまったく異なったものです。かれらの分業は個人の本性に適した仕事による分業です。それにたいして現代社会の分業は経済目的を効率的にはたすための人員配置であり、それはかならずしも個人の本性に適したものである必要はありません。個人は仕事に向いているかいないかにかかわらず、ノルマを果たすように求められているだけなのです。現代の多くの人びとの仕事とよばれてよばれているものはしたがって全人的にかかわるものではなく、自己の完成に寄与するものでもないのです。したがって現代社会における仕事は人間本性の完成、つまり社会的徳である正義とはまったく関係がないといってよいでしょう。 ギリシャのひとプラトンにとって徳とは有るべきものが有るように在り、在るべきところに在ることです。水が低きに流れ、石が下に落ちるのが、水の徳であり石の徳とおなじです。ギリシャの人は水は低きに流れることを愛し、石は下に落ちることを愛すると表現するのです。プラトンの考える国家は市民が有るべき姿を実現し、在るべき場所で生きてゆくことを可能にする国家です。そのような国家、市民が徳に生きることを保証する、そういう国家が国家が健康な国家であるのです。国家の徳が市民の徳を保証し、国家の健康がそのまま市民の健康であることこそ、まさに正義の実現といことにほかなりません。 |
| 20/Dec./2011 プラトンの幸福論 4 プラトンの国家 プラトンの論ずる国家はもちろん近代国家と同じものではありません。それは秩序あるシステムとしての共同体であり、無秩序あるいは恐怖から逃れるための論理的構築物ではありません。むしろアイデンティティーをもった生命体のようなものです。ところでアイデンティティーをもった生命体とは健康で幸福な生命体です。そのような生命体はこの世界で実現されることはありません。この世界に存在する生命体はすべていくぶん不健康で不幸な生命体でしかありえないのです。死の恐怖に怯えながら「不平たらたら、汗水をながして」生きている生命体なのです。したがってプラトンの考える正しい国家はこの世界に存在するものでもなく、またかって存在したこともありません。 プラトンの国家が現実には存在しないものであるならば、たんなる夢物語であるということでしょうか。それはユートピアなのでしょうか。それはどこに存在するのでしょうか。この問題は後で論ずることにしましょう。しかしそこで語られるプラトンの国家は恐ろしいまでに現代的なものなのです。たしかにプラトンの論じた問題は道徳や倫理の問題でもなく、政治の問題でもありませんでした。あえて言えば人間の問題であったというべきでしょう。国家の問題は秩序あるシステムとしての共同体の問題であり、それはまさに人間の問題でもあるのです。プラトンにとって国家と人間のあいだには完全なアナロジーが成立するのです。したがって国家の問題と人間の問題は同じ一つの問題であるといえます。 |
| 24/Nov./2011 プラトンの幸福論 3 幸福考えることについては国家について考えること プラトンの幸福についての考えを読んでみましょう。プラトンの幸福論を考えるということは国家について考えるということですから。国家という言葉についてはすでに述べたところを思いだしておいてください。国家という言葉をプラトンにあてはめることには少なからぬ疑問があるということです。それを承知した上で国家という言葉を使い続けます。 プラトンにとって幸福を実現するものこそ国家なのです。「幸福である」という表現はプラトンの言葉においては「よく生きる」ということで意味であることに注意していただきたい。そして「善く生きるということは、正しく生きる」ということでもあるのです。それがプラトンの幸福論でもある国家論を考えるときの基本です。古代の文献学者からはじまって、現代の学者にいたるまでプラトンの『ポリテイア』という作品を『国家、もしくは正義』という副題をつけて読んでいることにもそのことがよく現れています。そこに見られるようにプラトンにとって国家を論ずることは正義について論ずることにほかなりませんでした。 |
| 27/Oct./2011 プラトンの幸福論 2 幸福について考えることは国家について考えることである たしかに古代の人びとは世界をシステムとして理解していました。気神的・祝祭的立場から理解していました。その後哲学者たちが〈わたくし〉ということにたいして多くの思索を重ねてくれたおかげでわたくしたちは古代の人びとが世界を神話的・祝祭的立場から理解していたことを哲学的立場から理解できるようになったのでした。その方向に最初の一歩を踏み出してくれた哲学者の一人がプラトンであったのです。神々や霊について考えることが古代の人びとにとっては幸福について考えることであったのですが、幸福を人間の立場から考えるkとは、まさに、哲学的立場への転換を意味することにほかならないのです。プラトンが幸福について考えるとき、神々についてではなく、国家について考えるところにもそのことがよく表れています。幸福について考えるときプラトンを現代の立場から読み返すことがぜひとも必要であるといえます。 |
| 29/Sep./2011 プラトンの幸福論 1 ひとは幸福になる義務があります。他人を不幸にしないためにもです。ひとは幸福になりえます。不幸であるのが普通の状態であるからです。 私たちが幸福について考えるときプラトンのことを忘れるわけにはゆきません。プラトンの哲学は幸福についての哲学として理解することもできるからです。むしろそのように理解すべきだろうと思います。すくなくともプラトンの議論を貫く一本の糸であり、通低音であるからです。 わたくしたちはシステムという言葉をしばしば使ってきました。しかし注意していただきたいことはいま流行りのシステム論を展開しようとしているわけでもなく、また新しく発展させようとしているわけでもないということです。ただ現代においては思考の対象をシステムとして理解するということは避けられないことなのです。しかしこのことはなにも新しい事態ではありません。システムという言葉こそありませんでしたが、古代の人びとは多くの文化において世界を一つのシステムとして考えていたと言えるでしょう。人びとは世界の一員として世界とともに生きていたのです。世界と一線を画する個人として生きるということは、むしろ近代のことと言えるでしょう。わたくしたちは大きな回り道をしてもういちど昔の知恵に戻ってきたと言えるのではないでしょうか。しかし先人たちの努力を無駄だと言っているわけでは決してありません。それはわたくしたちが自然の大きなシステムの一員として自分を理解するためには辿らねばならない道であったのですから。 |
| 01/Sept./2011 不機嫌という現代の病気 苛立ち、不機嫌はもともと幼児のものですが、いまでは大人の病気といってよいでしょう。都会の職場に急ぐ人々は例外なく苛立ち、不機嫌な顔をしています。現代の社会があまりにも複雑で、不透明であるからではないでしょうか。そのなかで多くの人は自らのアイデンティティーを喪失しているのです。自分の力だけでは自分自身になれないのです。現代は不安な時代です。地球全体が苛立ち、不機嫌になっている時代といえます。 不機嫌はさらに不機嫌になることによって、強情に不機嫌であることを主張します。子どもが不機嫌から泣き叫び、さらに不機嫌になるようなものです。その結果、当たり散らし、自らを引っ掻き、自らを傷つけます。自分の手で自分のアイデンティティーを危険にさらす結果となりかねません。この悪循環を断ち切らねばならないのですが、どのような手段があるのでしょうか。 不安そのものは不幸ではありません。不安がなければないでひとは不機嫌になるものです。厄介なものです。不安が不機嫌にならないためには行動する以外にはないでしょう。もちろん行動にも不安はつきものです。しかしアイデンティティーを構築するための行動は幸福にもつながるものです。不安が不幸になるのは怠惰な精神が退屈しているからです。その結果行き場のない想像力が不協和音をおこしているのです。キェルケゴールならば精神のヒステリー呼ぶところでしょう。不安にはつねに憂鬱と憂愁がともなうのもそのためです。たしかに不安な人々もせわしなく動きまわります。しかしそれは行動とはちがいます。なぜなら行動は時間の創出ですが、不安な人のせわしない動きは時間貯蓄銀行の組合員とおなじように時間を食いつぶしているだけなのです。そうはいっても、行動を支えている選択にも不安はつきものです。それが人間の在り方ですから。わたくしたちも不安をバネにして幸福なる知恵をつける以外にはないのです。 |
| 04/July/2011 不安は時に不幸の源泉となります 不安はわたくしというシステムが安定するためにシステムそのものが動き続けなければならないという宿命から来るものです。活動の停止はシステムの崩壊だからです。したがって不安そのものは不幸でもなんでもありません。ひとが不安であることは生命体としてのシステムにとって本質的なことですから。ただ、なにごとでもそうであるように、不安が想像力のヒステリーと手を結ぶとき不安は不幸の源泉となるのです。不幸な不安の第一は苛立ちと不機嫌ということでしょう。しかし何に苛立っているのでしょうか。なぜ不機嫌なのでしょうか。 ひとは生理的にわたくしのレベルにおいても、また社会的レベルにおいても、アイデンティティーを構成するために動き続けなければなりません。しかしその方向がつねに定まっているとは限りません。定まっていない場合の方が普通でしょう。方向は自ら定めなけれなならないのです。そのためには選択し、決断しなければならない場合もあります。しかし方向が見えない、選択、決断が思いどおりの結果をもたらさないのが世の常です。そしてひとは苛立ち、不機嫌になるのです。その結果、すねたり、意地悪になったり、疑い深くなり邪推したりということになります。 |
| 12/July/2011 嫉妬は傲慢なものでもあります 嫉妬とはほんらい自分に属するものにたいする執着と、それを失うことにたいする不安です。不安が生みだす怒りは自分に属するものに直接関与する他人にたいしてのみならず、不幸をまぬがれたというだけの他人にも向けられます。嫉妬とよばれるものです。自分に起こった不幸は他人にも起こらねばならないのです。不安はあらゆる妄想を生みだします。妄想は癌細胞のように増殖し、ひとのこころを蝕ばみます。病んだ想像力ほど度し難いものはありません。 つぎに嫉妬の問題は所有の問題と深く結びついています。所有とはアイデンティティーの一部です。つまり所有しているものは自分自身の一部なのです。嫉妬は自分のアイデンティティーを他人にも押しつけることではないでしょうか。それはすべてを自分のものとして所有しようとすることにほかなりません。だから嫉妬は傲慢でもあるのです。あなたはわたくしでなければならないというわけです。そのことから嫉妬は、自分だけではなく、他人をも不幸にします。他人が幸福であることを許さないからです。 嫉妬は、一般的には、他人に向かうものですが、自分自身に向けられることもあります。当然のことです。嫉妬が向けられる他人は、そもそも、自分自身であるからです。自信喪失、自暴自棄、病的な罪意識、最後に「死にいたる病」である絶望がその仕上げをするということになるのです。 |
| 21/June/2011 嫉妬は不幸の産みの親です 嫉妬は不幸の産みの親です。しかも多産な母です。嫉妬は想像力の病です。妄想を生み、猜疑心を起こさせ、他人を敵に仕立て上げ、悪口をたたき、非難し、憎悪のあまり復讐し、呪詛するに至ります。嫉妬のとくに厄介なところは、嫉妬心が嫉妬の対象を作り上げるところにあります。たとえば、恋敵が嫉妬を起こさせる以上に、嫉妬が恋敵を作り上げるのです。さらに悪いことに嫉妬が作る上げる想像上の恋敵は自分自身の亡霊であるということです。嫉妬の対象であるその人はその他人ではなくて、本来わたくしであるべきだ、わたくしであってこそ相応しいというわけです。 愛の舞台で演じられるのは嫉妬のドラマであるといってよいでしょう。そこでは流血の惨事を見る痴情沙汰にIいたるまで、あらゆる種類の嫉妬が演じられることになるのです。恋人の目はつねにわたくしに向けられていなければなりません。他のものに向こうものならばたちまちにして嫉妬が頭をもたげます。あらゆる些細な出来事が裏切りの証拠となるのです。 空気のように軽いものでも 嫉妬するものには聖書の本文ほどの 手がたい証拠となる (『オセロ』 第3幕) ものです。嫉妬による猜疑の目はどんな小さな動きも見逃しません。そして、そのたしかな証拠をもとにして恋人を攻め、想像上の恋仇の、もちろん想像上のものとはかぎりませんが、悪口を並べ立てるのです。悪口の生まれ故郷は、多くのばあい、嫉妬です。恋人を自分のもとに引き止める、あまり上手とはいえない、常套樹手段なのです。 |
| 02/June/2011 時間を節約するということ 自分が節約した時間は自分で使うといいましたが、それは自分で時間を作りだすことなのです。つまり節約しただけ作り出さなければならないのが時間というものなのです。たしかにお金で時間を買うことはできるでしょう。時は金なりですから。しかしお金で時間を買うことは実は出来ないのです。つまりお金で他人の時間を買うことは時間の創出ではなく、時間の節約にほかなりません。なぜならお金で買った他人の時間とは、他人にとってはまさに節約しなければならない時間なのですから。それは高率的に遊ばなければならない時間にほかならないのです。 したがって創出する時間とは節約しなくてもよい時間ということになるでしょう。与えられた時間ではないのですから、未だない時間です。節約の対象となるはずのない時間です。未来を節約する人なんかいるでしょうか。未来は選択です。それは行動です。行動としての生活とでも言えばよいでしょう。 |
| 17/May/2011 時間とは生活なのです M・エンデはいいます。「時間とは生活なのです。人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活は痩せ細って、なくなってしまうこのなのです。」そのとおりです。しかしそれが現代文明の宿命であることも事実なのです。時間を節約し、生活をやせほそらせることによってしか多くのひとの生活を保証できないのです。節約された時間を食べて現代人は生きているのですから。いまでは二〇分で散髪しなければお客に怒られるのです。せっせと追い立てられた娯楽しか人の役には立ちません。わたくしの節約した時間は、他の人たちが時間を節約するために、かれの時間を食べるために費やされるということでしょう。わたくしたちはみんなあの灰色の紳士、時間泥棒なのです。 このような世の中にあって、わたくしたちははたして時間を作りだすことができるのでしょうか。あるいは、時間を取り戻すことができるのでしょうか。時間貯蓄銀行に貯められている時間を解凍できるのでしょうか。たった一つの可能性があるようにおもえます。それは、ひとが節約した時間を使うのではなく、自分が節約した時間を自分で使うことではないでしょうか。以前に時間は食いつぶすのではなく、自分で作りだすものだといったことを覚えてくれているでしょうか。 |
| 29/Apr./2011 整然と直線のつらなる砂漠です フージーが時間貯蓄組合の会員になりました。その結果どうなったのでしょうか。まず「大都会そのものの外見まで変わってきました。旧市街の家々はとりこわされて、よぶんなもののいっさいない新しい家が経ちました。家をつくるにも、そこに住む人がくらしいいようにするなどという手間はかけません。そうすると、それぞれちがう家をつくらなくてはならないからです。どの家もぜんぶおなじにつくってしまうほうが、ずっと安上がりですし、時間も節約できます。大都会の北部には、広大な新住宅街ができあがりました。そこには、まるっきり見分けのつかない、同じ形の高層住宅が、みわたすかぎりえんえんとつらなっています。建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりおなじに見えます。そしてこのおなじ外見の道路がどこまでもまっすぐのびて、地平線のはてまでつづいています―整然と直線のつらなる砂漠です!ここに住む人びとの生活もまた、これとおなじになりました。地平線までただ一直線にのびる生活!ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、1センチのむだも、1秒のむだもないからです。」 人びとはどうなったでしょうか。たしかに「時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、使うのもよけいです。けれども彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした」。「ことが5分で片づくのでないかぎり、彼らは時間がもったいないと思ったことでしょう。彼らは余暇の時間でさえ、すこしのむだもなくつかわなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもうと、もうやたらとせわしなくあそぶのです」。「仕事がたのしいとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました―むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです」。 |
| 18/Apr./2011 時間貯蓄銀行の新しい会員の生活 「彼が倹約した時間は、じっさい、かれの手もとに一つものこりませんでした。魔法のようにあとかたもなく消えてなくなってしまうのです。彼の一日一日は、はじめはそれとわからないほど、けれどもしだいにはっきりと、みじかくなってゆきました。あっというまに一週間たち、ひと月たち、一年たち、また一年、また一年と時が飛びさって」ゆきました。それもそのはずです。時間を節約すればしただけ仕事が増えるわけですから。仕事に追いかけられる毎日です。フージーも「毎日毎日がますますはやくすぎてゆくのに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるいで時間を倹約するようになるだけ」なのです。灰色の紳士のいうように「これでフージーは時間貯蓄組合の新しい会員になられたわけです。あなたはいまや,ほんとうに近代的、進歩的な人間のなかまに入られたのです。フージーさんおめでとい!」ということになるのです。 |
