彼はその日、間違い電話で起こされた。朝
の8時半に。
(なんだよ、せっかくの休みだっていうのに)
目覚ましに邪魔されることなく、心おきなく
寝坊してやろうという彼の算段はもろくも崩
れた。一度目覚めてしまった体は二度と眠り
につくことはなかった。しかたなく、彼はベ
ッドから体をおこした。
「やべっ」
彼女は左手に持つ紙に書いてある電話番号を
見直した。走りながらなので数字が揺れてよ
く見えない。今日は新しいバイトの初日だと
いうのに遅刻はまずい。まずいけど、もうど
うしようもない。とにかく電話をしてその旨
を伝えるのは最低限やっておかなければなら
ない。と同時に1本でも早い電車に乗って少
しでも早く着きたい。ゆっくり歩いて電話を
かけるくらいなら駅まで走りきろう、駅で電
車を待つ間にバイト先へ電話すればいい。
 彼女の頭は大学の授業の時より何倍もの早
さでフル回転していた。それにしてもさっき
の間違い電話、謝りもせずに電話を切ってし
まったような気がする。
 彼は軽い朝食をすませると洗濯を始めた。
寝坊もよかったが、せっかくのいい天気なん
だから一日を有効に使おう。洗濯がすんだら
買い物にでも出かけるか。そう言えば前々か
ら買おうと思ってた物があったはずだ。いろ
いろ考えてると何だか楽しくなってきた。
 彼女が駅に着くと、改札付近が多くの人で
ごった返していた。なんでだろう、日曜日の
こんな時間に。あれをかきわけていくのは大
変そうだけど行くしかない。彼女はカバンか
ら定期券を取り出すと目の前の密林に飛び込
むべく、体に力を入れた。 
 とその時、やや興奮ぎみのアナウンスが流
れた。
「大変ご迷惑をおかけいたしております。緑
台駅で起きましたポイント故障のため、ただ
今上り線下り線とも運転を見合わせておりま
す。復旧のメドはまだたっておりません。詳
しい情報が入りしだいお知らせいたします」
(やった!)
彼女はゆっくりと携帯電話を取り出し、電話
番号が書いてある求人広告の切れ端を見なが
ら、今度は間違えないように用心深くボタン
を押した。
 さて、これから買い物に行くと決めたのは
いいが、具体的に何を買うのかはまだはっき
りとしない。でも何か買いたかったのは間違
いない。会社で忙しくしてる時に限って、今
度の休みにあれを買いにいこう、なんて関係
ないことを思いつくのに、いざその休みにな
ると、何だっけ?となる。出勤前に“歯をみ
がく前にあの書類をカバンに入れる”と考え
ながらトイレに入り、しかし出てくる時には
すっかり忘れて歯をみがいてる、なんてしょ
っちゅうだ。
 ひとつひとつちゃんと自分の中にメモして
いこう。もう何度目にもなる自戒の念をかみ
しめながらも、結局何を買うのかは思い出せ
なかった。
(まぁいい。じゃビデオでも借りにいくかな)
彼は家を出て、いつもは自転車を飛ばしてい
く駅までの道を、空を見上げながらゆっくり
と歩き出した。
 結局彼女は予定の出勤時間より1時間遅れ
で到着した。ターミナル駅前にある、この辺
りでは一番の規模を誇るレンタルビデオ店。
「大変だったねぇ、大丈夫だった?」
店長は他の従業員からも話を聞いていたらし
い。
「えぇ、すいません、遅くなってしまって」
「いや、しょうがないよねぇ、電車が動かな
いんじゃ」
何はともあれ、寝坊という大失敗は誰にも知
られず密かに封印された。
(今日はツイてる)
彼女は思った。
 彼がビデオを借りる時はたいてい、会社か
らふた駅手前のところにある大きいレンタル
屋さんに行くことにしている。彼の映画の好
みはいわゆる『単館系』というやつで“全米
震撼の超大作いよいよ上陸”とか“世界が泣
いた感動巨編、全国一斉ロードショー”とい
うのはあまり彼のアンテナにひっかからない。
地味だけどよい作品、こういうのに魅かれる。
 そうなると自宅近くの小さなレンタル屋さ
んでは彼の満足のいく品揃えにはならない。
というわけで、おそらく2ヶ月以上のひさし
ぶりでこの店にやってきた。
 彼女は先輩の女性アルバイトを紹介され
「今日はこの石塚さんにいろいろ教えてもら
って下さい」
と店長に言われた。
「よろしくお願いします」
彼女は石塚さんに向かって頭を下げた。
 バイトを始める時というのは右も左もわか
らないので不安だらけになる。仕事をする気
は満々なのに何もできないというストレスは
新人独特のもの。先輩達が忙しいとロクに仕
事を教えてもらえず、ほっとかれると余計不
安になったりする。
(つらいのは最初だけ)
とにかくこの時期を乗り越えて仕事がわかっ
てくれば精神的に落ち着く。
「じゃ、まずお店の中から案内するわね」 
 彼女は先輩石塚さんに連れられて事務所か
らフロアへ出た。
 彼は店内に入るとまっすぐに『ミニシアタ
ーコーナー』へと向かった。フロアの一番奥。
ここには渋くていい作品が、入り口近くにあ
る『アクション映画コーナー』に負けず劣ら
ずの数で並んでいる。
 “デンマーク”“ロシア”など国別に仕切
られて並んでいる色とりどりのパッケージを
見てると、映画館で見逃したのがたくさんあ
るのを思い知らされる。あれも見たかったの
にこれも見たかったのに。この映画の時はあ
のプロジェクトが真っ盛りで会社に缶詰めだ
った。あの映画の時はあの仕事が忙しくて、
と思い出すのは仕事のことばかり。
 どれにしようか迷うが、そういえばカナダ
の映画ですごく見たかったのがあった。たし
か最近になってレンタル開始になってるはず。
それにしよう。
 だが、その作品が見当たらない。“カナダ”
