
和気清麻呂



私が今住んでいる大阪と、私の故郷岡山との両方に最も深く関係している人物と云うと和気清麻呂が最たるものである。だから、一度は彼のことを書かねばなるまいと思いながらも、今まで書いてこなかったのには、二つの理由がある。
彼は備前国和気郡藤野郷の出身であるが、その祖先は吉備ではなくて、垂仁天皇の皇子鐸石別(ぬでしわけ)命の三世の孫弟彦(おとひこ)王が功によって、この地を賜ったのに始まると称していることである。つまり、彼は古くからの吉備人ではなく、逆に吉備に浸透して来た大和勢力の末であることが第一の理由である。
第二の理由は、彼の本質は有能な実務官僚であり、謹厳実直な、ひたすら真面目な平凡な人物に過ぎず、この意味において、人間として面白みがないことである。彼は決して政治家ではない。道鏡の野望を退ける功績を果たしたが、それは言うなれば結果であって、身を捨て身を挺して道鏡の野望に断固として立ち向かった義人と云うのではない。
あの事件の本質は、道鏡の弟で太宰帥(だざいのそつ)をも兼ねていた弓削浄人(ゆげのきよと)が、自分の部下である太宰主神(だざいのかんずかさ)の習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)に命じて打たせた芝居に対して、弓削一派を除こうとする藤原一族、中でも藤原百川(ももかわ)が逆手を取って「うっちゃり」を打とうとしたものと考えられる。従って、清麻呂はその大芝居の役者の一人に過ぎず、百川の演出によって、その意を受けて動いたものに過ぎない。百川は「もし、うまく行かなかった場合も、俺は全力を挙げてお前を守ってやる」と、彼に言い含めたに違いない。
清麻呂が大隅に流された時、百川は封戸二十戸を彼に贈って、その生活の面倒を見ている。また、配所に向かう途中、三百頭ばかりの野猪が現れて彼を護り先導したと日本後紀は伝えているが、これは恐らくは、藤原百川が密かに手兵に命じて、その道中を警護させたものに違いない。
このようにして、清麻呂と云う人物は庶務に練達した実務家と見られるが、このことは事件の後、摂津大夫、中宮大夫、民部卿などを歴任した経歴によっても示されている。その間における業績のうち、日本後紀は特に著しいものとして二つを記している。一つは河内の大和川の水を直接に西の海に流すための掘り割りの掘削を企てたことであり、もう一つは、藤原種継暗殺の後に中断していた長岡京の造営を取りやめて、葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)郡に平安京を作ることを進言し、造宮長官となって遷都を推進したことである。
現在、大阪市の天王寺区と阿倍野区との区境を東西に走っている国鉄線の線路敷となっている溝状帯は、この時、清麻呂が掘ったものであり、彼は後年の大和川付け替えと同じ考えを、この時既に実施しているのである。
ところで、樟葉の北端、正しくは八幡市の男山団地の中の西山に、和気清麻呂が建立した足立寺(そくりゅうじ)と云う寺があったと云う。現在、西山廃寺と呼ばれている古代寺院跡がそれであると云い、高台の上には和気神社と云う神社も作られている。足立寺の名の由来は、清麻呂は流刑になる時、両足を斬られたが、八幡神の加護によって元通りになったことによると伝えている。
しかし、トカケの足ではあるまいし、そんな馬鹿なことはあり得ない。これは、大隅に向かう途中で足が萎えたが八幡神に祈ったら治癒したと日本後紀が記している話が誇張されたもので、脚気にでもなったものであろう。それに、アダチ(足立、安達、足達)と云う地名は全国的に見られ、「川岸で日当たりのよい場所」の意味である。しかも、西山廃寺の発掘結果によると、厚い砂層の下から出てきたものは白鳳時代の塔跡などで、清麻呂の時代よりも百年以上も古い。こうなると、清麻呂がここに寺を建てたと云う話は随分怪しくなってくる。しかし、清麻呂の建立でないとしても、彼から何代か前の和気氏である可能性は否定できない。
よしんば、そうでないとしても、清麻呂もまた北河内に足跡を残した人物の一人であることに間違いはあるまい。摂津職(せっつしき)の長官として多くの土木事業を手掛けているのだから、河内もまた、何度も何度も歩いているに違いないから。