| 10/Apr./2011 時間貯蓄銀行の勧誘 ところで時間貯蓄銀行の勧誘員灰色の紳士のいうむだな時間とはどういう時間でしょうか。「時間の倹約のしかたくらい、おわかりでしょうに!たとえばですよ、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。ひとりのお客一時間もかけないで、一五分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日にまる一時間も節約できる。それに、役立たずのボタンインコを飼うのなんか、おやめなさい!ダリア嬢の訪問は、どうしてもというのなら、せめて2週間に一度にすればいい。寝るまえに15分もその日のことを考えるのをやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだのに、貴重な時間をこんなにつかうのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きな時計をかけるといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんですな」。 もっともです。しかしあまった時間は手元に残ることなく時間貯蓄銀行に将来のために自動的にはいります。フージー氏は一人のお客の頭を20分で仕上げました。助手も二人に増えました。ダリア嬢にも御無沙汰です。ボタンインコもペット屋に売り払いました。お母さんも、世話のゆきとどいた、でも費用の安い養老院にほうりこんで、月に一回たずねることにしました。しかし節約した時間はかれの手元には残りません。それは将来のための時間なのです。 |
| 29/Mar./2011 時間どろぼうの話 このようなことを考えるときわたくしはミヒャエル・エンデの童話『モモ』のなかに出てくる時間どろぼうの話を思い出します。雨が降る、いやな灰色の昼下がり、床屋のフージーは考えます。「おれの人生はこうしてすぎてゆくのか。はさみと、おしゃべると、石鹸の泡の人生だ。おれはいったい生きていてなんになった?死んでしまえば、まるでおれなぞもともといなかったみたいに、人に忘れられてしまうんだ」、「おれは人生をあやまった。おれはなにものにもなれた?たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、ちゃんとしたくらしができていたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうにな!」。 でもこのちゃんとしたくらしというのがどういうものかはフージー氏にははっきりしていませんでした。なんとなくりっぱそうな生活、ぜいたくな生活、たとえば週刊誌にのっているようなしゃれた生活、そういうものをばくぜんと思い描いていたにすぎません。「だがな」とフージー氏はゆうつな気持ちで考えました。「そんなことをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがななさすぎる。ちゃんとしたくらしは、ひまのある人間じゃなきゃできないんだ。ところがおれときたら、一生の間、はさみとおしゃべりとせっけんの泡にしばられっぱなしだ」。そこへ現れた時間貯蓄銀行の勧誘員は「ようするにあなたが必要としているのは時間だ。そうでしょう?」・・・「でも時間はどこから手に入れます?倹約するしかないんですよ。フージーさん、あなたはまったく無責任にじぶんの時間をむだずかいしてます」とことばたくみに勧誘します。 |
| 11/Mra./2011 選択は未来を生み、未来は期待を生む 選択は未来を生み、未来は期待を生みます。期待された未来こそ時間の名に相応しいものではないでしょうか。強制された隷従の、未来のない明日は、できるだけ早く食いつぶして新しい未来に期待するか、さもなければ明日は来なくてもよいのです。そこには怠惰と退屈という不幸が蟻地獄のように待っているだけでしょうけれども。 未来は選択し、行動し、自分で作りだすものです。つまり時間は自分で作るものということです。アランも言うとおり「人間は、もらった楽しみに退屈し、自力で獲得した楽しみのほうをはるかに好むもの」だといえます。時間は自分で支配しなければなりません。それだけが時間なのですから。これもまたアランの言葉を借りるならば「行動というものは、どんなに単調であっても、そこにはいつでも、支配したり考え出したりすべきものが少しは残っている」ものだからです。 このようなことを考えるときわたくしはミヒャエル・エンデの童話『モモ』のなかに出てくる時間どろぼうの話を思いだします。 |
| 01/Mar./2011 退屈は時間の喪失です 退屈が時間の喪失であるのにたいして行動は時間の創出です。退屈しているひとも忙しく動き回りますが、行動しているのではありません。時間を食いつぶしているだけなのです。 時間の喪失はアイデンティティーの喪失です。退屈はあらゆる不幸が流れ込む死の海であるのもそのためです。アイデンティティーの問題はいろいろなレベルで論じられてきました。アイデンティティーとはわたくしがわたくしであると言える、あるいは実感できる根拠であるとしておきます。わたくしがわたくしであると感じるためにはわたくがわたくしでなくなる可能性と向かい合っているということではないでしょうか。アイデンティティーの危機にさらされているということです。つまりわたくしたちはつねにアイデンティティーをまもるために、またアイデンティティーを求めて努力しているということです。この努力が行動とよばれるのです。行動の停止はアイデンティティーの崩壊にほかならないのです。 したがって行動は一つの選択です。選択のない行動は不幸です。自ら進んでする苦労は厭わないというひとも強制された労働は好まないものです。努力するひとは多くの楽しみを犠牲にします。多くの楽しみを振り切って目的を手にしたひとはそれだけ大きな幸福感を味あうことになるのです。行動は幸福を約束してくれるものだからです。 |
| 18/Feb./2011 退屈は不幸な幸福です 大事にされ、かしづかれ、注意深い神の目にすべてが見抜かれ、欲しいものは自由以外すべて与えられてきた大きなこどもがいます。退屈し、何か面白いことはないかと口を開けて待っている落ち着きのない騒がしい大きなこどもがなんと多いことでしょうか。いたずら好きな女神のおくる幻想とよばれる気まぐれな欲望に振り回されているのです。 退屈とは不幸な幸福です。幸福になりそこねた不幸です。退屈の行き着く先は時間の喪失です。不幸の本質がその時間性にあるとするならば幸福の本質はその無時間性にあるといえましょう。それにたいして時間の喪失が退屈の本質なのです。退屈したひとの生活が刹那的で不平不満ばかり鳴らしているのもそのためです。時間性から遊離したことばにはコンテクストがありませんから、つまり意味がありませんから、何を言ってもかまわないのです。すべての議論も無意味ですからそのような議論にたいしては沈黙しかないのです。退屈ほど始末の悪いものはないといえます。 |
| 08/Feb./2011 退屈な女神の悪戯:獲物は向こうからやってきます 退屈な女神はつぎからつぎへと獲物を探します。ところが獲物は向こうからやって来るのです退屈しているひとには何かを欲して行動する暇はないのです。すべてが与えられているからです。そうしてすべてのことに不平の種を見つけだします。つまり退屈しているひとには怠惰になる時間はありません。与えられたおもちゃをひっくりかえし、あれやこれやに手を伸ばし、気まぐれな欲望を作りだしてはそれを強情に主張してすべてを乱雑に放りだすことになるのです。苦労なしに手に入れたものばかりですからなんの未練もないのです。 退屈なひとは何事にたいしても腹を立て、いらいらして、当たり散らしているのです。退屈から逃れるために心配したり怒ったりするのです。その結果あらゆる不幸を背負いこむことになります。しかしその不幸は幸福の前提になる不幸ではありません。退屈のあまり自らを見失いとんでもないことをしでかすか、退屈のあまり死んでしまうでしょう。不幸が幸福の前提となるためにはそれは怠惰な自分を目覚めさせるものでなければならないからです。 |
| 28/Jan./2011 退屈はすべての不幸を吸収するスポンジです 退屈はあらゆる不幸を吸収するスポンジです。数知れぬ不幸が流れ込む海のようなものです。最も退屈しているのは神々ではないでしょうか。神々は本質的にいたずらで、気まぐれなものです。とくに運命の女神はいたずらで、気まぐれです。少しばかりの幸福感に浸るために不幸を探しまわるのです。幸福がなんらかの不安や苦しみを前提にしていることは事実のようです。 何もしないひとは何も好きにならない。それだけならまだしもかれれの注意深い目は他人のやっていることにケチをつける要素だけは見逃さない。退屈な人間は他人が退屈していないというだけで腹を立てる。女神は幸福な人間にたいしてはとくに嫉妬深いものです。退屈はひとを不幸にする病気だといえます。 |
| 18/Jan./2011 ヒトは多かれ少なかれ病気です もちろん身体的変調を病気とよぶのもよいかもしれません。それがむしろ一般的でありますし、それ以上によい名前も見当たりませんから。そういう意味ではヒトは多かれ少なかれ病気であるといえます。その場合、それと懸命に闘っているわたくしというシステムと手に手をとって闘えばよいのです。病人になる必要はさらさらありません。悲しみも、不機嫌も、憂鬱も病気として闘うだけです。病人は想像力の病気に罹っているのです。アランも言うとおり想像力の病気につける薬はありません。病気を苦にして病気を悪化させることはないのです。それこそ不幸なことではないでしょうか。 |
| 11/Jan./2011 病気と健康体のはざ間でシステムは戦いつづけています 自覚症状はないが悪性のポリープが胃のなかに発見されたひとは病気でしょうか。エイズに見られる諸症状はない、つまり発病してはいないが、エイズ・ウィルス感染者は病気でしょうか。なんらかの病気で身体的障害は残っているものの感知しているひとも病気でしょうか。第一の場合システムは戦っている真っ最中です。成功すればシステムはそのアイデンティティーを回復することでしょう。失敗すればシステムの崩壊を招くことでしょう。このことはシステムがたえず行っていることで、この場合に限られません。このことが病気であるならばひとは一人残らず病気です。第二の場合、システムはエイズ・ウィルスを感知していません。自他を認知していないのです。知らないうちにヘルパーT細胞が破壊されていくのですが、だからといって戦っているわけではありません。ウィルスはひとに寄生しているのです。遠い昔ヒトと共生関係にあったのかもしれません。ある程度以上にヘルパーT細胞が破壊され、免疫機能が損なわれるとき、ヒトというシステムはいろいろな障害に見舞われます。その結果が皮膚などに症状として現れるのです。けっしてエイズという症状があるのではありません。エイズというのは病名ではないのです。そのときシステムはそれぞれのシステムの変調と戦っています。それをもってびょ粋とはいえないでしょう。第三の場合、これはまったく病気とはいえません。健康であるといわれているひととなんら変わるところはないのです。 |
| 26/Dec./2010 病気には二種類の病気があります 病気にも二種類の病気があります。肉体的・身体的病気と、病気について考え・思い悩む病気です。 肉体的にはひとは多かれ少なかれ病気といえるでしょう。わたくしたちの体は細菌やウィルスなどと、ときには共生し、ときには戦いながら、システムとしてのアイデンティティーをまもっているのです。それは壊れては修復し、修復してはまた崩壊するということの繰り返しです。どのレベルから病気とよぶのかなかなか微妙な問題です。自覚症状があるかないかという単純なことではないことは周知のことと思います。少なくとも直ちにはいたずらをしないちょっとした遺伝子の異常、異常とさえいえるかどうか疑問ですが、それでも病気でしょうか。病気であるともいえるし、病気でないともいえます。 |
| 19/Dec./2010 幸福は思い出のなかにあります しかし、わたくしたちは考えることを止めることはできないのです。考えるということを止めることは死を意味するからです。以前に述べたごとく、それは自己創出的システムとしてのわたくしたちが、その活動を停止することになるからです。システムが活動を続けるには問題を解決し続けること、つまり考え続けなければならないのです。 考えるということはシステムのアイデンティティーが危機にさらされたときシステムのアイデンティティーを回復するための努力ですから、考えるということは生きるということとおなじことになるのではないでしょうか。ということは、生きるということは不幸なことといわざるをえません。毎日が身体的努力からはじまって、あらゆるレベルにおけるアイデンティティーをまもるための戦い以外のなにものでもないからです。病気も、苦しみ悩みもすべて生きている証とということなのです。 この戦い、努力は今日も明日も続きます。システムが崩壊して死ぬまで続くものなのです。逆に、これまで生きてこられたということは幸福なことです。すくなくともシステムのアイデンティティーを最小限といえどもまもることに成功してきたわけですから。したがって幸福は思い出のなかにあるということになります。明日にたいしては幸福を願う以外にありません。過去におけるどんな苦労も後悔することも含めて基本的には楽しい思い出となりうるものです。とにかくいま生きているとということはいままで生きてこられたということですから。 これらの意味でひとは過ぎ去った日々の幸福をばねに明日に挑戦して行かざるをえないのです。アランの「死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を感ずるのは幸福な人たちのみである」という言葉もこのことでしょう。 |
| 13/Dec./2010 (6) 幸福について語ることは不幸なことである 幸福は語りえないものでありにもかかわらず、語りつづけられるものであるといいました。わたくしたちも語りつづけましょう。幸福について語るということは不幸について語るといことであるともいいました。わたくしたちも不幸について語りましょう。 最大の不幸は不幸について考えることではないでしょうか。悲しみに打ちひしがれているひと、怒りに身を震わせているひとに、「あまり考えるなよ」といったりするのは、あながち間違ってはいないのです。不幸について考えることが不幸をますます不幸にし、病気について考えることが病状をますます悪くすることもあるのです。考えれば考えるほど憂鬱になり、腹が立つのもよく経験するところではないでしょうか。 しかし、不幸であればあるほど、ひとは考え込むものです。それはけっして不思議なことではありません。むしろ不幸だからこそひとは考えるのです。そもそも考えるということは問題を解決しようという欲求に根ざしているからです。空腹な犬が餌を探し求めて歩きまわるのとかわりありません。わたくしたちも幸福という餌を求めて不幸から不幸へと歩きまわるのです。 |
| 01/Dec./2010 語りえないものは言葉自体に語らせる このように混在しているレベルのちがう言葉を区別することはできないのでしょうか。そのために多くの努力がなされてきたのも事実です。議論する言葉を定義するというのもその努力のひとつですし、数学のように記号化、形式化する努力もなされてきました。いずれの努力も言葉の多彩さと豊かさの犠牲のうえになされてきたとしかいいようがありません。言葉を上手に使って言葉自身に語らせねばならないのかもしれません。 言葉とは不思議なものです。語りえないものを語る道具の不思議かもしれません。幸福とはなんでしょうか。真とは、善とは、美とはなんでしょうか。 それらは語りえないものです。しかし、語り続けられるものであり、また、そうでなければならなというのが、現在におけるわたくしたちの結論といわざるをえないでしょう。 |
| 22/Nov./2010 (5) 欲望は想像空間のうえのひとつの出来事です 欲望は欲求でもある感覚の思いでのうえ成立する想像空間の出来事のひとつですこれらの多様な欲望で構成される空間が、これもまた想像空間でありますが、いろいろな感情、あるいは情念とよばれるものを生みだすのです。 感覚や感情や情念についてはいろいろな議論があります。感覚は受動的であり、感情は能動的であると考えるひとびとがいます。感情は身体的であり、情念は精神的であるとか、あるいは価値判断をともなうとかと主張するひとびともいます。また、感覚は生理的であり、感情や情念は生理的であるとどうじに心理的であるとか、感情と情念は強度の差にすぎないとか、さまざまです。 わたくしは感覚や感情、あるいは情念を異なったものとも考えませんし、異なった現象とも考えません。また、原因の違いとも対象の違いとも考えません。まして程度や強度の差とも考えません。わたくしにとって感覚も感情も情念もすべておなじ「わたくし」というシステムの言語的表現にすぎません。それらの違いは言語空間のなかでの異なったレベルのことばのはたす役割の違いなのです。感覚、感情、情念は〈ことば〉なかに〈ことば〉についての〈言葉〉が混在するように混在しているのです。 |
| 12/Nov./2010 情念は説明不可能な価値観です 問題は価値観です。これまでの議論でおわかりのように、感情は情念によって支配されます。ところが感情に言語的意味を与える情念は、説明できないだけではなく、茫漠として不確定なばあいがほとんどなのです。幸福と呼ばれたり、愛と呼ばれたり、信仰と呼ばれたりします。また、真であったり、善であったり、美であったりします。それらはすべて説明できないものなのです。なぜなら、それが感情を説明しようとするとき、つまり感情空間を構成しようとするとき、もろもろの感情が収斂する先であり、ひとりひとりが自らの手でつかみ取らねばならない説明不可能な価値だからです。ただ、どの感情を重視するかによって与えられる、或る意味では苦しまぎれの、言語表現なのです。多くのばあい言語的表現すら与えられないのが普通です。言語化されていないのですから、日常の生活においては、説明できない情念によって支配されているのが実感なのです。 |