のところを何度も見直すがそのタイトルはな
い。
 彼女は店内のどこに何のビデオがあるのか
を先輩石塚さんと実際に見て回った。この店
はいわゆるアダルトビデオが置いていない。
(もしそういうコーナーがあったら女の子の
店員もそこに出入りするのかな。まさかぁ、
第一、そこにいる男が嫌がるだろうし)
彼女は関係ないことを考ながら先輩石塚さん
の後ろをついて歩く。
 やがて『ミニシアターコーナー』のところ
にやって来た。ここには彼女の好きな映画が
いっぱいある。
(あれもよかったし、これもよかった。へぇ、
あれはもうビデオになってるんだ)
おそらく彼女は先輩石塚さんの話を半分しか
聞いていない。
 彼がそのカナダ映画を見つけられずに困っ
ていると、店員が2人、近くにやってきた。
1人は新人の店員だろうか、もうひとりの店
員に何かを説明されている。その、説明をし
てるほうの店員に声をかけ、お目当ての映画
はあるのか聞いてみた。
「えぇ、それでしたらカウンター前の新作コ
ーナーの方になりますのでご案内します」
と言われたが
「あ、いいですよ。分かるので自分で行きま
す」
そうか、新作コーナーか。彼は早足でカウン
ター前に向かった。
「お客様に今みたいな質問をされた時は場所
を答えるだけじゃなくて、そこまで案内する
ようにしてね。分からなければ私とかにどん
どん聞いてくれてかまわないから」
「はい」
と返事をしながら
(単館系だったら分かるけど、他のジャンル
の映画を聞かれたら確かに分からないかも)
こりゃもっと真剣に先輩石塚さんの説明を聞
かなきゃ。今さらながら彼女は気を引き締め
た。
 結局彼は目的の映画を1本借りると店を出
た。
 出た瞬間にひらめいた。
(そうだ、あれを買おうと思ってたんだ)
それは卓上ランプ。部屋にある机の上に欲し
いと思って目をつけていたのがあったのだ。
 ちょうどここの駅の向こう側に5階建ての
インテリア専門の店がある。その店は彼好み
のおしゃれな(と彼は思う)デザインのもの
が揃っていて、よくそこで買い物をする。部
屋にあるソファも机もベッドもみんなそこで
買ったし、お皿も全てそこで買った。
 照明器具は4階。何がどこにあるかはすべ
て彼の頭の中に入っている。彼は店に入ると
レンタル屋の時と同じくまっすぐに、あのラ
ンプが置いてある所へと向かう。
 全体が金色にメッキされたレトロなデザイ
ンの洋風ランプ。あらためてその前に立った
彼は、ますますそのランプが気に入ってしま
った。
 おそらく実際にこれをつけて何か作業をす
るには電球がちょっと暗いような気もするが、
でも何よりこのデザインがいい。
 彼女はなんとか無事に初日の仕事を終えた。
初日ということもあって今日の勤務時間は4
時間。しかしまる1日働いたかのようにどっ
と疲れた。
 いろいろと覚えることがあるのはわかって
いたが、思った以上だった。
(今度はノートを持ってきて全部メモしてい
こう)
そう決意して店を出た。
 空は雲ひとつない青色。
(時間も早いし、ひさしぶりにあそこへ行っ
てみるかな)
彼女は空を見上げながらゆっくりと歩き出し
た。
 駅の反対側にある5階建てのインテリア専
門のお店。ここは彼女のお気に入りの場所。
特に何を買うわけではないのだけれど、店の
中をぶらぶらと見て歩く。
 この家具を部屋のあそこに置いて、あのカ
ーテンにして、という風に空想をするのがと
ても楽しい。そうして過ごすと時間なんてあ
っという間に経ってしまう。まず店の5階ま
でエレベーターで上がり、1階1階を見なが
ら下まで降りてくる。これが彼女の楽しみか
た。
 彼はランプを買ったあとも上の階に行った
り下の階に行ったりと店内を見て回っていた。
見てると欲しいものは次から次へと出てくる
が、それはまた次の給料日。
 彼は家を出てから何も食べていないことに
気がついた。
(そろそろ帰るか)
今いる5階からエレベーターで1階に降りる
ことにした。
 彼女は1階からエレベーターに乗り込むと
5階のボタンを押した。エレベーターの中に
は彼女ひとり。しかもどの階にも止まること
なく一気に5階まで上がった。
 彼が『↓』のボタンを押してからエレベー
ターがやって来たのは意外と早かった。
 扉が開くと女性がひとり乗っていたので、
彼は彼女が外に出るのを待って中に入った。
 彼女は5階でたったひとりエレベーターを
待っていた彼のために『開』のボタンをギリ
ギリまで押して外に出た。
 彼はふと、何かを確かめるように彼女のほ
うに目をやったが、その後ろ姿からは何も確
信することができなかったので1階のボタン
を押して扉を閉めた。
 彼女は何かを思い出したような気がしてエ
レベーターのほうを振り返った。が、そこに
は閉じた扉があるだけだった。
 降りていくエレベーターの中で彼は、包装
されたランプを大事に抱えながら何を食べよ
うか考えていた。
 彼女は、すぐそこに広がった空想の部屋に
目を輝かせていた。


               2002,3,7



演歌のいばら道

コンビニ2軒

ケータイ禁止

動かない人

定食アイロニー

ある男の情熱

どこかにサムライ

あいまい文具店

花屋と図書館

シンクロ深海魚

三男坊は月へ行く

月が落ちてくる

地球代表

みんな泣いている

サイキックエンタテイナ

メランコリック午後2時


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