![]() しまった。ホチキスの針を買うの忘れた。 気づいたのは地下鉄に乗ってからだった。こ れから相手方の会社でプレゼンテーションを する際に配る資料。すでに準備は万端だった のだが、出がけに追加の資料を課長に渡され た。新たに綴じ直すのは先方に着いてから、 プレゼンが始まるまでの時間にやればいい。 そう思ってホチキスをカバンに入れ、針がな いのは分かっていたので、地下鉄に乗る前に いつもの文具屋で買つもりがうっかり忘れた。 まったく、こっちはすべて計画通りに動い てるんだから、資料があるなら前もって言っ てくれよ。先を読めない上司を持つと苦労す る。 おそらくこれから駅に着いて地上に出るの が12時55分。そこから先方の会社まで4 分かかる。約束の時間は13時30分。5分 前に着くとして26分の余裕がある。その間 にコンビニか文具店を探して針を買えばいい。 そしてプレゼン開始時刻が14時。1階の受 付をすまして4階までエレベーターであがり、 企画部の本田部長にあいさつしていつもの第 四会議室に通される。その時点で13時37 分から39分ぐらいだろう。資料の綴じ直し がひとつ15秒×10部で150秒、その他 の準備とあわせても10分前には完了する。 大丈夫だ。 予定通り、地下鉄駅から地上にでた時刻は 12時55分19秒。さて、お店を探さなく ては。 とりあえず行く途中にあることを願って会 社方向へと向かう。あたりを注意深く見渡し ながら歩くが、なかなかそれらしき店はない。 まったく、コンビニくらいあってもいいだろ う。いつもはこれでもかってくらい街にあふ れてるくせにホントに必要な時は見つからな い。そういえばこの辺のコンビニなんて意識 したことがなかった。喫茶店ならいくつか知 ってるのだが。 いよいよ最後の交差点に来た。そこを左に 曲がって少し行った右側に目的のビルがある。 交差点に立って前後左右に目を凝らしてみ てもやはりホチキスの針が売ってそうなとこ ろはない。追加の資料は綴じなくてもいいか? 腕時計は13時02分を差している。いや、 もうちょっとだけ探してみよう。 本来左に曲がるはずのとこを右に曲がって みる。そしてひとつめの交差点。自分が歩い ている道よりやや細い道が左右にのびる。か なり路地裏風。左側には、ない。右へ振り向 く。何台か置いてある自転車で見えにくいが、 よく文具店の軒先に置いてある、“全国の名 字の8割があります”という、四面にハンコ がずら〜っと並び、本体をぐるぐる回して探 す陳列ケース。あれが見えた。 駆け足でそこまで行く。するといかにも昔 からやってますという感じのこじんまりとし た店がまえがあった。間違いなく文具店。 高級万年筆はなさそうだけど、ホチキスの 針はあるだろう。とりあえずホッと胸をなで おろし中に入ることにした。 「ピン、ポロォ〜ン」という音と共に自動ド アが開く。中は意外と広い。商品棚が5列、 川の字に並んでいる。 店内をくまなく探すまでもなく、ホチキス の針は一番右側の棚の一番手前に見つけた。 ひとつ手に取り裏返して値段を見てみる。値 段なんてたかが知れてるのだが。 値札には 『¥70くらい』 とある。¥70くらい?“くらい”とはどう いうことだ?70円+税ということか。 とにかくこれを買うために奥のレジへ行く。 しかし人がいない。そういえばこの店はさっ きから人の気配がない。客がひとりもいない のはいいとして、店員のいる様子がない。 「すいませ〜ん」 と、どこへ向かって言うでもなく声を出して みた。というのは、自分が立っているこのカ ウンターの向こう側に、例えば事務所へと通 じる出入り口とかがない。あたりを見渡して も人が出てきそうな所がない。つまりこの誰 もいない店内に人が現れるとしたら、入口の 自動ドアから入ってくるしかない。 「す、すいませ〜ん」 今度はやや小さな声でその自動ドアのほうへ 向かって言ってみる。 ふと見上げると、ここがレジの場所である ことを示す案内板が天井から吊られている。 そこには、 『↓お会計?』 と書かれてある。なんでハテナがつくんだ? そういえば商品棚のあちこちに張ってある 表示もなんか変だ。 『水性?ボールペン』 『だいたいB4くらいのコピー用紙、およそ 500枚入り』 『消しゴムのような』 『クリップみたい』 『ノートっぽい』 『画びょうなの?』 なの?って誰に聞いてるんだ。店中のすべて がこんな調子だ。どういう意味だ、客をから かってるのか。 試しにその『画びょうなの?』を手に取っ てみる。透明のケースに入った、持つところ が赤とか黄色とか色とりどりの画びょう達だ。 画びょうなの?と聞くまでもなく画びょうだ ろう。・・・がしかし、何かおかしい。そう だ、この画びょうはピンの先が鋭くとがって いない。優しく丸みを帯びている。これじゃ 刺さらないぞ。どうやって使うんだ?ホント に「画びょうなの?」だ。ちなみに貼られた 値札は 『ほぼ¥180』。 不安になって手の中にある商品をよく見て みる。箱の表面には 『ホチキスの針かも』。 嫌な予感がする。画びょうの例からいけば “かも”というのは商品名ではない気がする。 そう言えばこんな箱見たこともない。メーカ ー名の記載もない。 ホントにホチキスの針が入ってるのか?中 を開けてみたいがフィルム包装がしてあって 開けることができない。振ってみると一応そ れっぽくカチャカチャと音がする。 店員に聞いてみればいいんだ。 「すいませ〜ん」 今度は大きな声で言ってみる。しかし静けさ だけが横たわったまま。 何なんだよいったい。いつまでもここで待 てるわけじゃない。腕時計は13時18分。 もう他の店を探す時間はない。 それにしてもなんて不用心なんだ。これじ ゃ品物を黙って持ってっても分からないぞ。 悪魔が左肩にのってささやく。なんならボー ルペンの2、3本いただいてくか? いやいや待て待て。大事なプレゼンの前だ、 バチがあたるようなことはすべきじゃない。 これがホチキスの針であるかどうかは非常に 不安だけども、とにかく買っていくことにす る。 結局、70円+税金、小数点は切り上げて 74円、しかしそんなにこまかいのを持って いないので、百円玉ひとつをカウンターに置 いた。 (くそっなんで余計に払わなくちゃならない んだ) そう思いつつも、これでプレゼンが成功しさ えすれば、と自分に言い聞かせて店を出た。 受付到着が13時24分、エレベーターに はタイミングよく待たずに乗れた。4階でい つ見ても暑苦しい顔の本田部長にあいさつを すると 「じゃ第四のほうで。勝手に入ってていいよ」 と言われ、ひとりで第四会議室へ。 部屋に入ってまずしたことは『ホチキスの 針かも』と書かれた箱のフィルム包装をむし り取って中身を確かめたことだった。 中に入っていたのは、まったく普通のホチ キスの針だった。なにか拍子抜けな感じもし たが、とんでもない、普通じゃなきゃ困るの だ。 予定どおり一部15秒のペースで資料の綴 じ直しをしながら、 (帰りにもう一度あの店に寄って、今度はあ の『画びょうなの?』を買ってみよう) そんなことを考えていた。 2002,2,26 |
・演歌のいばら道 |