| 03/Nov./2010 欲望空間の言語的表現が感情です 欲求空間が欲望によって構造化されるように、欲望空間は情念によって構造化されます。また欲求空間の言語的表現が感覚であるように、欲望空間の言語的表現は感情と呼ばれるものです。したがって、感情が欲望によって支配されるように、感情は情念によって支配されることになります。つまり、感覚空間を構成する感覚の言語的意味は、その空間を構造化している感情によって変わってくるということになります。ということは、感覚の言語的意味は感覚空間に構造をあたえている感情によって、与えられるということになります。しかし、感情の言語的意味は情念の言語的表現によって与えられるということになるのですが、残念ながら、情念は言語的表現を拒否します。情念は語り得ないものなのですから。したがって、感情の言語的意味は、下から、つまり、感覚から類推する以外にはありません。そこで、価値観という感情もこの感覚の言語的意味の上に成立する感情であると言わざるをえないのです。人間は感情の動物であると言われますが、それは、人間の日常生活とそれを支える判断がこの感覚空間のレベル、つまり価値観とそれにたいする執着というレベルで行われていることなのです。 |
| 18/Oct./2010 世界認識: 欲望空間は情念によって構造化される たとえば、空腹で何か食べたいけれども歯が痛いというような場合、空腹も歯の痛みも、それぞれ、感覚です。歯が痛むけれども食べたいというのは欲求です。食べたいけれども早く歯を治したいというのも欲求です。その場合、空腹の程度、歯の痛みの程度によりますが、いずれの欲求を満足させるのかひとによってまちまちでしょう。しかし、そのひとの欲望の違いによっていずれを選ぶか差がでてくることになります。それは、欲望によって構造化されている欲求空間の違いによるのです。つまり、そのひとの欲求空間を構造化する欲望の違いによるということになるのです。たとえば、もし欲求空間を構成している欲望空間の表現である感覚が、傲慢や自虐的な怒りであったりするならば、空腹も歯痛も喜びや快感とすらなり得ます。 |
| 07/Oct./2010 価値観という感情 価値観というのはひとつの感情であるといいました。どのような感情でしょうか。基本的には個体、あるいは集団というシステムにとって好ましいことであるということはいうまでもありません。それはシステムのレベルによって欲求であったり、欲望であったり、情念であったりするのです。それらは階層的に構造化されているのです。たまり、ときには対立するさまざまな欲求のうち、あるものを選び、あるものを捨てるのは欲求の外にありながら、さまざまな欲求を一つの欲求空間として構成している欲望によるのです。欲求空間とは、言語表現のレベルでは、感覚空間でもあるのです。なぜならば、欲求とはシステムのアイデンティティが危機に見舞われたときの悲鳴、その悲鳴の言語表現であるからです。したがって、ここでいう欲求空間は、いまだに言語表現を与えられていない感覚空間と理解してください。欲望と感情の関係もこれとおなじことなのです。 |
| 22/Sept./2010 (4) 情念は感情の言語空間を成立させるイデアです 愛について述べてきたことは情念一般についていえることです。情念とは感情の織り成す言語空間を言語空間として成立させるものだといいました。つまり、情念は言語空間を成立させるイデアであるということです。ところで、情念につねに付き添っている感情に執着と価値観があることに注意してください。それらは感情の集合を言語空間として支えるイデアとしての情念を生み出す原動力といってよいでしょう。それは、個人のアイデンティティーを形成するものであり、また、文化の基盤を提供しているものでもあります。 価値観というのはひとつの感情であるといいました。どのような感情でしょうか。基本的には個体、あるいは集団というシステムにとって好ましいことであるということはいうまでもありません。それはシステムのレベルによってよって欲求であったり、欲望であったり、情念であったりするのです。それらは階層的に構造化されているのです。つまり、ときには対立するさまざまな欲求のうち、あるものを選び、あるものを捨てるのは欲求の集合の外にありながら、さまざまな欲求をひとつの欲求空間として構成している欲望によるのです。欲求空間とは、言語表現のレベルでは、感覚空間でもあるのです。なぜならば、欲求とはシステムのアイデンティティーが危機に見舞われているときの悲鳴、その悲鳴の言語表現であるからです。したがって、ここでいう欲求空間は、いまだ言語的表現をあたえられていない感覚空間と理解してください。欲望と感情の関係もこれとおなじことです。 |
| 09/Sept./2010 愛は無定義用語でなんでも説明します 愛が成就したとき、ひとは喜びと満足感でわれを忘れることでしょう。ときには勝利したことに誇りを感じたり、自惚れたり、傲慢になったりすることでしょう。恋敵にたいして優越感から憐みを感じたりすることもあるのではないでしょうか。しかし、それは長続きするものではないでしょう。愛の喜びは瞬間的なものであり、壊れやすいものです。愛し続けることは、すでに述べたように、苦悩に満ちた、忍耐の道だと言わざるをえません。 愛に失敗したときもひとはさまざまな感情に悩まされるものです。猜疑心、嫉妬、不機嫌、憂鬱、苛立ち、怒り、反感、敵意、憎悪、後悔、悲しみ、虚脱感、倦怠、その他、ありとあらゆる感情に悩まされることでしょう。そうしてまた、新しい愛が生まれるのです。 愛がさまざまな感情を生み出すことは事実です。しかし、それらの感情で愛を説明することはできません。それらの感情の織り成す事象としかいいようがないのです。その一方において、他のもろもろの感情は、愛しているからということで説明がつきます。つまり、愛は他のいろいろな感情を支えているもの、言いかえれば、もろもろの感情は愛の展開であるといえるのではないでしょうか。そうではない愛、つまり他の感情と同じレベルの愛は、愛ではなく愛欲にすぎません。愛は感情という言語空間を言語空間として成立させているイデア的言語であるといえます。愛はあらゆる感情を生み出しますあらゆる感情は愛に収斂するものです。愛はすべてを説明してくれるということです。 |
| 30/Aug./2010 愛することは簡単なこと、愛し続けることは英雄的なこと それでは、幸福と結びつけられる、たとえば、愛であるとか喜び、あるいは満足感とかはどうなるのでしょうか。それらも語りえないものなのでしょうか。 愛することは簡単なことです。しかし、愛しつづけることは英雄的なことです。なぜなら、愛しつづけるということは忍耐のいることだからです。我慢することです。許しつづけることです。犠牲を払いつづけることです。愛しつづけるということは苦しいことでもあるのです。なぜひとはそんな馬鹿げたことをするのでしょうか。それが愛の不思議というものですが、それは、愛はあらゆる不愉快な感情を生み出す一方あらゆる感情を喜びに変えうる錬金術でもあるからです。ひとは愛することにおいてあらゆる感情を経験するものです。愛するひとは嫉妬します。嫉妬から猜疑心が頭をもたげ、ひとを心配と不安におとしいれます。昂じると怒り、嫌悪感から反感、敵意を生み出します。その間、ひとはさまざまな幻想に悩まされ、ときには、除け者扱いされているのではないかと思い込み、孤独感になやまされもします。動揺史、撮り越し苦労に心を痛め、苛立ちと腹立ち、不愉快、不愉快から不機嫌になりがちです。 |
| 10/Aug./2010 幸福は語りえないものです (3-1) 幸福は語りえないものです。宗教的な至福も不幸の欠如、あるいは不在として語られるのが普通です。とにかく、不幸を語ることによって間接的に幸福について語る以外にないのです。したがって、わたくしたちも不幸について語ることにならざるをえないのです。 不幸とは想像の産物であるといいました。また、『最大の不幸とは物事を悪く考えることである」という、これを書くにあたって大いに参考にしている哲学者アランの言葉もあります。しかしながらとにかく不幸のはじまりは自分自身にたいする違和感であるといえるのではないでしょうか。なにか違う、これは自分ではないという感じであるといえます。つまり、なんらかの意味でアイデンティティが脅かされているのです。このアイデンティティの危機の言語的表現が欲求とよばれるもので、それは言語的表現でありますから、すでにひとつの感覚でもあるのです。不幸の感覚です。 |
| 27/July/2010 世界認識: ソクラテスは幸福でありました (2-2) ソクラテスは幸福でありました。しかしかれは処刑され、死んでゆくことによってしかそれについて語ることはできなかったのです。この逆説をかれの哲学の中心においたプラトンが国家を論じなければならなかった理由がわかっていただけるものとおもいます。不幸なアテナイにソクラテスが生きる場所はないのです。プラトンの考える哲人王の原点です。しかしそれはこの地上で実現可能なものではありません。それが国家のイデアであるからです。 プラトンにとって国家と人間のあいだにはアナロジーの関係があります。国家の構造と人間の構造のあいだには類比関係があるのです。したがって、人間について考えるにあたっては国家を同時に考えなければならなかったのです。人間の幸福は、国家の場合がそうであったように、知を愛し求める魂に支配された生活にあるのです。真の哲学者としてのソクラテスの生き方、美しきものを恋し、求めるエロティカとしての生き方といってよいでしょう。 |
| 19/July/2010 世界認識: ギリシャの哲学者は幸福を追求しました (2-1) 昔の哲学者は幸福を求めました。ソクラテスやプラトンの哲学も本質的には幸福の追求です。幸福の問題は哲学のもっとも重要な問題でもあったのです。 プラトンの作品に『国家』というのがあります。それはただの国家論ではありません。それは人間論でもあり、幸福論でもあるのです。わたくしたちの最大の不幸は知らないということを知らないことだといわれます。したがって幸福への第一歩は無知の自覚です。幸福とは愛知、哲学的生き方にたいする贈り物であるからです。しかし、愛知の道、哲学的生活は少数の恵まれた者にだけあたえられるものだといわれます。そうであるならばわたくしたちの多くにとって幸福は無縁のものといわざるをえません。むしろ幸福であることについて考えること、思い悩むこと、想像することをやめるほうがどれだけ幸福なことだろうとさえいえます。不幸とは想像の産物でもあるからです。哲学者の多くが幸福についてよりもむしろ不幸について積極的に語るのは、それが想像の産物であり、それのみが語りうるものだからです。幸福は想像の産物ではないのです。したがって、それは語りえないのです。語りえないものについては間接的に語る以外にはないのです。 |
| 07/July/2010 世界認識: 幸福はその人の属する社会いよっても規定される (1-5) このことから、もし欲望が満たされることが幸福であるということであるならば、わたくしたちはけっして幸福ではあり得ないと言えるかもしれません。わたくしたちはある欲望を満たす努力のうちに幸福を見つけているのかもしれません。たとえば、金銭欲を満たすためにある人は他の一切の欲望を押さえこみます。そうした人は、他人から見れば味気ない生活を送っているようにたとえ見えはしても、あんがい本人は幸福なのかもしれません。つまり、ある欲望を満たすということは、他の多くの欲望を犠牲にすることでもあるのです。おそらくその努力が幸福感を与えているのでしょう。 人はその人の属する社会にあって追求しなければならない幸福、さらには、それを追求するその方法まで規定されているものです。その上でそれらの欲望を満たすということは、その人のアイデンティティーを保つのに非常に重要なことの一つであることに間違いありません。要するに、アイデンティティーを保つことが可能なとき、人は幸福であるのではないでしょうか。人は社会的動物であるというのもそういったことなのです。 |
| 27/June/2010 世界認識: 欲望はまた苦悩でもあります (1-4) 欲望はまた苦悩でもあります。その欲望がどのような言語空間の、どのようなレベルの欲望であれ、苦悩であることに変わりありません。わたくしたちから見ればこれ以上に満たされたひとはいないと思われるひとでも、わたくしたちと同じように苦悩になやまされているものです。つまり、苦悩に関するかぎり欲望空間の大小やその種類とは関係がないのです。たとえ、足るを知ることでその欲望空間を狭めようが、自分の属する社会や位置を変えることによってその身を移そうが、つねに苦悩がつきまとうのです。 |
| 15/June/10 世界認識: 欲望空間には一定の容量・大きさがある (1-3) 欲望空間には一定の大きさ、容量とでもいうものがあります。欲望はその空間のなかでさまざまな姿をとりますが、それがいっぱいになるといいますか、その容量を溢れでとき、まったく別の欲望空間へと移行することになります。その欲望空間はそのひとの言語空間でもありますから、そのひとの育ち、環境、教育などによって行動様式や趣味が方向づけられ、規定されることになるのは当然でしょう。したがって、おなじ欲望でもそのひとの属する社会、またその社会での位置によって異なった様相をと性格を示すことになります。ひとの欲望に際限がないのも、こうしたことに基づいているのです。 |
| 04/June/10 世界認識: 幸福であるとはどういうことでしょうか (1-2) システムを維持するための活動のもっとも基本的なものは欲求とよばれるものでうす。欲望はその上に成り立っているのです。欲望はことばのレベルにおける欲求の表現であるといっていいでしょう。言葉のレベルにおいてさまざまな欲求が、言語空間のなかで、言語のシステムがまさにそうであるように、結び合わされ欲望の空間とでもいってよいものを作り出しているのです。欲望の空間はその意味で言語空間そのものであるといえるのです。 たしかに、欲求は満たされればそこで終ります。必要が生ずれば欲求もまた頭をもたげます。喉が渇けば水が欲しくなり、水を飲めばそれも癒されるのです。しかし、欲望はそういうわけにはまいりません。欲望は言語空間そのものでありますから、その言語空間のなかで、他の欲望と深く関わることになるのです。食欲は食欲であるだけではなく性欲でもあり、金銭欲でもあり得ます。金銭欲は金銭欲でまた名誉欲でもあり得ます。それらは一定の言語空間のなかで相互に変換されるものなのです。 |
| 27/May/10 世界認識: 幸福であるとはどういうことでしょうか (1-1) ひとは欲望のかたまりです。食欲、性欲、金銭欲、数え上げれば切のないことでしょう。また厄介なことに欲望は満たされれば満たされるほどにさらに増大するのです。そればかりではなく、この欲望が満たされればあの欲望、あの欲望が満たされればこの欲望へと渡り歩くという性格をもっています。ひとはつねに不満に満たされた状態にあるといって差し支えないでしょう。 そもそも欲望とはシステムの相互作用し合うことによってシステム自身を一定の状態に保っているのですが、それは一種の安定状態であるといえます。しかし、一定の状態を安定的に保つためには相互作用を保ち続けなければなりません。相互作用に終わりというものはありません。活動の停止はシステムの崩壊を意味するからです。欲望はシステムを維持するための活動にもとづいているのです。 |
| 17/May/10 世界認識: 誰もが幸福を求めてよい理由 また、隠れることの名人で ある存在を見失うことなく追いかけるには、論理的でなければなりません。論理的でなければ、問題の在り処を見きわめることもできません。とくに、構造の一致のなかに、アナロジーを追いかけねばなりません。そうでないと、かってな想像や、妄想が支配します。さらに、健全なアナロジーを追いかけるためには、諸々の学問にたいする質の良い知識が要求されます。わたくしたちは、それらの知識に裏打ちされた細心の注意と、最大の忍耐をもって存在を追跡しなければならないのです。とりわけ真摯でなければならないでしょう。 しかし、問題はどこにでもあるのです。あらゆるところにあるのです。問題にならないものも、出来事も一つとしてないのです。だから、だれもが哲学者でありうるのです。哲学の専門家というようなものはないといってよいでしょう。だれもが求める幸福は、プラトンがいうよyに、そのような哲学者のために用意されているのではないでしょうか。幸福であることは難しいことですが、だれもが幸福を願ってよい理由もそこにあります。 |
| 05/May/10 世界認識: だれもが哲学者でありえます このように、言葉の背後に隠れて、当り前なものとしてわたくしたちの目の前にあってものが、突如として、当り前なものでなくなるとき、問われる問いが存在についての問いなのです。しかし、存在についての問いを問うということは、難しいことです。言葉についての深い知識と洞察を必要とします。まず、問いを問うということ自体、言葉の世界での出来事ですから、存在を隠す言葉のなかで、どのようにして存在を燻しだすかは、難しい問題です。運よくそれに成功したとしても、存在と向き合った結果を、わたくしたちは、言葉で語らなければならないのです。語らなければ知識とならないからです。それでも存在について語ろうとするとき存在はまたもやその姿を隠してしまうのです。 |
| 27/Apri./10 世界認識: 言葉は存在を隠す名人です ものが在るということは、不思議なことです。ものが在るということを発見することは、驚きでもあります。わたくしたちは長らく、言葉の魔術のもとで、そのことを忘れていたのではないでしょうか。言葉は存在を隠す名人なのです。ものは名づけられ、語られることによって、当り前なものになってしまうのです。しかし、ふと、言葉の不思議さに気づくことがあるのではないでしょうか。言葉の意味ってなんだろうと。わたくしという言葉を百回繰り返してみてくださ。〈わたくし〉という音のつながりが、それまでは当然のように、疑うこともなく、受け取っていた意味が突如として消え去り、うつろに響くことはないでしょうか。そのときあらためて問う〈わたくしってなんだろう〉という問いは、とりもなおさず、〈わたくし〉という言葉でよばれていた存在にたいする問いなのです。 |
