よみがえった510が果敢に走り始めてから、行く先々で話題を振りまいている。連休期間中は高速道路も走ったが、となりの車線を走る多くの車のドライバーから笑顔で見つめられたり、手を振られたりと注目の的だったそうだ。
とっておきのエピソードをひとつ。
オーナーが自宅近くのスーパーに向かう途中、交差点角にお巡りさんが立っていて510を見ていた。気にかけず青信号で進んだところ 傍の交番前に別のもう一人のお巡りさんがいて510に止まるよう命じ、交番の車寄せに入れと指示した。
まさか、もの珍しさからではあるまい。オーナーは「もしかして」と感じるところがあったが、「何だというのですか」と不満そうに言ってみた。すると「シ−トベルトしていませんね」と、そのお巡りさん。
オーナーは腰のあたりを指差して得意げに 「してますよ、ほら」と返事した。
510はいまの3点式ベルトがない2点式時代の車なのである。それを知らなかったお巡りさんは慌てた。そして、最初の“発見通報者”とみられる、さっき交差点角に立っていた相棒のお巡りさんを無線で呼んだ。
走ってきた相棒のお巡りさんは「すみません、2点式だったのですか。腰のあたりまでは見えなかったもんで」と平謝り。
オーナーは「ちゃんとナンバー見といて。ひと桁だから、ひと桁!」と、少し意地悪な口調で叫びながら走り去ったそうだ。
◇ ◇ ◇
「2点式」は筆者も知らなかった。逆に、外に突き出す(?)三角窓はあるものと、予断を抱いていた。古風なスタイルと、アナログそのまんまのメカに、気を取られ過ぎていたからだが、つまりは取材不足。
(10年5月)
ピカピカに磨かれ、下部まで塗装されたエンジン

「嬉しかった、社全体の励まし」
10カ月も、見慣れぬ車が整備工場にあれば、ひと目につきやすい。富山交通の社員たちはむろん、道路をはさんだ向かいの他社からも時折、“見学”にきた。車検を受けにくる人はむろんである。畔には、それらにもまして、会社が自分らを温かく見守ってくれたことが嬉しかった。
畔の上司は「彼らならやってくれると信じていた。彼らは“社の威信”みたいなものも感じていたのだろう。以前、車検に持ち込まれた『510』を初めて見た時、今どきこんな古い車が、と驚いた。今もよく覚えている」と言う。
試運転の日は、さすがに緊張した。3人の頭には、「直せるものなら直したい」と思うところが、まだ、どこかしこかにあったからだ。しかし、「510」と自分らの腕を信じよう。そう自らに言い聞かせて、畔、西村、尾川は代わる代わる乗り込んで、走りを確かめた。「いいじゃないか。オーナーに引き渡せる」。畔は“結論”を出した。
富山日産自動車(富山市西新庄)で、18年間整備に携わっている人が、富山で「510」が走り回っていることを聞いて驚いた。
「最近、『910』(第6代、1979年生産)の整備をしたが、これがひどかった。サスペンションに相当なガタがあり、エンジンのオイル漏れもひどい。キャブレター(ガソリンと空気を混合する装置)の調整がやたら難しく、加えて、古い車だけにCO2を規制値内に収めるため、何度も走って調整する始末だった」と話した。
「42年から48年ごろにかけて製造された一連の「510」の現存車は、数は少ないと思うが、とても人気があり、希少価値が高い。大事にしてほしい」。と、これは日産本社(東京)からオーナーへのエールである。
(エピローグ)
「510」のオーナー(62歳、富山市)の車好きは、並みではない。
十年前、神岡町の山中の道路を運転していて、山肌に激突し、車(「510」ではなかったが)は大破。自ら「生死の境をさまよった」と言うほどの重症だった。
しかし、まもなく車好きも“回復”した。「510」をいつまでも大事にしたい、という強い思い。そのことと、事故体験と関係があるのかどうかは分からない。
いま、オーナーは畔整備士の「言い付け」を守りながら、安全運転でドライブを楽しんでいる。
街の信号で止まろうが、レストランの駐車場に入ろうが、高速道路の料金所を通ろうが、見知らぬ人たちから笑顔で声を掛けられることが、日常茶飯事になった。
それもまた、旧い車に乗る者の特権だとオーナーは、まんざらでもない顔で笑っている。
(敬称略・08年11月)
右からチーフの畔、西村、尾川。この日は別の車の車検の整備=富山交通整備工場
40年前の車とは、とても信じられない堂に入った直線的なフォルム。まさに、名車の風格。「富5」の1ケタナンバーが眩しい
「芸術品に仕上げよう」
整備士経験14年の畔は、西村裕介(25)、板金担当の尾川忠勝(32)とチームを組んだ。といっても、それぞれが日常の仕事を抱えている。「手が空いたらやる、しかし念入りに」をモットーとした。オーナーは、修繕費が気掛かりだったが、「正直言って、いくら掛かるか分からないのです」と、畔は申し訳なさそうに言った。
