平成23年8月7日歓迎式典で行われた
『正木慶晴氏講演要旨』より

『エル・トゥールル号と日・土友好の歴史』
イイ アクシャムラル(皆さん今晩は)!
今夕はトルコ・イスラム教ご一行9名(通訳含む)をお迎えしております。
トルコと言っても余り知識が無く、ご婦人方にはトルコ石や茜染め、
花好きの人にはトルコ桔梗、音楽に詳しい人にはトルコ行進曲
(モーツアルト・ベートーベン)コーヒー党ならあのとろっとしたトロキッシュ・コーヒー
を思い浮かべる位であろうか。

ブルーモスク
≪異文化交流の歴史≫
この度、同じアジアのいちばん西に位置するトルコ共和国とそこからはるか東
(極東)に位置する日本との友好の場が実現したのであるが、思えばトルコは
昔から歴史的・地理的に異文化交流の長い歴史を有しているし、
シリアとの国境に近いアンタキアではイスラム教がギリシア正教やユダヤ教と
共存し、カトリック・佛教・ヒンズー教等多くのに宗教とも共生して来た。
そこには諸宗教間の対話や調和を目指す、わが
『長崎県宗教者懇話会』
(Nagasaki Religionists Dialogue for Peace略称「宗懇」)
と共通する理念と努力が窺える。
かような背景の下に両者が共に此処で「平和の祈り」を捧げたのは
正に歴史的な出来事であり、感慨をもって受け止めている次第である。

イスラム教別格大長老イブラハム師とお祈りの時に
≪宗懇との出会い≫
実は昨平成22(2010)年6月〜今年2月迄の間、日土友好120周年を期して
『トルコに於ける日本年』(Japan Year)が実施され、期間中には
三笠宮基金をベースとするカマンカレホュック考古学博物館の
開館式や各種の日本文化(書道・茶道・画道・陶芸・料理・コンサートetc)
の紹介など160以上のイベントが約一年に亘り繰り広げられた。
そしてその間の10月16日〜12月中旬の間には
現地の大使館及び長崎市の共催により
『広島・長崎原爆展』が首都アンカラ及びイスタンブール
にて開催され、大変大きな反響を呼んだ。
これには被爆者代表の方々や高校生平和大使も参加し、
我々『長崎県宗教者懇話会』も協賛し、各宗教の有志が参加し、
併せてその機会にイスラム教の最高指導者の方々と
宗教対話が実現した。
全く始めての試みであったが、対話は夕食をはさんで6時間余に及んだ。
その際「宗懇」のメンバーの約40年に及ぶ諸宗教交流と平和活動に
驚きと感銘を受けたイスラーム指導者の方々が
「是非 長崎を訪れ、共に平和の祈りを捧げたい」
と言われ、それが本日8月7日から原爆式典までの数々の
イベントとして実現したのである。

トルコの4年生道徳の教科書
≪エルトゥールル号事件≫
先ほど「日土友好120年」と申しました。ご存知の方も多かろうが
友好の起点は明治時代まで遡る。
オスマントルコ海軍の木造フリゲート艦(全長76m・1864年造)
エルトゥールル号はアブデュルハミト2世皇帝の親書の
明治天皇への奉呈とオスマントルコ海軍の航海訓練を兼ねてではあるが
第一に 日土友好の発展と
第二に 二国間の異文化相互理解を目的として日本を訪問することになった。
かくして明治22(1889)年7月14日にイスタンブール港を出発、
10カ月以上かかって5月22日に長崎港に着いたが、
はじめての外洋訓練でもあり様々な苦労があったと聞いている。
一行は5日間の休養の後、6月7日に横浜港に入った。
そして6月13日に無事に親書奉呈を済ませ、大歓迎を受けて
3ヶ月後の9月15日に横浜港を出港。
9月16日22時頃に暴風雨の中、和歌山県串本町の
樫野崎で、魔の暗礁と言われた「船甲羅(ふなこうら)」に
乗り上げて座礁、船は爆発沈没した。
乗組員656人の中、司令官オスマン・バシヤをはじめとする
587人が死亡又は行方不明になった。
樫野崎灯台に流れ着いた69名は村の大龍寺や少し離れた
蓮正寺及び樫野小学校と民家に収容され、
村人総出の献身的な救護活動が為された。
やがて生存者は神戸の病院へ運ばれた。
両陛下は、宮中の御殿医や看護婦を多数派遣、
全国からは、死亡将兵の遺族の為に莫大な義捐金が寄せられた。
遭難から20日後に、69人の全生存者は
10月5日に品川港から日本海軍の「比叡」と「金剛」により送られ、
翌年、明治24(1891)年1月2日にイスタンブールに帰りついた。
これらの事はトルコの人々に好意をもって受け入れられ、
例えば昨年に至る迄ずっと義務教育の「道徳の教科書」として、
小学校4年生の子供たちに詳しく教えられている。
市内のホテルやレストランで我々が日本人と判ると
中年の方々はじめ、多くの市民が親しげに寄って来て、
いろいろと世話をしてるのを一再ならず経験し、初等教育の
影響の大きさを痛感させられた。
≪イラン・イラク戦争とその後日談≫
次に、どうしてもお伝えしておかなければならぬ事がある。
それは昭和60(1985)年3月17日の出来事である。
あのイラン・イラク戦争の時に、イラクのフセイン大統領は突然
「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ
すべての飛行機を撃ち落とす。」
と発表した。
当時自衛隊は海外派遣が不可能で、日本航空も乗員の
安全問題で救出便は「出さない」と返答、
在留邦人のみが一大ピンチとなった。
当時のイランでは実情はマスコミでは報道されなかったが、
トルコ航空が「100年前の恩返し」と言う事でジャンボ機2機
をイランへ向かわせ、215人の日本人全員を乗せて
成田空港へと脱出した。
何とタイムリミットの75分前の作戦であった。
要するに「エルトゥールル号の事は忘れていないぞ」
と言う事であろう。
実は今回、26年前の救出ジャンボ機の機長等にも
御来演願ったが(昨年のジャパンイヤーではスピーチされた)
御高齢でもあり、叶わなかったのは残念であった。
イランの日本人救出の際に、決死の覚悟で「JALのジャンボ機派遣」を
申し出たが叶わなかった高浜雅美機長が5か月後の
御巣鷹山で不幸にも墜落死されたのは何とも不思議な因縁であった。
最後に、今回の日土交流の実現の為に、昨秋以来
7回もトルコと日本を往復し尽力された三角絃容師の努力に
感謝して私の講演を終わりたいと思う。
サーオルン(ご清聴感謝)
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