| 15/Apr./10 世界認識: 哲学的問題の普遍性 哲学の方法について考えてきました。それでは、哲学の問題はどこにあるのでしょうか。哲学は存在について問うことであるといいました。たしかにそのとおりです。哲学は存在を問題にするのです。しかし、存在は存在するものではありません。存在する〈もの〉が存在するだけです。したがって、哲学は存在するものを考えることによって存在することの意味を問題にするといえるでしょう。たとえば、幼いこどもは何を見ても、これなに、なぜ、と不思議がります。ちっちゃな哲学者です。すこし成長すると、鏡を見て、あなたはだれ、とたずねます。かわいがっている鳥が死ぬと、なぜ死ぬの、死んでどうなるの、神様はほんとうにいるの、と心配します。小学生、中学生ともなると、宇宙の果てまで思いを馳せたり、世界の起源を尋ねたり、生きることに意味があるのかと自問自答するするのではないでしょうか。それぞれみな、哲学的問いを問うているのです。それらはすべてものが存在(ある)とはどういうことか、また生きているとは、それはどこから来てどこへ行くのかということを問うているのです。 |
| 04/Apr./10 世界認識: アナロジーの役割とその重要さ すでに述べたように哲学の方法は対話です。そして対話とは、本来異なった世界の間に成立するものなのです。同じ世界での意見の違いは、その世界を構成している論理のうちで、議論によって解決すればよいことは、すでに述べたとおりです。異なった世界の間での対話は、それぞれの世界の外側にあり、本来、わたくしには見えない世界が、わたくしの世界に落とす影、つまり写像から、その見ることのできない世界を構成することにほかなりません。写像からもとの世界を再構成するということは、想像することでもなければ、まして夢見ることではありません。それは比例関係を追うことであり、まさにそれがアナロジーの役割なのです。プラトンが太陽の世界、イデアの世界を見ようとするとき、アナロジーに頼らざるを得ないのは当然のことといえるでしょう。哲学は自分の世界以外の世界に関わらざるを得ないとすれば、哲学の方法はアナロジー以外にはないでしょう。哲学は論理によって自らの世界を分析し、アナロジーによって自らの世界から、より根源的な世界へと飛躍することなのです。 |
| 25/Mar./10 世界認識: 哲学は時代の諸学問と密着していなければならない もちろん哲学といえども論理空間のなかでの思考です。哲学的思考も時代の科学に背を向けることなく、むしろ密着して考えなければならないことは、当然のことでしょう。そのなかにおいて哲学は、存在することそのことを問題にしていること、そのなかで思考している論理空間そのものの地位と妥当性を見つめていることをつねに忘れてはいけません。つまり、哲学するということがどういうことであるのかということを忘れてはならないのです。ときには諸科学と同じ問題を問題にしていながら哲学のもつあの特殊な雰囲気は、そこから醸し出されるのだといえます。 |
| 14/Mar./10 世界認識: 哲学するということは自己を吟味すること この無用とすら見える哲学が、いかなる論理的、科学的認識よりも深くひとの心をとらえ、自己の存在をその根底から揺るがす体験ともなるのです。わたくしたちは対話を通じて世界の深淵をたがいに見つめながら、自らの論理的空間のなかで考えなければならないのです。深淵から目を離すことなく、考え、たがいに吟味するkとが、哲学するということなのです。 ところが、このこtがなかなか難しいことなのです。深淵を見つめるということは不安なことです。わたくしたちは、ややもすると、そこから目をそむけようとするものです。存在の明るい世界のなかでものを見、考えることこそわたくしたちの本性であり、見えないものを見つめることには慣れていないのです。そのせいでしょうか、哲学しているつもりでいつのまにか存在する世界での思考に陥ってしまうのです。その結果、多くの哲学が似非科学にすぎないという印象を与えることになるのです。批判的であることは重要なことですが、単なる批判のための批判となりがちです。 |
| 04/Mar./10 世界認識: 対話することで論理空間を共有する しかしこのことこそ、他者との対話の可能性をていきょうすものであるのです。わたくしたちは、対話を通じて同じ論理空間を共有できる、つまり同じ不安と憂欝、同じ挫折を共有することができることになるのですから。哲学は、よく誤解されるような、孤独なひとりの知的作業ではないのです。だからといって和気あいあいといしたものでもありません。学問のもつあの明るさとは無縁です。哲学には学問、とくに科学が持っている、だれしもが認める確実性にも欠けています。また進歩し、発展すると言ったものでもありません。確かにプラトンが利用できた科学的知識より、わたくしたちがもっている科学的知識の方がはるかに進んでいます。けれども、こと『哲学する」ことということにおいてはプラトンの到達した高みにはけっしていたることはできないようにさえおもわれます。 |
| 10/Feb./10 世界認識: 哲学の問題は論理的に解決できるものではない それぞれのひとは、それぞれの相互領域において、認識する世界は異なっています。それぞれのひとが認識するそれぞれのものも、認識する世界が異なることによって、それは同じではありません。しかし認識する世界が同じである場合、その世界は同じ論理てこ構造をもっているはずです。学問の世界はそのようにして構成されている世界であると言えますその場合、その世界での意見の違いは論理的に決着をつければよいのです。ところが、認識する世界が異なる場合、存在することにたいする認識の違いは、もはや、論理的に解決できるものではありません。たとえ形式的論理は同じでも、その論理が展開される場である世界そのものが、異なっているのです。対話が必要とされるのはそのような場合であるといえましょう。しかし、異なった世界と世界の間の対話は、お互いの世界の論理的整合性を破壊することになります。それぞれの世界の論理的整合性が破綻することによってはじめて、存在するということが問題となるのです。わたくしたちは、それぞれの世界の論理的亀裂を、おそれとおののきをもって直視しなければなりません。それは不安で憂欝なことであります。 |
| 10/Feb./10 世界認識: 哲学するということは対話することである 対話はまずひととひととの対話です。つぎにものとの対話です。また、対話というのは、ほんらい、現在の状況との対話です。存在は現在の状況のなかにおいて確認されるものです。存在するということは、相互作用領域における現在の出来事にほかならないのです。 対話といえば、わたくしたちはソクラテスとプラトンを思いだします。対話はソクラテスの場合に見られるように、基本的には、ひととひととの対話です。しかし以前にも述べたごとく、ひととものとの間にも対話は可能です。もちろん自分自身のなかでの対話も可能です。プラトンの場合はむしろそちらの方に重点が移されているように思われます。いずれにせよ対話である以上、それは、かならずことばと関わららざるを得ないということは言うまでもありません。つまり、対話は誰との対話であれ、あるいは何との対話であれ、ことばによってなされるものです。それは当然のことです。相互作用領域におけるやりとりはことばであるといっても差し支えないからです。つまり存在の確認はこうした言葉によって行われるということです。これらの対話を弁証法とよぶ人もありますが、わたくしはあえてその言葉を使いません。弁証法という言葉に関しては、あまりにも多くのことが語られ、不透明な言葉になってしまっているかれです。対話、語り合いでよいのではないでしょうか。語り合うことこそ哲学の方法なのです。 |
| 28/Jan./10 世界認識: 存在することの確信 存在することの確信はどのようにしてやってくるのでしょうか。デカルトという哲学者は「われ思う ゆえにわれ有り」といいました。その意味はいろいろ議論されているところですが、それは存在することを疑えば疑うたびにわたくしが存在することを確信せざるを得ないということです。これがデカルトの方法的懐疑とよばれているものです。存在することの確信はまずそこからくるものとわたくしも考えます。つぎに、わたくし以外のものがそんざいすることは、そのわたくしの挫折を直視することからやってきます。その挫折がどんなに些細なものであっても、それを直視するならば、最終的には根源的な挫折につきあたることになるからです。根源的な挫折とは、わたくしが存在することの限界の自覚です。それを直視することによってわたくしは、わたくし以外のものの存在を認めざるを得ないことになるのです。このようにして存在するものの世界がわたくしの生活する世界なのです。それは当たり前の世界としてわたくしたちの目の前に展開されているその世界です。 当たり前の世界として、わたくしたちに与えられている世界の、破綻するところである世界の裂け目はどこに、どのようにして現れることになるのでしょうか。それはわたくしたちの相互作用領域における、言葉のやりとりのうちに現れます。つまり、対話において現れるのです。したがって哲学の方法とは基本的に対話することだといえるのではないでしょうか。 |
| 18/Jan../10 世界認識: 世界にたいして真摯に開かれていなければならない とにかく哲学は、対象とするところにおいても、また探求する方法においても、一般に学問とよばれているものとは大いに異なるところがある知的活動だといえます。知を愛するというかぎり、まず真摯であることが要求されます。自分にとって都合が悪くとも、とにかく論理の導くところに従わねばなりません。つぎに、すべてのものにたいして理性的にも、感覚的にも開かれてうなければなりません。哲学は存在することについての考察です。そのためにも存在する世界が破綻するところにめざとくあらねばならないからです。哲学する領域がそこにこそあるからです。そこはまたことばの破綻するところでもありますから、ことばにたいしてはとくに批判的、懐疑的でなければならないことはいうまでもありません。 このことは、しかし、すべて存在するものを不確かなものとして、信用してはいけないということではありません。存在しているものは確かに存在しているのです。たとえそれが夢・幻だとしても、幻想であったとしてもです。存在することを確信することなく、存在の根拠について考えることは不可能です。 |
| 06/Jan./10 世界認識: 哲学とは何でしょうか 哲学とは何かと問うことこそ哲学であるともいわれます。言語について研究する言語学をメタ言語学といいます。数学について研究する数学をメタ数学といいます。証明論などがその例です。それでは哲学についての哲学はメタ哲学でしょうか。そう考えているひとは哲学を誤解しているとしか言いようがありません。哲学という日本語はフィロソフィアというギリシャ語を訳したものですが、これは不幸な訳であったと言えましょう。いろいろある学問のなかの一つであるかのような印象を与えてしまうからです。フィロソフィアというギリシャ語はときには知を愛するという意味で愛知とも訳されることがあります。この場合、愛と訳されるギリシャ語にはハルモニア、つまり調和という意味があることにも注意しましてください。知もまた知識という意味だけではなく根拠という意味もあるのです。つまり、フィロソフィアというのは根拠への飽くなき探求と調和であるということです。とにかくギリシャにおいて哲学者という言葉はあれやこれやの知識をもっているひとであるソフォス、つまり学者、にたいして知を愛するひとを意味したのです。 |
| 21/Dec./09 世界認識: 他者の世界は不思議なもの・不可思議なものとして現れる それでは、存在するものの根拠でありながら、また根拠を与えるものでありながら、存在の内側にはないものを見るための手続きというようなものがあるのでしょうか。存在の内側においてそれはどのような現れかたをするものなのでしょうか。それはおそらく不思議なもの、不可解なものでありながら、それがなければ同一性、あるいはアイデンティティが崩壊するようなものであろうことはだいたい想像のつくところでしょう。しかし不思議なもの、不可解なものがだれの目にも明らかであるならば話はむしろ簡単であると言わざるを得ません。不思議なもの、不可解なものを見つけだすためには存在するものを規定していることば、それはもちろん数学ということばをも含んでのことですが、をその極限まで展開する必要があるといえます。展開する方法はさまざまであってかまいません。ときには論理的に、ときには詩的に、ときにはアナロジーを追いかけ、またときには直観や想像力の助けをかりて、とにかくあらゆる道具立てを駆使して展開する必要があるでしょう。そうした真摯な努力の先に不思議なもの、不可解なものがことばの破綻するところに、ことばの裂け目、世界のただなかにあけられた深淵として、ことばの、そして存在するものの内側にはないけれども、ことば、ならびに存在するものの根拠として、また、それに意味を与えるものとして自らを開示してくれるのではないでしょうか。以前、わたくしというシステムは崩壊の危機にさらされたとき、わたくしとはいったいだれなのかと問わざるをえないといったのも、以上のような事情があったからなのです。そういった体験なしには存在について、本当の意味において、語る資格はないといわざるをえないでしょう。存在とは努力して確認するものであるからです。 存在とは闇に浮かんだ光のようなものです。闇の世界について分かったようなことをいうひとのことばを信じるわけにはまいりません。わたくしたちはしょせんプラトンの語る、あの洞窟の住人なのです。存在するものの世界を出ることはできないのです。そういうわたくしたちにとってはこの洞窟のなかの光が光のすべてなのです。ただ、わたくしたちはこの淡い光が闇によって支えられていることは知っています。わたくしたちは存在することを感じるために深淵を覗き込む以外にはないのです。 |
| 09/Dec./09 世界認識: 言葉は世界に不連続を持ち込む 言葉と言葉の間にそのような断点を認めないひともあります。つまり、言葉が事態を世界から切り取ることは、世界に不連続を持ち込むことにならないということです。たとえば、犬という言葉と犬でないという言葉は連続しているという主張です。それは、犬であるという言葉と同時に、犬でないという言葉が生みだされるのかどうかという問題でしょう。わたくしは、犬という言葉は、同時に、犬でないという言葉を生みだすとは考えません。犬であるという言葉で切り取られた事態以外の事態は、いまだ事態として成立していません。それは、犬でないという言葉で捉えられてはじめて成立するものです。つまり、犬でないという言葉で捉えられることを、いまだ、待っている混沌としか言いようのないものです。いまだ、注意すら向けられていないのです。したがって、犬であるという言葉で切り取られた事態と、犬でないという言葉で切り取られた事態とは、別の二つの事態といわざるをえません。犬であるという言葉と、犬でないという言葉は一対のものとして、同時に生まれるものではないということです。したがって、犬であるという言葉と、犬でないという言葉の間には、断絶があるのです。そこには、存在を問題にしうる深淵があるということになります。あることを肯定することは、同時に他のことを否定することにはなりません。肯定と否定は別の二つの行為なのです。 |
| 25/Nov./09 世界認識: 言葉の破綻するところに存在は現れる 存在するということを考えるとき問題となるのは連続の内側にありながら、いかにして、また何処に不連続を見るかということになるのです。つまり、同一性、アイデンティティの根拠であり、意味を与えるものでありながら内側にはないものを、いかにして見るかという問題になるのです。それはまた、言葉の破綻するところでもあるのです。なぜならば、言葉によって切り取られた事態は連続のなかに不連続を持ち込みます。それは「つぎに進む前に」のところで説明したように二つの断点を持ち込むことになります。その断点はいかに狭くとも、深い深淵であるのです。そこは言葉のうちには捉えられない深淵です。それが言葉の限界であり、その深淵を直視するとき、言葉は破綻するいがいにはないのでっす。 |
| 15/Nov./09 世界認識: 事態として切り取られることで持ち込まれる不連続 事態として切り取ることがなぜ存在させるということになるのだろうか。それは、切り取るということが不連続を持ち込むからなのです。ただし連続しているところに不連続を持ち込むのではないことに注意してください連続が不連続に先立ってあるのではないのです。そうではなくて不連続とともに不連続が生まれるのです。切断以前に連続も不連続もありません。むしろ、連続をもたらす不連続が連続に存在を与えるといってよいでしょう。連続の同一性はまさに不連続によって与えられるのです。 不連続が連続に同一性やアイデンティティを与えるというだけでは十分ではありません。むしろ、連続にその同一性やアイデンティティを与えるのが不連続であるというべきでしょう。不連続という存在するものの間にある隙間、深淵、それを場合によっては無とよんでもかまいません、がわたくしたちに存在を感じさせるのであり、同一性やアイデンティティを与えるものなのです。わたくしの好きな表現をあえて使わせてもらうならば、連続の収斂する先が不連続ということになります。連続に境界はありません。連続の内側にあるかぎり外側はないのです。しかしながら、連続に根拠を与えているもの、それが不連続なのです。 |