まずは錆との戦いだが、その前の塗装剥がしに神経を使う。普通はサンドペーパーでもいいが、今回は砂を噴射させて剥離させた。仕上がりがきれいだからだ。鉄板の厚さは3-4oあるので、「510」はこれに耐えうる。
穴が開いている部分は切り取り、小さく切った鉄板を溶接でくっつけた。これが数カ所。この道13年の尾川にとっては「会心の出来」だった。
ボルト類は錆のせいもあってナットが回らない。無理をすればたちまち折れる。分解できたパーツは磨きをかけた。「元のようにただ組み立てるのではない。“芸術品”に仕上げよう」。畔はスタッフにそう言った。電子部品の多い車はいつも扱っている。「510」みたいな、いわば“アナログ車”は、たぶん2度とお目にかかれないのだ。
ネット、雑誌で部品探し
メーカーの部品保有期間は、今も昔もせいぜい10年である。「510」にはオイルシール(漏れ防止のゴム製品)やパッキン、パイプ、ホースなど10点ほどは、なんとしてでも交換したい。3人は手分けして、部品商に電話し、インターネットで探し、雑誌のレストアショップをあさった。
取り外した部品は約200点。これらを整備工場の一角に8つのコーナーを仕切って並べた。こうして「510」は、車体以外はほとんどバラされたが、元の部品の8割は再使用した。
エンジンも水漏れ、オイル漏れが目立ったが、修理は最小限度に。エンジンをそっくり取り替えるのは簡単だが、それは“心臓移植”みたいなもので、「510」ではなくなってしまう。畔は、オーナーに「エンジンオイルの点検はこまめに」とだけ注文をつけた。

7年ほど前、富山市の名鉄トヤマホテルの玄関前。会議を終えて出てきた“いかつい”顔の男の目が、駐車していた1台の車に釘付けになった。カルロス・ゴーン氏、日産の社長だ。車は通称「510=ゴーイチマル」。1967年生まれの名車、ダットサン・510SSSクーペ(1600cc)である。
ゴーン氏は乗り込んでエンジンをかけ、「今も走っているの?いい音してるね」と言って車体をなでた。「ウチの車、どうだい」。そう言いたげだった。
07年7月、「510」(1970年製)のオーナーが、二十数回目の車検を受けるため、富山交通(富山市双代町)の整備工場を訪ねた。素人目には分かりにくいが、ボディのあちこちに、錆が浮き上がっていた。整備士の畔幸雄(33)は内心「これはひどい。錆は車全体に及んでいるかも」と思った。
「すまないけど、車検のついでに、この大きな錆をペイントで消しといて」、そう頼むオーナーに畔は言った。「いっそ全塗装やってみませんか」。510蘇生劇の始まりだった。畔は「整備士みょうりに尽きる、直しがいのある車」と、思っていた。
以後、全塗装の域を大きく飛び越えて苦闘10カ月、畔をチーフとする3人のメカニックは、38年間走り続けた名車を新車同様、いやそれ以上に蘇らせた。
頑丈で個性的、未来志向のフォルム
クラウン、スカイライン、スバル、そしてダットサン。国民の多くは、今もこのクルマたちの名前を忘れてはいない。車が庶民の手に届くようになった1950年代に産声をあげた、いずれも名車だからだ。
表面的なカッコよさは現代の車に譲るとして、頑丈で個性的で、何より車が車らしい形をしていたことが、車を欲しがっている人たちの心をとらえて離さなかった。
ダットサン・ブルーバードは、1955年の「初代」310型から1996年の「第10代」U14型まで生産が続いた、名車中の名車である。その「第3代」である「510」は、1970年のサファリ・ラリーで、強敵のポルシェやプジョーなどを退け優勝した。日本の自動車工業史に残る一大金字塔である。
ちなみに、「510」が誕生した年には、自動車保有台数が全国で1,000万台を突破、一方でヒッピー族が登場したり、大学の学園紛争が相次ぎ、価値観が乱れた時代でもあった。
「510」は、旧型の単なるマイナーチェンジではない。
エンジンが、より高回転型の直列4気筒OHC(カムシャフトが上部にあって高速回転に耐える方式)に、それまで車体に2輪ずつ取り付けられていた車軸が、いわゆる「4輪独立懸架」と呼ばれる当時としては画期的な方式となり、走りの安定性は抜群に良くなった。
外の風を取り込む、不恰好な「三角窓」もなくなった。この窓は、車にクーラーが普及していない時代の象徴だった。車全体のスタイルは、直線的にイメージチェンジし、「スーパーソニック・ライン」と名付けられた、そのスタイルは後の超音速機を思わせた。
ライバルのトヨタも負けてはいない。ブルーバードとコロナの「BC戦争」がしばらく続いた。
ブルーバードの評価は外国でも高まった。「価格が安いのに欧州車並みの高度な性能を備えた魅力的なセダン」として「BMWにはちょっと手の届かない人向けの車」(意訳)との“異名”もとった。史上初めて北米市場でヒットした日本車となった。


