高成玲子(たかなり・れいこ)さん 1946年生まれ。富山国際大学国際コミュニケーション学科教授。コロンビア大学大学院修士。主な研究テーマは「ヘルン文庫」、「富山のお雇い外国人牧師」、「ラフカディオ・ハーンの美学」など。
            (09年3月)
  私は、高成さんに「こんなの、どうですか」と勧めたいことを2つ考えていた。
  高成さんの専門のハーンと交流のあったローエルについて、私が「9番目の惑星探しで失敗した人ですね」と、知ったかぶりした前置きをしてメールを出したことがあった。
  「時折、家内と反射望遠鏡で空を見上げます。土星のぼやーっとした環もきれいですが、月の『静かの海』は、手を伸ばせば届く感じです。クレーターも立体的に見えるんです」と書いた。
  高成さんからは返事はなかった。もし元気だったら、好奇心の強い高成さんは、この話に飛びついたかも知れない、と私は思っている。
  もうひとつは、とてもキザだが、高成さんと「レストランで英語だけで話す」である。私は、週一で英会話教室に通って5年になる。大した会話は出来ないが、富山ではこれを使う機会がない。
  高成さんは英語を教えておられた。申し入れをすれば、たぶん「そんな、カッコ悪いことを」を断られたかも知れない。だが、もしかして。
 
                   
  
  高成さんは、間違いなく他の星へ旅立たれた。
  私は、自分が次に住む星を「アルビレオ」と決めている。「夏の大三角形」の一つ、「はくちょう座」にあり、あまりにきれいなので“天上の宝石”と呼ばれる。
  この星には、きっと強力な天体メールアドレスの検索エンジンがあるに違いない。私がこの星の住人となる日が来たら、その検索エンジンに、最初に「高成玲子」と入れよう。
    

  私は、ホームページに新しい原稿を書くたびに、50人を超す「読者」に案内のメールを出し、多くの人から感想をもらう。それらの何本かを要約し、書いてくれた人の抽象的な職名だけをつけて、フィード・バックすることがある。
 その中の高成さんの感想文はとなると、時に「骨と皮」だけになってしまう。奔放過ぎて削りに削ってしまうのである。削った部分が、後の私の原稿のテーマになったり、私の物の見方を変えさせてくれたものもあった。
  高成さんは、特にハーンについての研究で、新聞社から原稿を依頼されることが多かったが、「新聞の影響力はすごいのよ。回数が多くなると、なんだか学内外の評価が高まったような感じになるの」と、言っておられた。
  「県内のマスコミ状況について教えてもらえたら。同僚の教授に教えてあげたい人がいるの」。そんなメールが届いたので、私は急いでA4で5枚のリポートを添付して送ったら、「目からうろこでした」との言葉とともに、いつもより長めのメールを頂いた。着信は2月1日午後1時40分、渾身の力を込めて書かれたであろう、このメールが最後となった。
  通夜の式で、喪主の娘さんが「母が、すい臓がんで1年半も生きられたのは、多くのみなさんとの交流と、メールなどを通じて励まされたおかげです」と、あいさつされた。
  私は、少しばかりの誇りを感じた。
 

                  
 
 3月26日の午後、Yから電話があった。「高成さんが亡くなりました。つい最近、『「抗癌剤は効かなかった。全身転移のため、もっても余命半年と告げられました』と書いてこられました」。Yの声は沈んでいた。「老人性涙目」の私は、声が出なかった。
  高成さんは、1年半前にすい臓がんにかかったものの、元気を取り戻したと聞いていた。何が余命半年だ。2カ月もなかったではないか。
 
                    
  
  私と高成さんとの「交流」は、今年2月まで続いた。私が3年前に開いた、拙いホームページのおかげである。
 私は、原稿を書いては「ぜひ見て下さい」とメールを送ると、高成さんは几帳面に感想を書いてこられた。時に「感想」を飛び越え、自分の周囲で起きていることなども付け加えられていた。
  「ある会合で、この部分はいかがなものでしょう、と発言したら蜂の巣をつついたような騒ぎになったんです。内心、当たり前のことじゃない、と思いました」とも記されていた。
  私は、高成さんのメールに、およそ、平均的な大学教授らしくない気風のよさを感じるとともに、話しておられることは、本来ジャーナリストが抱くべき精神である、と思った。
  
ありがとう 高成玲子さん
  「同級生が2人来ています。軽く食事しましょう」。2年ほど前、「シモンゴールドベルク」の演奏会が終わった後、私(筆者)は、知人のYから、そう誘われた。遠慮する家内とともに、5人が近くのレストランに入った。
  「同級生」は、ともに妙齢の女性だった。1人は「高成玲子です」と名乗った。聞き覚えのない名前だった。Yが「大学の教授なんですよ」と紹介してくれても、私はまだ分からない。
  元新聞記者の自分には、何ともかっこうが悪かった。
  Yが私のことを「前いた会社の上司だったんです」と、サポートしてくれてから、高成さんの表情が変わった。
  高成さんは身を乗り出すようにしてしゃべり、私に質問を浴びせた。並みの質問ではなかった。
  手短に言えば「新聞が面白くない。批判精神が感じられない…」。そんなところだった。
  帰宅して私は、検索エンジンに「高成玲子」と打ち込んだ。すると、関連資料が出るわ、出るわ。リンク先もたくさんある。その大半をプリントし、何日か掛けてむさぼり読んだ。
  なぜ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作物が富山にあるのかーをメーン・テーマに、さまざまな人間関係が詳細に描いてあった。馬場はる、南日恒太郎、ブラウネル、パーシバル・ローエル、そしてハーンが住んだ松江(鳥取県)のことなどなど。
  私が、高成さんと「会った」と言えるのは、レストランでの1回だけである。電話で話したこともない。