| 04/Nov./09 世界認識: 事態として切り取られた存在 事態として切り取るということがなぜ事態を存在するものとしてわたくしたちに理解させるものでしょうか。連続した過程のなかにひとりたたずむとき、わたくしたちは存在を感じることはないのです。それは真っ黒な闇のなかで存在を感じることがないのと同じです。真っ黒な闇のなかにおいてこそよけいに自己の存在を感じるというひともあるかもしれません。しかし、それはかって光のなかにあって存在することを疑わなかった思いでからくることなのです。光のなかにおいては存在することを感じることがないほどに存在することを疑っていなないだけなのです。わたくしたちも相互過程の真っ只中にいて事態として切り取った経験がなかったとしたならば、つまり言葉がなかったならば、存在するということを感じることもなかったことでしょう。 |
| 23/Oct./09 世界認識: あるものが実現されているとはどういうことだろうか ところで、何かが実現されているとはどういうことなのでしょうか。それは、ものともの、ものとシステム、システムとシステムの複雑な相互作用の結果です。つまり、ひとつの出来事であり、ある時点における事態ともよばれるものです。それは相互作用そのものでないことはいうまでもないことでしょう。あくまで相互作用の結果であります。しかし、相互作用の結果といえども固定的なものではなく、相互作用の過程の一部です。相互作用はさらに続くのです。したがって結果とというものは、ある意味で、われわれがかってに切断した切れ目における事態にほかなりません。わたくしたちが存在するものとして認識するのはこの切断によってもたらされた事態のことなのです。 この切断することのなかに、つまり相互作用の過程に切れ目を入れるということのなかに、存在するということの意味が浮かび上がってくるのです。事態として切り取るところに存在するということばが言葉と深く関わっているということでもあります。なぜならば、事態として切り取ることこそ言葉の働きそのものでもあるからです。 |
| 13/Oct./09 世界認識: あるものが存在すると言うことができる根拠 とにかく思考の対象は存在するものでなければなりません。それでは、あるものが存在すると言うことができる根拠はなんでしょうか。「存在」というものがあるわけではありません。あるものが存在するために持っていなければならない「存在」というものがあるわけではありません。あるものがあるものと言われる限り、すでに存在しているものなのです。設計図に描かれた家は物理的には存在していません。しかし設計図としては存在しているのです。建築家の頭のなかにあるイメージとしての家はいまだ設計図としても存在していませんが、イメージとしてすでに存在しているのです。それぞれの場合に共通して使われている存在しているという言葉は何を意味しているのでしょうか。 建築家のイメージが紙の上に実現されたものが設計図です。設計図として存在している家が物理的世界に実現されたものが家のイメージなのです。つまり、何かが実現されているということが存在しているということであるといえましょう。 |
| 30/Sept./09 世界認識: 思考の対象は存在するものでなければなりません 存在について考えることこそ煩悩の最たるものとして退けたくなりますが、それでもなおわたくしたちは存在について考えざるをえないのです。なぜでしょうか。存在ということがそれほどまでに包括的なものであるならば、存在についてはむしろ考える必要すらないといえないでしょうか。キメラは物質的世界では存在しないけれども想像の世界では存在するというかわりに、たんにキメラは想像的存在であると言えばそれでいいということにならないでしょうか。想像的存在であるとさえ言う必要があるのでしょうか。キメラは想像物であると言えばそれでよいのです。 じつは「キメラ」は存在すると言っても「キメラ」に何も付け加えることにはならないのです。しかし「存在する」という言葉には重要な役割があるのです。それはこの言葉は議論している領域を規定する記号であるからです。この存在記号をいかに理解するかによって思考の枠組みが決まることになるのです。存在記号を抜きにして思考は成立しません。つまり、思考の対象が如何なるものであるかにかかわらず、とにかくそれはそれは存在するものでなければならないといことを意味するからです。もちろん、それぞれの場合において存在するということの意味はさまざまであるでしょう。それは言葉が使われる土俵をきていするものdらるからです。 |
| 14/Sept./09 世界認識: 存在するということはどういうことでしょうか 存在するということはどういうことでしょうか。哲学のもっとも哲学らしい問題について考えることにしましょう。存在の問題は哲学の歴史をつらぬいている問題であり、あらゆる領域の哲学的問題の根底にこの問題が横たわっているといえるでしょう。それは、存在するものしかわたくしの思考の対象になりえないからです。火を噴くライオンの頭とヤギの胴とヘビの尾を持ち、目から炎を吐く、あのキメラも物質的世界では存在しなくとも想像の世界では立派に存在するのです。わたくしたちは、ややもすると、物理的・物質的世界における出来事だけを存在と思いがちですが、精神的世界の出来事も、心のなかの出来事も、神々の世界の出来事さえも存在するということばで捉えるのです。キメラなんか存在しないというということすらできないことになるのです。わたくしたちをとりまく世界においても、たとえば論理・数学的存在、社会的存在などが議論されるし、可能的存在、必然的存在、偶然的存在がそのなかにおいて区別されるのです。存在について考えることは、近代的諸科学に比べて、そのあまりにも茫漠とした思考対象であるために、ときには客観性にとぼしい知的遊戯とみなされたり、似非科学として悪口を叩かれたりももしました。 |
| 04/Sept./09 世界認識: 不幸とはシステムの悲鳴である もう一度アイデンティティの問題に注意してください。アイデンティティというのは確立されればいつまでも持続する自己というシステムの状態ではないのです。アイデンティティというのはことばの世界に与えられる秩序であり、構造でありました。ことばの世界における秩序のことを整合性ともよんだのですが、この秩序は度r歩くして保たれねばならないのです。自己産出的な生命体が、変化のうちに自らの健康と同一性を保っているように、それは一つの努力なのです。その上に成立している言葉の世界も自己産出的であり、たえず変化しているのです。わたくしということについて考えたとき、それはこのようなシステムの悲鳴であるといったことを思いだしてください。不幸とはそのような状態をいう言葉なのです。いいかえれば、ひとが〈わたくし〉と言うとき、それは不幸なときといえるのではないでしょうか。わたくしは幸福であるという言葉は不幸であるということとはほぼ同義です。不幸は大きな声でさけびまわりますからすぐに目につくのですが、幸福は慎み深く姿を隠します。瞬く間に、わたくしたちは、それを見失うものです。どちらかというと、わたくしたちは、不幸の大海に漂っているものです。不幸になるのに努力はいりません。しかし、幸福は努力して手に入れるものです。秩序の構築ですから。隠れることの上手な幸福は、すぐにでもわたくしたちの手から漏れてゆきます。 幸福は時々しかその姿を見せてくれないからこそ、幸福なのでしょう。 |
| 13/Aug./09 世界認識: 幸福と不幸は同居しているもの 幸福の問題に戻りましょう。幸福であるとは、神であれ、民族であれ、あるいは愛するひとであれ、理念的・イデア的なものとのアイデンティティを確立することです。なぜならアイデンティティを確立することによってはじめて幸福と不幸が生み出されるからです。もちろん何が幸福で、何が不幸かは、何と、どのようにアイデンティティを確立するかによって違ってくることはすでに述べたところです。それは、何と、どのようにアイデンティティを確立するかによって、以前には幸福と思っていたことが不幸となり、不幸であると思っていたことがこの上もない幸福であることになったりするものです。幸福は一方において多くの不幸を生みだすことも忘れてはいけません。幸福は不幸と同居しているものです。神と共にあって幸福でいっぱいである、辛いことも、病もすべて祈りであって不幸ではない。毎日が感謝の日々であるというひとがいます。それは非常に反省的な言葉です。実際には多くの不幸があるのです。 |
| 03/Aug./09 世界認識: 幸福とは「何のために」と問う必要のない究極のもの 情念には的確な言語表現が与えられないという意味においても抽象的です。情念にもいろいろな情念があります。ひとはなぜ幸福を望むのか。それは幸福であるためです。「幸福とは、もはや何のために〉と問う必要のない究極のもの」とプラトンも「饗宴」とう本のなかで書いています。幸福というのは最後の言葉なのです。言語表現である感情を、幸福という言葉も含めて、その背後から支えているものであります。それは、語り得ないものでもあります。語ろうとすれば、原語のレベルから、間接的に語る以外にはないものといえましょう。 情念は宗教・民族・国家などという理念的なものとのアイデンrヒティの言語空間における表現であるといいました。しかし、つねに言語的表現が与えられているとはかぎりません。言語的表現が与えられていない場合がほとんどでしょう。たとえそれが与えられている場合でも、それは間接的なものにすぎないのです。その意味で無意識的なものと似ています。情念に、それがいかに不完全で間接的なものであっても、言語的表現を与えることによって、多くの不幸が、不幸ではなくなることも、無意識的なものと似ています。言語空間における表現でありながら言語的表現を与えられていない情念は、マグマのように出口を求めてエネルギーを蓄積するのです。 |
| 23/July/09 世界認識: 情念は言語的に表現できない 情念に無害な情念というものはありません。幸福も与えるし、それ以上の不幸も与えうるものです。それが情念の抽象性というものでしょう。幸福とか不幸は実感できます。しかし、ある事柄がなぜ幸福であり、他の事柄は不幸なのかは、情念の光のなかで決まるのです。また、同じ出来事がある場合には幸福であり、他の場合には不幸であるのも情念の違いによるのです。つまり情念は欲求や欲望の追求を幸福にしたり、不幸にしたりする、イデア的存在であるということができます。それは、情念こそ欲求や欲望の空間を構成するものであり、そのなかにおいて欲求や欲望がその意味を獲得する場であるからです。したがって、すべてを幸福にしたり、すべてを不幸にしたりする情念は存在しようがありません。情念の不在はまさしく光の不在であり、闇というより以外にはないでしょう。そこは幸福も、不幸もない世界です。 |
| 08/july/09 世界認識: 偏狭な情念に支配された社会の危険性 一方、あまりにも偏狭な情念も問題です。社会の構成員すべての欲望空間が同じ空間であることを要求するような情念に支配されているとするならば、それは排他的な集団を構成することでしょう。たとえば宗教を同じくする集団、単一民族、あるいは同じ理念、同じ心信念で構成された集団などです。これらの集団はその構成員にたいして最高の幸福を提供することもあれば、最悪の不幸をもたらすこともあり得ます。偏狭な情念に支配された社会は対立と抗争のもとであります。戦争などもそのよい例ではないでしょうか。戦争が幸福をもたらすというのはおかしいではないかといぶかる人もいるかのしれません。確かに戦争は最終的には不幸をもたらすとわたくしも思います。しかし、戦争で死ぬことを幸福と思った人も多いのです。そういう人を笑うわけにはゆかないでしょう。かれらは戦争に参加し、死ぬことによって、はじめて自分のアイデンティティを見つけたのです。それはかれらにとって最高の喜びであり、幸福であったと言えましょう。もちろんその幸福は多くの不幸の上に成り立った幸福であることを忘れるわけにはゆきません。 偏狭な情念、反社会的情念に共通して言えることはその抽象度の低さです。したがって情念の抽象度を高める努力は寛容な社会を構築する上で必須のことです。いずれにせよ、集団のなかでアイデンティティをかんずることが個人にとってどれほど幸福なことか計り知れないものがあります。アイデンティティとはそもそも集団のなかでこそ確立されるものであるからです。ここでも、人間は社会的存在と言えるのでしょう。 |
| 26/June/09 世界認識: 欲望とは社会的なものである 構造化された欲望空間は個人のものであると同時に、社会的なものであることについて考えておきましょう。欲望を構造化する情念は抽象的な価値を共有する社会とのアイデンティティです。それは抽象的な価値としてわたくしにたいしてだけではなく、ともにアイデンティティを構成する他者にたいしても、かれらの欲望空間を構築する情念であることを要求します。言い換えれば、個人がそのなかでアイデンティティを形成する社会は、その社会の価値を、その社会に生きる個人も自分の価値とすることを求めるものであるといえます。社会はその構成員の欲望空間を支配するのです。だからこそ、個人の欲望空間を構築する情念にはつねに社会的判断がともなうのです。ある社会で称賛の的となる情念も、他の社会では非難されることになります。また、同じ社会でも状況によって称賛されたり、非難されたりもします。個人のアイデンティティも、個人が所属する社会の宗教、民族、国家などを含む理念とのアイデンティティでなければ幸福とつながるものではありません。社会から遊離して自己満足の幸福をもとめることは社会全体を不幸にしかねないのです。自身の生きる社会における反社会的情念によって支配される欲望空間は、たとえ多くの欲望において、社会と共存、あるいは調和することがあるとしても、その欲望空間を追及すればするほど、構造的な違いが露わになり、そのこと自体が疑いと苦悩を増幅し、ついには互いを不幸にするものです。 |
| 10/June/09 世界認識: 欲望と情念 欲求は言語空間においては欲望に変容します。それでは、欲望が満たされていれば幸福でしょうか。これはなかなか厄介な問題です。なぜなら食欲は満たされればおさまりますが、しかし、食欲望は満たされれば満たされるほど増幅することもあるのです。一般に欲望には際限なく増大する傾向があります。欲望を満たすそのことが、そのひとのアイデンティティにさえなりうるのです。もし、アイデンティティが実現されていることが幸福であるとするならば、ひとは決して幸福ではあり得ないでしょう。 言語空間においてひとは、何処に、また何に自分のアイデンティティを求めるか選択をせまられます。その選択次第では多くの欲望を犠牲にせざるをえません。欲望はたがいに相容れないところがあるものですから。この場合の欲望の犠牲は、人は不幸とは思わないのではないでしょうか。むしろアイデンティティの追及そのものを幸福と感じるのではないでしょうか。 |
| 03/June/09 世界認識: 幸福とは何でしょうか 幸福とは一般に心身の要求が満たされている状態のことです。心身の状態とはどういうことでしょうか。まず、自己産出的システムとしての個体が、自己をたえず産出しながらも、個体としてのアイデンティティを正常に保っている状態のことです。正常に保っているとは、身体的欲求が満たされていることでしょう。つまり、快適な身体的生活が行われていることでしょう。そのための環境も、もちろん、確保されている必要があるのは当然です。空腹であるのに食べ物がない、眠たいのにうるさくて寝られないというのでは快適な生活とはいえないからです。 |
| 25/May/09 世界認識: 人生の意味は問うことによってはじめて生じる わたくしたちがかろうじて意味を見い出せるのは、わたくしたちの選択が存在を規定できる人生の内部における生き方だけではないでしょうか。それがおそらく人間の生き方なのでしょう。人生に目的などないし、必要でもない。人生について語る必要などさらさらない。そう考えるひともいることでしょう。それはそれでよいのです。人生に意味があるかないかはだれにも分かりません。神を信じるひとには人生に目的があるのかも知れませんが、神があるのかないのかはだれにも分かりません。それはそのひとの信仰の問題です。ただ、人生の意味について考えることがなくてえも、あるいは人生には意味などないと考えても同じように生きて行けるのです。要するに問わなければ問題はないのです。人生について語らなければ目的も、意味もないのです。 人生の目的とか意味は問うことによってはじめて生じる問題であることはすでに指摘したとおりです。しかし、一度でも問い出せば執拗に取りついて、わたくしたちを放さない問いであることもたしかです。その問いから逃れるには、現実にせわしなく妥協して問いを放棄するか、問い自体を閑人の慰みごととして退けるかでしょう。人生の意味を真剣に問うた後、なお無意味だと言えるひとはよほど勇気あるひとか、鈍感なひとのようにわたくしには思えます。人生は、考えれば考えるほど無意味であるどころか、不条理あるようにわたくしには見えるのです。 人生の意味など問うことのないひとが大多数でしょう。問うことがあってもそれを巧妙に避けているひともいることでしょう。しかしこの問いはあらゆる問いの底に潜んでいる不気味な問いにではないでしょうか。ひょってするとあらゆる問いが無意味なものと化してしまう問いかもしれません。 |
| 12/Apr./09 世界認識: 目的は生き方を規定します 目的は生き方を規定します。わたくしたちは何かのために生きているのではありません。しかたがないから生きているのです。そのなかでどのような生き方をするのか選択しているのです。つまり存在を内側から規定するのです。それに対して運命的な状況は外部から存在を規定するものといえるでしょう。このように考えてくると、生き方の選択、つまり在り方をいかに規定するかがその生き方に、人生にではありません、生き方に意味を与えるものであるということが分かっていただけると思います。また、運命的な状況もたしかにそのひとの存在を規定しますから、その限りにおいて人生に意味を与えるといえますが、それはそのひとの存在を規定している外部にとっての意味ということにほかならないのです。外部に意味がなければ人生にも意味がないというのはそういうことなのです。 意味とはそういうものです。目的自体は意味ではありません。目的は選択をうながすことで生き方に意味を与えるきっかけとはなりますが、意味をあたえるのはあくまで選択なのです。言いかえれば「何のために生きるのか」ではなく「どのように生きるか」ということが人生に意味を与えるのだといえます。蜂の社会において働き蜂がただただ働くのは蜂の社会にとっては意味のあることですが、個体としての働き蜂にとって働くことになんの意味もありません。人間にとっても同じことがいえます。人間存在自体にはたして意味があるのかどうか分かりません。選択による生きることの積み重ねである人生についても分かりません。どのような人生であったとしても百年もすればわたくしたちは皆死んでいることでしょう。わたくしたちの人生が外部にとって有意味であったとしても、わかくしの思索が数千年にわたって読み継がれ、多くのひとに勇気を与えたとしても、わたくしたちの行動が子孫の幸福にどれだけ貢献しようとも、宇宙が崩壊して痕跡さえ残すことなく消え去ってしまうかもしれないのです。 |
