第14代将軍・・・徳川家茂

幼い時から聡明といわれ、学問を好んだ。


子を作る能力のなかった第13代将軍・家定が将軍職を継いだ時から、すでに将軍継嗣問題は起きていた。その候補の2人、一橋慶喜と紀伊慶福であった。
一橋派の水戸斉昭が以前大奥の経費節減を唱えていたため、大奥での評判はきわめて悪かった。その為井伊直弼ら南紀派に擁立され、慶福を将軍として迎えた。慶福徳川家茂に改名し、第14代将軍に就任した。
そして、御台所として皇女・和宮を薦めた。



孝明天皇の妹・和宮には、許婚・有栖川宮熾人親王がいたが、引き離された。彼女もまた公式融和和策の犠牲となって江戸へ下向した。

1862年、家茂和宮との婚儀が行われた。

孝明天皇は、妹・和宮を思い、以下の条件付の書状を送った。
一、毎年都に里帰りさせる事。
一、全て、御所風に守る事。
一、御所の女官を側近とする事。
しかし、この書状が裏目となり、和宮天璋院の仲をこじれさせた原因の1つだった。
もともと天璋院は、規律正しい人だったのに対し、和宮は物事に無頓着。そんな2人の間柄はうまく行くはずはもなく・・・。

この2人の確執説として、数々あるが・・・。
まず、和宮の入輿のお土産の上紙に「天璋院」へと書き捨てられていた。これは、姑に対する礼ではない!!と天璋院が怒ったという話し。
2人が初めて対面した時、天璋院は座蒲団の上に座っていたが、和宮には敷物を与えなかったという話し。
しかしこれらは、和宮自身が内親王と言う身分で入輿し大奥のしきたりを守らず、すべて御所風にした為と考えられる。

そんな和宮にとって唯一の救いだったのは、夫である家茂が思いやりのある青年だった為、夫婦仲は円満だったことだろうか。



また家茂の生母・実成院は、万事に派手好きで、酒好きだった。その為、本丸で乱痴気騒ぎの毎日だった。大奥御年寄・滝山は、使いの者に忠告させたがいっこうに聞き入れなかった。逆にそのことで根を持たれ、毒入りの鯉汁を飲まされたり、部屋を放火されたり・・・。幸い命はとりとめたが・・。大奥を仕切るのも命がけのようだ。



1866年7月20日、第2回長州征伐の途中、家茂が大坂城で病死した。
江戸城に着いた家茂の遺体とともに、一反の錦の布があった。
江戸へ発つ前に、和宮への土産として約束を交わした品物だった・・・。



こうして、最後の将軍は徳川慶喜が15代将軍となったが・・。鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ戻った。江戸城に帰着するや、その日に天璋院和宮に対面し助けを求めた。
後、徳川家存続の願いの為、和宮は朝廷に、天璋院西郷隆盛へ内書を送り続けた。
かなり衝突を繰り返した2人であったが、最後は協力して倒れ掛かった徳川家を支えようと働いたが力及ばず・・。江戸開城となった。

明け渡しの前、天璋院は江戸城を出て本寿院家定の生母)とともに一橋邸へ紀州邸、その後はまた東京へ戻ってきた。
一方、和宮は京都へ戻った。その際、夫・家茂の位牌は忘れ、孝明天皇の位牌だけを持って帰って行った。そんな和宮も、また3年後に東京に戻ってきたのだ。
和宮は、替え玉!?
彼女が京から江戸へ下向する際、病で倒れ病死。
急遽替え玉を立て、御台所としたという説・・。
または、もともと許婚の有栖川宮のことが忘れられず、替え玉を江戸へ送ったという説・・。


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