“幻”と消えた“ノーベル賞受賞”の紙面
  「花見など20年以上見たことないね」などと言いながら、井上さんは、記者たち約10人と、くだんの草地にやってきて、どっかと座った。
「ここは、いいね。花のトンネルだ」。しめた、最高のご機嫌だ。
  井上さんは作家の中でも、かなりの酒豪である。日本酒に、ますのすし、かまぼこ。用意したものは、その程度だが、井上さんは「どれもうまい」とか言って、よく食べた。井上さんがブランディ好きなのを私は知っていたが、それが超高級の「ナポレオン」なので、みんなには黙っていた。
  そう言えば、井上さんは、講演会の始まる前にブランディをあおって平然と演壇に向い、話しが進むにつれ、舌がなめらかになる。しかし、地名や数字に全く誤りがない、という逸話が伝わっていた。だが、この時の富山県民会館での講演前に、井上さんがブランディで“景気づけ”をしたかどうかは分からない。
  井上さんの講演は、決してうまくはない。しかし、ジャーナリズム精神が、随所にのぞいていて、それが聴衆の心をつかむ。シルクロードの砂漠を取材した時の井上さんの言葉は真に迫っていた。「ここで私は死んでもいい」。 
 “花見の宴”で、調子が乗ってきた井上さんが披露してくれたのが「真向法」である。記者たちは口をあんぐりしながら見入った。私も少し真似てみたが、てんでサマにならない。
  井上さんは、飲むほどにご満悦だったが、こちらが聞き出そうとしても、自慢話はほとんどしない。「新聞社の文学賞は大した賞だよ」何度かそう言った。
   私が、そろそろ、と思った時、夫人(故人)から電話が入った。「今日中に帰して下さい」。半ば泥酔状態の井上さんは、奥さんからの伝言を聞いて、我に返り用事を思い出したらしい。
  その日の飛行機の切符は用意してあった。しかし、井上さんに1人で帰ってもらうのはしのびない。急きょ記者1人をつけて、東京・世田谷の自宅まで送り届けた。
  翌日、テレビを見て、唖然とした。井上さんは「7賢人会議」に出ていて、時の中曽根首相と握手しているのである。みんな、胸を撫で下ろした。それにしても、井上さんのなんという剛健さ…。
  
-井上靖さんのこと-
磯部堤での花見にご機嫌
 


 井上さんは数々の名作を書き、賞を総なめにし、文化勲章も受けた。「本覚坊遺文」(後に日本文学大賞受賞)を書いていた1981年ごろから、ノーベル文学賞候補の有力候補ーとのうわさが立ち始めた。受賞シーズンの毎年秋、井上さん宅には、連日マスコミが詰めかけ、その中にわが新聞社の記者もいた。
  井上さん宅は敷地は広いが平屋建てで、部屋数は多くなく、書庫がはみ出してきた部屋もある。
  私は、何度かその年の「文学賞」の選考のお願いで、井上さん宅を訪れたが、2部屋のあちこちに、有名、無名の作家たちからの贈呈本が“島”のように積まれていた。私はしばし、それらに見とれながら、井上さんと立ち話したこともあった。
  それほど広くもない井上宅に、「受賞の瞬間」を求めて、室内に入れた記者たちはどれぐらいいただろう。数珠つなぎに路上駐車した車には、かたずを飲んで待つ報道関係者に加えて、お祝いに駆けつけた客も多かったようだ。
  新聞社内では、特に、花見の宴に加わった記者たちが、はしゃいでいた。
  上司を口説いて、事前に「受賞」の紙面を作った。生い立ち、作品名、受賞歴、エピソードなどの「サイド記事」である。確か4ページだった。受賞決定と同時に輪転機にかけるフィルム版である。
  紙面には無論、花見の宴で「真向法」を、にこにこ顔で披露する井上さんの写真が載っていた。
  無念にも、この紙面は“幻”に終わった。
  井上さんの著作は概して固く、とっつきにくい。しかし、綿密に調べ上げた事実は、読む人の心を捉える。翻訳家が、もっと井上文学と取り組み、広く海外へ紹介してくれていたら、ノーベル賞は手にできたのではないか。もっとも、時の運もあるが…。
  “花見の宴”は、井上さんにとって、あれが最後だったかも知れない。その7年後の91年の冬の日、83歳で亡くなった。今年、生誕102年である。
                           ('09年9月)
  サクラの季節になると、私は富山市の松川べり、いたち川沿い、磯部堤を頻繁に散歩する。花びらの大きさや色、枝のしだれぐあい、周りの風景によって、それぞれに味がある。磯部堤など、ゆっくりサイクリングもいい。
  磯部堤の、ちょっと広めの草地の脇に来ると、私はいつも故・井上靖さんを思い出す。草地に敷いたゴザの上で、ほろ酔い機嫌の井上さんが、両足を真横に開き、さらに、何度も頭を地面にくっつけるのである。喜寿で、この体の柔らかさ。「真向法というんだ」。井上さんは自慢そうだった。
  井上さんが初めて富山を訪れ、20数年ぶりとかの「花見というもの」を楽しんだ1984年(昭和59年)のことである。井上さんを「連れ出した」のは当時、地方紙の文化部長だった私と記者たちである。
  


  井上さんは、私が勤めていた新聞社主宰の「文学賞」の選者を、発足3年目で丹羽文雄氏から引き継ぎ、それが通算18回を数えた。ちょうど、新聞社の創刊100周年に当たっていた。
  井上さんを富山に招こうという声が社内に高まった。だが、日本ペンクラブ会長や、政府肝いりの「7賢人会議(ワイズメン・カンファレンス)」のメンバーなどの要職のほか、“本職”の執筆活動がある。そのころ、井上さんは「天平の甍」を書き、「氷壁」、「敦煌」、「楼蘭」で芸術院賞など数多くの賞を受けていた。
  「行きましょう、富山へ」。井上さんは、ふたつ返事だった。
  さあ、イベントはどうする。講演会はむろん、歴代受賞者との懇談…。が、井上さんは過密スケジュールのうえ、高齢である。しかも時期は、うすら寒い早春。
  気づくと、周囲ではサクラがほぼ満開だった。「2時間もあればいい。井上さんを花見に連れ出そう」。私はそう考えた。会社のトップには内緒だった。