| 30/Apr./09 世界認識: 人生というものはありません、生きているという事実があるだけです 全体としてのわたくしの人生というようなものは、他者としてしかありません。つまり外部から見たときはじめて存在するものなのです。内部にいるとき、つまりまだ生きているわたくしにとって全体としての人生はありません。生きているという事実があるだけなのです。たしかにいま生きているわたくしにとっても、そこに任意の切断を入れれうことによって、これまでの人生というものはあり得ます。だからこそそれまでのわたくしの人生は勝手なものであった、これからはひとつ社会のために捧げようと殊勝なことを考えることもできるのです。しかしこれらのことは生き方の選択であり、日常の目的ではあっても人生の目的とは関係がありません。選択した通りの生き方ができたとしても、人生に目的をはたしたことにはならないのです。 生き方の選択と人生の目的はたしかに違うのです。それは、生き方の選択が、いかに生きることにとって重要であろうと、人生の説明の根拠とはならないからです。理由は簡単です。人生は外部から見たときにはじめて語りうるものだからです。目的とは選択されたものであって、運命的なものではありません。人生の目的は人生の外部にあるものであってセンタl区の対象とはなりえないのです。死もそのようなものでありました。ひとが死を選択しているように見えても、それは生き方の選択であって、状況そのものは選択の対象とはなり得ないのです。 |
| 17/Apr./09 世界認識: 人生の意味は人生の外部にも内部にも求めることはできません たしかに、わたくしの人生が他者を幸福にするかもしれません。わたくしの人生がこどもたちが将来幸福に暮らせる社会の創造に寄与するかもsぎれません。しかし、それはわたくしの人生に意味を与えるものではないのです。なぜならば、他者の人生にも意味がないのですから、意味がないものに対しては何をしても意味はないのです。たとえば、わたくしの人生のお陰でこどもたちがよい生活に恵まれたとしましょう。しかし、そのこどもたちの人生も、わたくしの人生とおなじく無意味でありうるのです。つまり、意味を目的を達成することとして考えるかぎり、その最終目的に意味がなければならないのです。しかし、いずれこの地球も、その上に生きる生命も、宇宙そのものも崩壊して消え去ってしまうのかも知れないのです。わたくしがどのような偉大な仕事を成し遂げて将来の人びとの役に立ったとしても、その将来がまったく無意味であるならば、わたくしの仕事にどのような意味があるというのでしょうか。外部から見てわたくしの人生に意味があるというのなら、その外部にも意味がなければならないのです。いくら他者の役に立つことを自己目的化してみたところで事態は変わりません。 外部に目的を求めるわけには行かないとすれば、それをわたくしの内部に求めるほかにないということになるでしょう。はたしてそのようなことが可能でしょうか。たしかにわたくしの日常の行動については人生の内側で正当化することができます。働くのは自分や家族が生活するためです。こうして文章を書くのは、自己満足かもしれませんが、言いたいこと、伝えたいことがあるからでしょう。これらのことはたしかに日常の行動の目的ではあり得ます。しかし、はたして、人生の目的でありうるでしょうか。 |
| 06/Apr./09 世界認識: 人生の外部にあるものにとっての意味 人生とはひとが生まれて死ぬまでの全歴史であるとしましょう。まるで苦労合うるためにだけ生まれてきたように見えるひともいます。かれの人生にはいったいどんな意味があるのでしょうか。そのうちのあるひとは神や死後の世界での新しい生活との関係において意味を見出すかもしれません。わたくしはそのようなひとたちのために神が存在し、幸福な生活を準備してくれていることを願わざるを得ません。しかし、ここに一つの問題があります。それは人生の意味を人生の外部のものとの関係で考えているということです。その場合、そのひとの人生は外部にとって意味があるにすぎません。つまり、かれの人生は神にとって意味があるのです。そのひとにとっては意味がないのです。ただ、わたくしが神であり、神がわたくしである場合は別です。なぜなら、神がモーゼに対して「我は、在りて在るものなり」と自らを表しあたように、わたくしが在るとおりに在るということが意味の最終根拠ということになるからです。そうでない場合わたくしの人生は他者にとって意味があるだけです。 |
| 24/Mar./09 世界認識: 人生には意味があるのでしょうか この問いはすべてのひとにとって意味のある問いであるとはいえません。「人生の意味なんていうこと自体意味なんかないよ」というひとにとっては、問い自体存在しません。この問いは問うことによってはじめて成立する問いであり、問うことによってはじめてその意味も生じるというたぐいの問いであるのです。多くの問いはわたくしが問うか問わないかにかかわらず成立します。わたくしが問わなくとも誰かそれを問題にするひとがあれば問いとして立派に成立します。それにたいして「人生に意味があるのか、ないのか」という問いは、それを問うあなたにとっては意味のある問いですが、それを問うことのないわたくしにとっては問題自体存在しないといえます。これは内部から全体を問うときに生ずる問題の特徴であるといえます。 |
| 11/Mar./09 世界認識: 価値の多様性にたいする寛容 他の共同体にたいして自分たちの尺度を当てはめることは、とくに注意して避けなければなりません。それぞれの共同体は、それぞれの価値の尺度の上に成り立っているものです。そういう共同体にたいしてまったく異なった尺度を適用することは、その共同体の秩序を乱し、その共同体に属している人々のアイデンティティを危険に晒すという意味で不正義以外の何ものでもありません。わたくしたちはこの価値の多様性にたいして寛容、寛容という言葉さえうぬぼれに聞こえますが、とにかく謙虚であらねばならないでしょう。けっして、自分たちの利益のために自分たちの価値を押しつけることがあってはならないのです。それこそが基本的人権をまもることであり、法の前の平等を保証することになるのです。なぜなら、ひとが自分で価値を選択し、自分の生き方を決めることができるということが、まさに、基本的人権であり、それを保証することが法の前の平等の意味なのです。最低限の文化的生活も、人間保護区のなかでの生活であるならば、無意味なのです。 わたくしたちは知らず知らずのうちに不正を働いていることも多いでしょう。また、意図せずに悪をなしていることも多いはずです。しかし、正義に反することだけは最新の注意をもって避けなければならないでしょう。そのためには他者にたいして寛容であること以外にはないでしょう。さらに、正義の押し売りをしないことです。正義の押し売りほど正義の本質に反することはないのですから。すでに述べたように、正義とは不平等のなかにおける平等の追及です。それは調和であり、共存ということでもあるのです。 26/Feb./09 世界認識: 正当に評価してもらう平等性 人間として平等でないとすれば、わたくしたちの祖先が多くの血を流して手に入れてきた権利、あるいは基本的人権などはどうなるのでしょうか。法の前における平等はどうなるのでしょうか。人間が平等であるという思想には「一人は一人としてのみ計算されるべきであって、何人も二人以上に計算されるべきではない」という考えがあります。しかし、人間はそもそも計算されるべきではないとわたくしは考えます。計算するということは計量することであり、物差しを当てることです。一つの物差しで計られた平等性の追求はその百倍も、千倍もの不平等を生み出すものです。つまり、一つの物差しで計られた平等こそ最大の不平等ということなのです。そもそも計るということは不平等を確認することにほかならないのです。 したがって、計られた不平等は社会の秩序の構築のため、つまり、ほかの尺度で計ることを可能にするためにこそ使われなければならないのです。したがって、法の前に平等であるということは差異を差異として、正当に評価してもらうと言う平等性なのです。ひとは差異を解消するために計られるべきではなく、差異を差異として正しく評価するためにこそ計られるべきなのです。そのためには多くの尺度が必要であることはいうまでもありません。一つの尺度を他者に無理やりに当てはめてはならないのです。自分に有利な尺度を人他人(ひと)に当てはめるということは、自分の利益のために他人の利益を侵害することにはかならないからです。それは、正義に反することです。 12/Feb./09 世界認識: 抽象的平等というイデオロギー このことから次のことがいえます。他国を犠牲にした一国の経済的発展は、他国のよって立つ秩序を混乱させ、引いては他国のアイデンティティを危険にさらすことになるということです。それは正義に反するということにならないでしょうか。地球規模の環境破壊も、じつは、この不正義によるところが大きいと思われます。わたくしはそう考えます。たしかに、物質的豊かさが唯一の価値ではないことはよく指摘されるところです。しかし、この多様な価値を許すこと、経済的発展を追及することの間には、矛盾するところがあるのです。世界の各地で見られる飢えと社会的混乱は正義に反します。これは決してイデオロギーの問題ではありません。むしろ、イデオロギーの問題ではありません。むしろ、イデオロギーの結果であるといえましょう。それも抽象的平等主義というイデオロギーの結果です。わたくしたちは人間として平等なのではなく、同じ人間なのです。このことを忘れてはなりません。すべてこの認識から出発せねばならないのです。 01/02/09 世界認識: 国際社会における不平等 このことは、国際社会における不平等を考えるとき非常にはっきりしてきます。国際社会における貧富の差は歴史とともにますます大きくなっています。国内の貧富の差を徴税などによる富の再配分によって解決するように、世界税とか援助などの手段によって解決できないのでしょうか。出来ないとおもいます。それは世界政府のようなものがないからといった問題ではありません。日本のような自国内に資源の少ない国が、自国内では消費し切れない製品を生産することによって、経済的発展をとげていること自体が問題なのです。プラトンならそれを熱で膨れ上がった国家というところでしょう。それが世界の秩序の破壊をもたらしているからです。なぜならば、そのような国が発展し続けるためには、世界が同じ価値観を持った国にならなければならないのです。 もちろん、日本を例にとったのはひとつの典型としてであって、それは多かれ少なかれ近代の経済システムの持つ宿命でもあるのです。わたくしたちは、豊かになろうとしている国々にたいして自然環境の保護をやみくもに強要するわけには行かないのです。つまり、現在の経済システムが拡大するためには世界が同じ価値観を持つことを必要としているということなのです。ひとつの国が豊かになろうとすれば、異なる文化の衣装を脱ぎ捨て、同じ時計の、同じリズムでの生活が要求されるのです。現在ときに主張される国際化がそのような事実の上に主張されていないことを願うところです。 01/20/09 世界認識: 平等は多様性を前提にする 多くの社会においてこの種の不平等を是正するために、多くの利益を得たひとは多くを社会に還元することで解決しようとしてきました。それももっともなことでしょう。環境、生まれ、才能、あるいは努力の違いによって手にする利益が異なるとはいえ、それも社会がその味方をしているからなのです。首長や王は、蕩尽することによって、富を社会に還元する者でもありました。富の再配分はいつの時代においても重要な問題であります。また、そのような不平等を生み出さないような制度的・経済的仕組みを考えたひともいました。それも必要でしょう。そのとき、決して忘れたはいけないことがあります。それは、すでに述べたことですが、秩序は多様性を前提にするということです。一人一人の個人を点のような平等性の下に考えてはいけません。それがいかに科学的に見えようともです。神の前にであろうが、法の前にであろうが、あるいは人格としてであろうがです。ひとはそんな抽象的存在ではありません。なによりもまず、違いを認めることから始めなくてはならないのです。 01/09/09 世界認識: 正義の問題は正・不正と善・悪の両方に関わる このように不正義には悪と不正の両方の要素があることになります。正義は秩序の問題とアイデンティティの問題の両方と関わることになるのです。言い換えると、正義にもとる行為とは悪い秩序をもたらす不正な行為ということになります。 たしかに、不平等は世界の秩序です。不平等自体に何の問題もありません。しかし、この不平等が、ある人びとの利益のために、意図的に作り出されているような場合、それは問題です。正義にもとることになるからです。差別とはそのような不平等の最たるものといえましょう。しかし、個人としては意図的ではなくとも、社会・経済的システムの結果としてもたらされる不平等があります。じつは、完全に機会均等が実現されているしゃかいにおいても、多くの不平等が存在します。豊かな境遇の下で育ったひとはよい訓練を受け、生まれつきの才能が同じでも、よりよい位置から出発することができるでしょう。また、同じ境遇に育っても才能の違いによって手に入れることのできる利益は異なります。それは競争システムのもつ宿命でもあります。それでは、競争システムそのものが悪いのでしょうか。そうとも言えません。競争の否定は多様性の否定を導くというこれまたこまった不平等を生み出します。ここでも、最大の正義が最大の不正義であることになるのです。 2008/12/21 世界認識: 異質なものを自己と認めること 不平等を不平等であるままで平等にするということは、異質なものを自己として認めることにほかならないのですが、それは異質なものを同質化することでもなく、まして自己のなかで異質なものを隔離する特別な領域を確保して、異質なものをそこに閉じ込めることによって、それを無視することではありません。そうではなく、異質なものが異質であるがゆえに排除されるということがないようにするということです。為すべきときに、為すべきことを、為すということによって、異質なものの存在を自己のなかに確保するということなのです。それは不平等の原因が不正である場合、その原因に介入しなければならないということでしょうし、その原因が不正とはいえない場合、結果である不平等に介入せねばならないということです。そうであってこそ不平等は不平等のまま社会というシステムの自己として、つまり、排除せねばならない異物としてではなく、存在理由が与えられるのです。ツキディデスならホーラの神に従うこととでもいうところです。 それがまさに正義というものです。正義とは不平等であることの存在理由の追求ということになるのではないでしょうか。それは決して不平等の正当化でもなければ、まして差別の容認ではありません。むしろ多様性の積極的追求といってよいでしょう。したがって、最大の不正義は自己の利益のためにシステムの秩序を乱し、他者のアイデンティティを危険にさらすことによって、他者を排除しようとすることであるといえます。 2008/12/12 世界認識: 正義とは不平等を平等にすること ところでシステムが誰を、そして何を自己として認めるかは、そのシステムによるもです。したがって、ひとがそのシステムによって自己として認められるには、そのシステムの秩序を乱すものであってはなりませんし、さらにそのシステムを構成する他者のアイデンティティを傷つけるものであってはならないことは当然でしょう。それにしてもやっかいなことにシステムは、システムのなかに意図的に非自己を作りだすこともあるのです。差別です。それは平等を求めるために非自己として排除すべき異物を作りだすというシステムの病気です。それは、不平等のなかに平等を求めるというシステムの本質を自ら否定することにほかなりません。それにたいして、システムが不平等なものを平等にすることこそ正義というものです。 2008/11/24 世界認識: 不平等な社会における平等とは このような不平等な世界でなおわたくしたちが平等を求めるのはなぜでしょうか。それは、ひとが共同体を形成し社会生活を営むために不可欠なものだからです。なぜなら社会とは不平等なものが、不平等を背負いながら、人間的に等しく生きるためのシステムにほかならないからです。平等であるということはシステムにとって異物ではないということを意味します。つまり、等しくないからといって排除されないということです。つまり異なるものが異なるからといって社会というシステムから排除されるものではないということです。社会において異物ではないということは、システムがそのひとを自己として認めることにほかなりません。そうであってこそさまざまに異なるひとが、そのシステムのなかで事故のアイデンティティを持つことができるというものです。 2008/11/13 世界認識: 完全な平等は最高の不平等でもありえます 不平等を本質とする社会にあって平等であるということはどうゆう状態なのでしょうか。昔からひとは神の前に平等であるといわれることもあります。また、法の下に、あるいは人間として、平等であるといわれてきました。しかし、これらの平等は現実生活の不平等を覆い隠す役割しか果たしかねません。平等であることの主張が不平等を覆い隠すことがあるという事実は非常に重大なことであります。むしろ不平等であることこそわたくしたちの自然な姿であることを認めましょう。不平等なものの織り成す秩序の世界こそ、わたくしたちが生きている現実の世界の姿なのです。すべての点においての平等は抽象的な世界においてしか存在しません。そのようなことがあるとしても、それはすべての個性と特徴をはぎとられた、数えられることだけができる点の集まりのようなものにすぎません。この意味から、不平等であることを本質とする世界において完全な平等を求めることは最大の不平等となるのです。 2008/11/01 世界認識: 不平等はシステムの本質です そのほか世の中にはさまざまな不平等が存在します。社会とはむしろ不平等の上にしか成立しないシステムであるといってもよいくらいでしょう。不平等は社会というシステムの本質でもあるねです。なぜならシステムとは、そもそも異なる要素が作用し合い、変化し合うもののなかでの均衡であるといって差し支えないのですから。つまり、異なった要素がその差異を問題にすることによって平等化しようとしたり、平等のなかに差異を持ち込もうとしたり力の均衡の上に成り立っているのです。社会とはそれぞれの要素が要求された役割をはたすだけで、システム全体としては変化しない機会の様な静的なシステムではないのです。そもそも静的システムの要素の間には区別はあっても不平等はありません。 2008/10/21 世界認識: 意図的区別による不平等 不平等のなかには意図的区別による不平等もあります。差別です。人種差別、障害者にたいする差別、性差別、いろいろあります。これらは本人に落ち度のない不平等ということですむような問題ではありません。これらは正・不正に関わる問題でもあるからです。いずれにせよ、機会の均等が保障されていると見える社会でも、競争社会のもとでは、生まれつきの才能によっても不平等は生じるものです。また、いくら豊かな才能に恵まれていても、時代のニーズに合っていなければ、それを生かすことすらできません。 2008/10/10 世界認識: 正義とはどのようなものでしょうか 世の中には多くの不平等があります。その不平等にもさまざまな原因によるものがあります.その原因の一部がわたくしにあるものもあれば、社会にあるものもあります。さらに、その原因が誰にあるとも言いがたい、強いて言えば神にあるとでも言わざるをえないものもあるでしょう。わたくしには百メートルを十秒で走る能力はありません。このことは不平等でしょうか。あるひとは豊かな国の豊かな階級に生まれます。多くのひとは貧しい国の貧しい階級に生まれ、まともな教育や医療を受ける機会すらありません。わたくしたちはどのような国のどのような社会的・経済的階級に生まれるか選択することもできません。もちろん努力して成功するひともいることでしょう。しかしそれは百メートルを九秒で走るくらい難しいものです。したがって多くのひとは自分の落ち度によらない不平等に苦しまねばならないのです。 2008/10/02 世界認識: 「人間」とは言語上の抽象的存在です 「人間」は言語空間における言葉です。自由な選択という問題は言語空間においてはじめて生じる問題です。たしかに「ヒト」の場合も他者との関係は原因・結果という関係ではなく、遠い近いを基礎とする隣接関係でありました。そこには当然ある種の選択の余地があることはいうまでもないことでしょう。しかし、それが自由な選択であるかというと、疑問が生じます。「ヒト」にも選択の余地があるといっても、それは自己を守るというシステムの必然性にしばられているのです。自由な選択という問題は言語空間という抽象的な空間においてはじめて問題になることなのです。つまり自由というのは選択の対象が抽象化されていることからくるということです。したがって自由性の度合いも、選択の対象の抽象度の違いによって、自由である度合いも異なってきます。選択の自由の度合いが大きくなればなるほど、わたくしたちが何を選択するかは、わたくしたちの持っている倫理観や道徳観に左右されることになるといえます。なぜなら、わたくしたちの持っている倫理観や道徳観は、世界や「人間」にたいする基本的理解を表しているものとして、抽象的言語空間を構成するときに、支配的役割をはたしているものなのです。 2008/09/19 世界認識: 「人間」とは言語上の存在です 「ヒト」のレベルでの善・悪については、世界の秩序にたいする理解によって、虫を知らずに踏みつけることも悪であるということを指摘しておくだけにして、ここでは「人間」のレベルでの善・悪について考えておきましょう。 まず「人間」というのは言葉です。言語空間における存在です。善・悪の問題においても「ヒト」のレベルにおける場合とは違った問題が生じます。たとえば、選択の問題、自由、あるいは自由意志の問題、意図や責任の問題などが代表的なものでしょう。これらの問題を考えるにあたっても、「人間」という存在の秩序を増すといいますか、高めるといいますか、それが善でらり、その秩序を減少させる、あるいは混乱させることが悪であるということは「ヒト」の場合とおなじでことを確認しておきましょう。 2008/09/12 世界認識: ヒトと人間・道徳と倫理 多くの倫理学者は善・悪の絶対的基準を求めてきました。ある倫理学者は、善・悪の問題を時代や社会によって異なる相対的なものとかんがえました。また、善という概念は、幾何学の基本的概念である「天」や「直線」のように、無定義なようごであり、公理系によって規定されるものであると主張しました。わたくしたちはどう考えればよいのでしょうか。以前に述べた性・不正の問題の場合は論理の問題ですから、論理の手続きにしたがって冷静・厳密に考えて行けばよいのです。裁判におけるように、そのときの法律の範囲のなかで論理的整合性を追及すればよいのです。その意味で正・不正は時代や場所によって異なっていてよいのです。相対的であってよいのです。そこにはある種の冷たさがあります。必ずしもそこに「人間」が登場する必要はありません。正・不正にこだわるひとが、その度がすぎると、非人間的でsることもありうることなのです。それにたいして、善・悪の問題は直接「人間」の問題にかかわるのです。善・悪の問題は存在の問題であるからです。存在の問題として「ヒト」と「人間」の両方にかかわることになります。そこには論路的整合性とは別の普遍妥当性が要求されます。普遍妥当性とはいっても「ヒト」や「人間」にたいする理解の違いによって異なったものになりうることはありえます。宗教の違いによって、そのもとに掲げられる倫理・道徳が異なることはよくあることです。とにかく、多くの倫理学者が善・悪に普遍妥当性を求めることはそれなりに理由のあることなのです。すくなくとも自然法則のもっている程度の普遍妥当性は要求できるでしょう。 2008/08/29 世界認識: より秩序の大きい社会 あきらかに犯罪であったり、犯罪的集団であるばあい、議論は単純でしょう。支配している秩序が単純だからです。しかし、それが日常の行動や考え方、あるいは意見を異にする人々の集団のばあい、その判断はなかなか難しいものとならざるをえません。はたして、いずれが社会の秩序を乱しているのか、あるいはより秩序づけているのか計りかねるからです。しかし少なくとも一つ言いうることがあります。それは、より多くの異質な要素を秩序づける社会の方がより秩序の度合いが大きいということです。 2008/08/19 世界認識」: 秩序そのものに善・悪はない ところで、秩序そのものに善・悪があるわけではありません。つまり〈善い秩序〉と〈悪い秩序〉とがあるわけではないのです。秩序にはエントロピーという量によって計られる量的違いがあるだけです。つまりより秩序づけられているか、より少なく秩序づけられているかの違いがあるだけです。健全な社会の秩序にくらべて、たとえば、犯罪集団の秩序が悪い秩序であるというわけではないのです。犯罪集団の秩序もよく秩序づけられていればいるほど、それは善い秩序なのです。しかし、犯罪集団の秩序がよく秩序づけられていればいるほど健全な社会の秩序を乱すものであるかぎりにおいて、それだけ悪いといわれるのです。したがって、犯罪集団の一員である一人が、かれらの秩序を乱すばあい、かれの行為は健全な社会にとってはその社会の秩序を増すことになりますから、社会にとって都合のよいことではありますが、犯罪集団にとっては悪い行為であるといわざるをえないのです。健全な社会とそうでない社会との違いは秩序づけられている程度によることなのです。犯罪集団の秩序が一見より秩序づけられているように見えるばあいもあります。しかし、その秩序はより特殊化されているだけであって、秩序の程度はより低いといわざるをえないのが普通です。それだけ脆いというということにもなるでしょう。 2008/08/11 世界認識」: 善・悪は正・不正に先立つ それでは善いこととは一体どういうことでしょうか。これは非常に難しい問題といわざるを得ません。わたくしたちが善・悪について議論するとき、それは〈善い行為〉とか〈悪い行為〉であるとか、とにかく行為について議論しているものと考えるひとも多いこととおもいます。しかし、善・悪は秩序の問題でありましたから、善・悪は論理的に行為に先立つものであるということになります。つまり、秩序付ける行為はその秩序の故に善い行為であり、無秩序をもたらす行為はその無秩序の故に悪い行為ということになるのです。 2008/08/01 世界認識」: 善・悪は存在の問題 つまり、善・悪は存在の問題であって、意図や心情の問題ではないのです。善・悪は結果から判断されねばなりません。より良い社会を求めることは正しいことです。しかしそれが善いことであるとは限りません。より良い社会を求めた結果、それが実現されなかったならば、その行為は善であるとはいえないのです。結果が以前のものより悪いものであれば、それは悪といわれてしかるべきでしょう。 ソクラテスはより良いアテナイを願ったことでしょう。しかしその結果アテナイがより良くなったとは、わたくしには、思えません。ソクラテスは正しかったけれども、アテナイにたいして善をなしたとはいえないでしょう。 2008/07/22 世界認識」: 善・悪の観点から見たソクラテス裁判 正・不正という観点からソクラテスの裁判を見てきたのですが、善・悪と言う点から見ればどういうことになるでしょうか。たしかに、ソクラテスはアテナイの秩序を変えようとしました。そのことによってアテナイの秩序を乱しもしました。ソクラテスの所業はアテナイにとって悪であることに間違いありません。しかしながらもし、ソクラテスの意図がかなって、アテナイに新しい秩序が実現していたとすれば、どうでしょうか。それでもなおソクラテスはアテナイにたいして悪をはたらいたことになるのでしょうか。新しい秩序がよりよい秩序であったとしたら、それはアテナイにとって善いことではないでしょうか。ソクラテスはアテナイにたいして善をなしたことにならないでしょうか。その場合、たしかに、ソクラテスはアテナイにたいして善をなしたといえるでしょう。しかしそれは世秩序を求めたから善なのではなく、よりよい秩序が実現したから善いのです。 いまここに老朽化した家があるとしましょう。それを取り壊して新しく立て直すことを考えてみましょう。古い家にとって取り壊されることは悪です。新しく立て直された家は善です。しかしあくまでも新しい家が古い家よりもより良い家であるかぎりにおいてです。より良い家を建てようとすることは正しいことです。しかし、より良い家が建つかどうかは保障のかぎりではありません。より良い家が建ってはじめて、良い家を建てようとする正しい行為が、善いものとなるのです。 2008/07/08 世界認識」: 毒人参を用意してソクラテスを死に至らしめた男の場合 最後に、ソクラテスのために毒人参を用意して、直接かれに死をもたらした男の場合はどうなるのでしょうか。かれはアテナイの法に従ったのです。アテナイに対してかれは正しかったことはいうまでもなりません。また、ソクラテスに死をもたらしたのですから、ソクラテスに対しては悪をもたらしたというほかありません。しかしそれはソクラテスが自ら正しくあるために選んだ生をまっとうするためにソクラテスの望むところをはたしたのですから、ソクラテスに対しては正しいことをしたのです。そのような立場に追い込むことによってかれに不正をもたらしたのはむしろソクラテスだったのです。 ここでは、そもそもアテナイをしてソクラテスを抹殺しようとしたメレトスやアニュトスのことは問題にしませんでした。つまり、ソクラテスの裁判の政治的背景は考慮しなかったということです。かれらこそ、ソクラテスを含むアテナイの人びと、そしてアテナイそのものに対して不正を働き、悪をなした人びとであったのかもしれません。裁判の政治的背景を考慮に入れるならば、わたくしたちの議論も変わったものとなったことでしょう。 20008/06/27 世界認識」: ソクラテスの友人の場合: 正・不正の立場から それでは、ソクラテスに脱獄を勧めた友人たちはどうでしょうか。かれらはソクラテスにたいして善いことをしようとしたのでした。しかしそれはソクラテスにとって不正なことでした。ソクラテスのアイデンティティを危険にさらすことであったからです。アテナイにたいしてはどうなるのでしょうか。かれらはアテナイの法に従わないとで、アテナイの秩序を乱そうとしたのではなかったでしょうか。つまり、アテナイにたいしては悪をなそうとしたのではないでしょうか。それはまた不正なことでもあります。アテナイのアイデンティティを危険にさらすことでもあったからです。アテナイはといえばソクラテスのアイデンティティを危険にさらすことで、同時にかれの友人たちのアイデンティティをさらしたわけですから、かれらにたいして不正をなしたということになるでしょう。しかし、アテナイはかれらに悪を働いたというわけではありませんでした。 20008/06/16 世界認識」: ソクラテスの場合: 正・不正の立場から ソクラテスはアテナイの神を信ずることなく、若者を腐敗、堕落させる者として裁かれました。そのことの当否はしばらくおくとします。そして、アテナイはアテナイのアイデンティティを守るべくソクラテスを裁いたものと仮定しましょう。つまり、アテナイは正しかったと仮定しましょう。自分のアイデンティティを守ることは正しいことだから。一方、ソクラテスも自らのアイデンティティをまもるために死んでいったのではないでしょうか。ソクラテスも正しかったのです。しかしソクラテスはその生き方において自らのアイデンティティを主張することによって、アテナイのアイデンティティを危険にさらしたのではなかったでしょうか。ソクラテスはアテナイにたいして不正をなしたのです。自ら正しくあるために。アテナイはどうだったでしょうか。アテナイはソクラテスにたいして不正をなし、悪をはたらいたことにならないでしょうか。ソクラテスのアイデンティティを危険にさらしたのみならず、ソクラテスという自己の崩壊、それは秩序の崩壊の最たるものである死をソクラテスにもたらしたのですから。つまり、アテナイもソクラテスもみずからにたいしては正しかった。しかしお互いにたいしては不正であったということです。正・不正が衝突しているのです。その場合正・不正を決めるのは共同体であるのですから、アテナイはソクラテスを不正としたのです。だからこそソクラテスもアテナイの下した判決を不正とはせず、アテナイの命ずるところに従うことを正しいこととしたのです。 2008/06/04 世界認識」: ソクラテスの場合 アテナイの法廷がソクラテスに死刑の判決を下したとき、ソクラテスは友人たちの脱獄の勧めを退け、アテナイの法が命じるところであるとして、死んでゆきました。ソクラテスの死を例にとって、善・悪、正・不正について考えてみましょう。ソクラテスの立場は『ソクラテスの弁明』のなかで美しく語られ、それは70を過ぎたソクラテスのアテナイの若者にたいする遺言でもあるのです。 2008/05/28 世界認識」: 善・悪と正・不正は必ずしも一致しない ヒトとしての固体を自己とよぶならば、自己の同一性を守ることは善いことであり、わたくしのアイデンティティを守ることは正しいことであるということができます。もちろん他人の同一性を守ることは善いことであるし、他者のアイデンティティを守ることは、それができるならば、正しいことであるのはいうまでもありません。しかし、問題はそれほど単純ではありません。自己の同一性を守ることが、わたくしのアイデンティティを危険にさらすということになるという事態もあるからです。つまり、善いこと悪いこと、正しいことと不正なことの間にはさまざまな組み合わせがあるということです。自己にとって善いことが、他人にとっても善いことであることである場合もあれば、悪いことである場合もあるでしょう。また、自己にとって善いことが、わたくしにとって不正であるということもあるのです。 2008/05/14 「世界認識」: システムの同一性を保つこと 善・悪は秩序の問題です。なぜならシステムを構成する要素の間の秩序によってシステムの同一性が保障されるからです。同一性の問題であるということは、システムがシステムとして存在しうるとかどうかという重要な問題です。同一性の喪失はシステムの崩壊を意味するからです。わたくしたちの場合それはヒトとしての死です。社会においては、集団の崩壊です。いずれの場合においても、同一性の崩壊はそれらのアイデンティティを無に帰してしまうものです。この意味において、善・悪は不正の成立する基盤にかかわる問題といえましょう。 2008/05/02 「世界認識」: 善・悪は秩序の問題である それに対して善いとか悪いとかということは正しいかどうかということとは関係がありません。正・不正は言語空間での論理的問題です。つまり、論理的整合性をまもることが正、論理的整合性を破ることが不正、言い換えればアイデンティティをまもることが正、アイデンティティを傷つけることが不正ということなのです。一方、善・悪は相互作用領域における秩序の問題なのです。ということは善・悪の問題はアイデンティティの問題ではなく、同一性の問題であるということです。ここで言葉の修正がせまられることになります。なぜならアイデンティティを語るときも、たとえば自己同一性というように、同じ自己同一性という言葉をしばしば使ってきました。ここにきて、わたくしたちは一般的使用法からあずれますが、アイデンティを語る場合は同一性ではなく、整合性という言葉に置き換えねばなりません。以後、同一性という言葉は秩序の問題のために取っておくことにしましょう。とにかく正・不正は論理の問題であるのにたいして、善・悪は存在の問題であるということです。 2008/04/22 「世界認識」: 第10章 善いこと 悪いこと わたくしのアイデンティティを守ることは正しいことです。また、他者のアイデンティティを危険にさらすことは不正なことです。わたくしはわたくしのアイデンティティを危険にさらすことはできません。それは、生きるということに反するからです。一方、わたくしは他者のアイデンティティを守ることもできません。他者のアイデンティティを守るのは他者自身であるからです。つまり、わたくしのアイデンティティを守ることが他者のアイデンティティを守ることになるか、あるいは危険にさらすことになるかは他者自身によるところだからです。このことから、わたくしの行為が他者にとって正しいものとなるか、不正なことになるかは、にわかに決めかねることになります。それは他者のアイデンティティのあり方によって変わってくるのです。 2008/04/11 「世界認識」: 他者が何にアイデンティティを求めるかは他者の自由である このことからつぎのようなことが言えるのではなかろうか。他者が何にアイデンティティを求めるかは他者の自由であると。他者のアイデンティティは他者が構成するものであって、それを他者が勝手に想像するものではありません。したがって、アイデンティティを守るために殺してくれてと頼まれてもそれは引き受けかねます。尊厳死を求める人は、みずからそれをなすものであって他者に頼むものではありません。それはそれを頼んだ他者のアイデンティティを危険にさらすことになりかねないからですから。 とにかく、何が正で何が不正であるかを決めることは難しいことです。わたくしのアイデンティティを守ることは正しいことです。他者がわたくしのアイデンティティを危険にさらすことは不正なことです。ところが、他者のアイデンティティについて知ることはできません。わたくしのアイデンティティからしてはっきりとは分かりかねるのです。したがって、具体的な行為にたいしては寛容である以外にはないでしょう。一つの救いは、アイデンティは言語空間を共有するところに生まれるものですから、その範囲にはおのずと限界があります。その範囲においてわたくしのアイデンティティから、不正確にではありますが、他者のアイデンティティについても想像し得るところがあるということでしょう。その範囲において、他者にたいして何が不正であるのか、おおよそ想像がつくというものです。しかし、言語空間を共有しないひとについてはまったく想像することすらできないのが実情です。つまり、寛容にたいしても寛容である必要があるのです。 2008/03/30 「世界認識」: アイデンティティは他者と共有する言語空間で構成される しかしここにも微妙な問題が隠されています。アイデンティティはたしかに自ら構成するものです。しかしそれは他者と共有する言語空間のなかで構成されるのです。他者や社会がアイデンティティを強制し、強要することはないのでしょうか。共同体は恥をしのんで生きるよりも、死を選ぶことを善しとし、それを強要することもあるのです。しかも、何が恥であり、何が恥でないかも共同体が決めるのです。これが行過ぎると、かれがなそうとしていることの真実を知ったならば当然かれは死を選ぶであろうといって、おせっかいにも、命を奪うということにもなりかんrません。天国に送るためにといって大量虐殺におよんだ歴史もあるのです。たしかに、アイデンティティは言語空間のなかでの相互作用によるものですから、他者の介入は避けられません。しかしそれは、あくまでも自ら構成するものであることを忘れてはいけません。かれがアイデンティティをそこに求めることができない場合、共同体は、かれがその言語空間からはずれることにも、寛容でなければなりません。他者のアイデンティティを勝手に想像して、他者の命を奪うようなことがあってはならないのです。 2008/03/19 「世界認識」: 尊厳死を求めることの正・不正 この問題は医療技術の進歩とともに尊厳死の問題として、現代社会での大きな問題となりつつあります。あるひとが尊厳死を求めているとしましょう。尊厳死を求めることは正しいことです。それは、自己のアイデンティティを守る生き方の選択ですから。問題は、その要求を受け入れて他者が尊厳死を願うひとの命を奪うことが正しいことであるかどうかです。わたくしはそれが正しいこととは考えません。そもそも、自らの尊厳とアイデンティティを守るために他者に自らの命を奪うことを願うのは不当なことですし、他者にたいして不正なことでもあります。アイデンティティは自分で守るものであって、他人に守ってもらうものではありません。他者のアイデンティティを守るというようなことは、できることではありません。自ら解決できない場合、苦しみながら、他者の手をわずらわせながらも、醜い姿を晒しながらも生きている方がはるかに尊厳な姿であると考えます。他者のアイデンティティを守ることができるのは、自らのアイデンティティを自らの手で守ることで他者と共有する言語空間を守る場合だけと言えるでしょう。共有する言語空間を守ることこそ他者のアイデンティティを守ることになるからです。 2008/02/19 「世界認識」: 死にいたる選択の正・不正 それでは自らの命を断とうとしているのを押し止めようとするひとは不正なことをしているのでしょうか。まず、自ら死のうとしているひとは、かれのアイデンティティを守ろうとして死にいたるような生き方を選択しているのですから、それを押し止めることは不正なことです。もちろんそのような選択を強要する社会はなおさら不正です。また、かれを生かして自分の利益のために利用しようとすること、商品のように売買するために死ぬことをすら許さないというようなことが正当化されるようなことはありません。 しかし、かれの死がわたくしのアイデンティティにたいする挑戦であるような場合はどうでしょうか。たとえば、そのひとが家族であったり、愛するひとであったりする場合はどうでしょうか。かれ自身も家族や、愛するひととともにアイデンティティを共有していたとおもわれますから、死にいたるような選択にたいして、たいそう悩んだことでしょう。それにしても、かれの死を押し止めようとしたわたくしはかれのアイデンティティを危険にさらしたことで不正です。ただ、わたくしのアイデンティティを守ろうとしたかぎりにおいては不正ではありません。 2008/02/12 「世界認識」: アイデンティティーは自らまもるもの 正・不正とは、要するに、アイデンティティーに対する挑戦なのです。アイデンティティーに対する挑戦は、挑戦者の意図とは関係ありません。相手に対してよかれと思ったやったことでも不正でありうるのです。つまり、正・不正は結果から判断されるものであるということです。このことから他者の生命体としての命を奪うことは、他者のシステムと同時に他者のアイデンティティーをも破壊するものですから、不当であるばかりか最大の不正でもあります。自らのアイデンティティーを守るためであっても決して許されるものではありません。このことから戦争と死刑とはあってはならないものとわたくしには思われます。さらに、他者のアイデンティティーを守るという口実で他者の命を奪うことなど論外です。 2008/02/06 「世界認識」: 必然的世界に正・不正はない 自らの手で、自らの命を絶つことは、不当であっても不正ではありません。すでに述べたように、ひとは死を選択するということはありません。一見死を選んでいるように見える場合でさえ、自らのアイデンティティーを守るための生き方を選択しているにすぎないのです。それが結果的に死にいたるとしてもです。なかには神を信じ、死後の世界の幸福を夢見る人もいるでしょうが、アイデンティティーの象徴である固有名の名誉を守ろうとした人もいることでしょう。いずれにせよ、かれらの死も、かれらにとっては、生きることの選択の一つであったのです。 必然的な世界に正・不正はありません。間違って他人の傘を持っていってしまった人は、かれにたいして不当なことをしたのではありますが、不正をはたらいたわけではありません。なぜならば、不正なことというのは論理的に真ではない前提から出発した行動であるのにたいし、不正は論理的にはけっして偽りとはいえない、むしろ正しい前提から行われた行動に関わるのです。他人の傘を間違って持っていった人は「これがわたくしの傘である」という間違った前提から持っていってしまったのです。もしかれが「これはわたくしの傘ではない」という正しい前提を持ちながら、なおそれを持ち去ったとしたならば、いずれの場合も傘を持っていかれた人にとっては、それは不正であることにかわりありません。 2008/02/01 「世界認識」: 正・不正,当・不当は区別されなければならない 要するに、ひとが自分自身のアイデンティティーを危険にさらしたり、他人がアイデンティティーを守ろうとするのを妨害することが不正であるのです。 それではつぎのような場合はどうなのでしょうか。自殺しようとしているひとを押し止めるのは不正なことでしょうか。自らの手で自分のアイデンティティーをきずつけようとしているひとにたいして、そのことを止めさせるのは不正なことでしょうか。これはなかなか難しい問題です。自殺しようとしようとしているひとも、彼なりに自らのアイデンティティーを守ろうとしているのではないでしょうか。身近らのアイデンティティーを傷つけようとしているのは、わたくしから見た一つの解釈ではないのでしょうか。 第二次大戦末期、アメリカ軍の沖縄占領にあたって、沖縄の多くの人々を含む日本人が自らの手で命を絶ちました。それぞれのひとには、それぞれの動機があったものと思われます。なかには、日本人としてのアイデンティティーを守ろうとして、死んでいったひともあったに違いありません。またそれを、正しいこと、英雄的なものとして賞賛したひとも多かったのではないでしょうか。もちろんそれを正しくないこととして、押し止めようとしたひともあったことでしょう。いったいだれが正しくて、だれが正しくなかったのでしょうか。 2008/01/25 「世界認識」: アイデンティティーと固有名詞 この変化しながら同一性を保っているわたくしは固有名詞のなかに象徴されます。このように、変化しながら保たれるアイデンティティーは具体的なもののなかに象徴される必要があるといえます。具体的なものには神、言語、旗などさまざまなものがあり、共同体が共有する言語空間の象徴であるそれらのものが傷つけられるとき、ひとは自己のアイデンティティーが傷つけられたと感じるものです。固有名詞の喪失がわたくしの喪失であるように、象徴の喪失は自己の喪失でもあるのです。この象徴は、わざわざ象徴と言われるような大袈裟なものばかりではありません。そのひとの持ち物、あるいは関心があるものは多かれ少なかれおなじ役割をはたすものです。だからこそ、ひとびとは贈りものをしたり、お返しをもらっては自己を確認しているのです。他人のものを盗んだり、傷つけたりすることが不正なことである理由出す。 2008/01/16 「世界認識」: アイデンティティーの問題は変化するものにおいてはじめて問題となる アイデンティティーをまもるということは言語空間という相互作用領域における相互作用によるものでした。また、この相互作用は因果関係ではないことはすでに見てきたとおりです。正しくあることが難しい理由もそこにあります。因果関係が支配する必然的な世界には正も不正もありません。アイデンティティーをまもるのは、そのような必然性の世界においてではなく、言語空間における対話的相互作用の領域においてなのです。対話的相互作用の領域における相互作用は、たがいに変わることを前提とします。それこそ寛容ということの基礎です。つまり、アイデンティティーをまもるということは、新しいアイデンティティーを見つけることです。それは、子供の頃のわたくしが、いまのわたくしへと変化することによって、はじめて同じわたくしであるといえるのと変わりありません。このことは生命体のような自己を絶えず再生産するシステムにとって必然的なことです。自己を再生産しないということは、死以外のなにものでもないのですから、自己を再生産することによってはじめて同一性をまもり得るということになるのです。 2008/01/04 「世界認識」: わたくしたちは多様なアイデンティティーを生きています わたくしたちは多くの言語空間で多様なアイデンティティーを追求していつのです。たとえば、日本人としてのアイデンティティー、学生としてのアイデンティティー、あるサークルの一員としてのアイデンティティーさもざまなものが考えられます。それは以前にも述べたごとく、ひとは多くのわたくしでありえたのとおなじ理由によるのです。だからこそ寛容であるということが重要なこととなります。自己の心の平静をたもつためには、ときに馬鹿といわれれば馬鹿にならなければなりません。それがわたくしにとって正しいことだからです。不正な者がわたくしに危害を加えることはできないのだというときのソクラテスの心境でしょう。一方、自らのアイデンティティーをまもるために戦わねばならないことがあるのも当然です。アイデンティティーをまもることは正しいことだからです。しかしそのことは、他者のアイデンティティーにとっては不正でもありうることを心に銘記しておいてもらいたいのです。正しくあることはむつかしいことなのです。 2007/12/29 「世界認識」: 正・不正の相対性 そもそも相互作用領域である言語空間において正しいか正しくないかということはにわかには決めかねるところです。つまり、わたくしにとって正しいことも相手にとっては不正であるということも多いはずです。わたくしがわたくしのアイデンティティーを守ることが、他のひとのアイデンティティーを危険にさらすこともあるということです。勿論わたくしは他者ととに言語空間を構成し、その同じ言語空間のなかでわたくしのアイデンティティーも構成されるわけですから、わたくしのアイデンティティーを守ることは共有する言語空間を守ることであり、結果的に他者のアイデンティティーを守ることになるのも事実です。しかし、わたくしたちはさまざまな言語空間のなかに生きているのであり、すべてにおいて言語空間を共有しているわけではありません。したがって、ある言語空間を守ることが他の言語空間を危険にさらすということはありうることなのです。そのことから、ある言語空間にたいして不正であるかどうかはどの言語空間においてアイデンティティーを構成するかによることなのです。 わたくしが多様であるのと同じく、わたくしのアイデンティティーも多様であるはずです。赤の信号で止まらないことはわたくしにとって不正です。しかし、わたくしが信号を無視することは他のひとにとっては不正です。また、信号を無視することはわたくし自身を危険にさらすことにもなりませんから、わたくしが信号を無視することはわたくし自身にたいして不正なことにもなりえます。他のひとにとっても事情はまったく同じです。つまり、信号をまもらなければならないということは個人のレベルでは個人にとって不正なことでしょうが、共同体のレベルでは、同じ行為が個人にとっても正しいことにもなるのです。どの言語空間でのアイデンティティーが問題になっているのかによって事情も変わるということでしょう。 2007/12/24 「世界認識」: 個人も自分自身の属する言語空間を混乱させてはならない 2 もし、以上のようなことであるとするならば、国家や民族といった共同体の間の正・不正は、結局力関係で決められることとなるいって間違いないであろう。これまではそう考えるのが普通の考え方であった。しかしそのような考え方には問題があると思われる。その問題とは、許すか許さないかという問題と、正しいか正しくないかという問題が区別されていないところから生ずる問題です。事実、許すか許さないかということ、つまり寛容(トレランス)というのは、共同体と共同体の間でもあることなのです。ある共同体にとって不正であることでも、それに対して共同体として寛容であることはできるのです。個人の場合と同じように、その共同体との間にあたらしい言語関係を構築することによって、共同体自身の成長も期待できる可能性すらあるのです。 2007/11/12 「世界認識」: 個人も自分自身の属する言語空間を混乱させてはならない 一方、個人としても、自己のアイデンティティを主張することによって、共同体のアイデンティティを危険にさらすようなことがあれば、それは不正なことです。それは共同体を構成する多くの人のアイデンティティを危険にさらすだけではなく、結局は自分自身のアイデンティティを危険にさらす結果になるからです。なぜならば個人のアイデンティティは共同体の中にあってこそはじめて持ちうるものだからです。ゆまり個人もまた自分自身の属する言語空間の属する言語空間を混乱させてはならないのです。 つぎに、共同体と共同体の間における不正はもっとやっかいです。共同体の内部での不正を許すか許さないかは共同体自身が決めればよいことですが、共同体と共同体の間の不正は、より上位の言語空間を共有する共同体がない場合、いったいだれが決めることにことになるのでしょうか。これまでは国家、民族、宗教などがこの上位空間としての役割をはたしてきました。とくに宗教がこの最上位の言語空間であることを主張し、この役割を自ら担おうとするのは自然なことです。なぜなら宗教は絶対的権威を主張するものだからです。しかし、共同体が国家や民族の場合、宗教国家であるか、民族が宗教的役割をはたしているような場合を除き、それらより上位の言語空間を形成することはむつかしいことでしょう。したがってその場合、自然法的なものに訴えるか、国家連合、最終的には地球国家、のようなものを夢見る以外にはないということになります。 (バックナンバーをご希望の方はご一報ねがいます) |