【箕面市】
○人口:12万 ○市制:昭和31年 ○市の木=イロハモミジ ○市の花=ササユリ
○昭和23年:萱野村+箕面村+止止呂美村 →箕面町
昭和31年:箕面町+豊川村(半分)→箕面市
【箕面市の性格】
| 古くは |
古刹の地 |
勝尾寺:西国札所←浄土信仰←病気平癒
瀧安寺:修験山伏←浄土信仰←雨乞請雨 |
| 近世は |
景勝の地(滝とお猿と紅葉の天ぷら) |
渓谷の水分が紅葉とシダを繁殖させた。
滝安寺の寺域のため自然が保たれた |
| 現代は |
山麓の緑豊かな住宅地 |
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| それに加えて |
萱野三平邸のある所 |
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【市名の由来】
箕面市の名は、明治23年に出来た箕面村の名から来ている。箕面村の名は箕面山と云う山の名から付けられている。箕面山は「水尾」すなわち「水が豊かに流れる尾根」の意味で、「水尾」に「箕面」(み・おも)の字を当てたのは、中国の古い伝説である「許由の箕山(きざん)隠棲」の故事に因んだ可能性が高いと考えられている。
【箕面公園】

○観瀑賞楓の名勝地として古くから知られていた箕面山は瀧安寺の寺領山林であったが、明治4年、寺の境内以外の山林は国有地となり、東京の高尾山と並んで、我が国最初の公園地となる。
○明治8年2月4日、勝地と改称される。
○明治31年、大阪府が国から無償で払い下げを受け、大阪府立箕面公園が発足する。(森秀次の奔走による)
○明治32年、国有土地森林下戻法が制定され、公園地をもとの持ち主の瀧安寺に返還しなければならなくなり、権利争いの裁判となる。
○明治40年5月20日、大阪府が2万円で買い上げることになり、あらためて大阪府立箕面公園が誕生する。
○大正時代に入ると、大阪府は公園の整備事業を進める。
○昭和42年12月、府営箕面公園とその周辺の森林963haが、明治百年記念によって「明治の森箕面国定公園」となる。この時、東京の高尾山も同時に国定公園となる。43年には、その中心施設として箕面ビジターセンターが開設される。
【阪神急行電鉄箕面線】
○阪鶴鉄道(大阪〜舞鶴)は明治39年に鉄道国有法によって政府に買収されて国有になる。(これが現在の福知山線である)
○同社はその後、北摂地域に鉄道を引くことを計画し、その事業母体として箕面有馬電気軌道(株)を設立する。初代社長は北浜銀行頭取の岩下清周、三代目社長が小林一三。
○明治43年3月10日、梅田〜宝塚、石橋〜箕面間が開通。
○現在、箕面駅前のロータリーは、当時の、電車の折り返しのためのループの跡。
○同時に、池田市に室町住宅の建設分譲を行い沿線の開発を進める。
また、箕面に動物園を開設(現在のスパーガーデンの所)
○箕面有馬電気軌道は、大正7年、阪神急行電鉄と改称される。
【箕面動物園】
○明治43年、電車の開通に合わせて開設する。
○広さ3万坪(99,000u)、延長5kmの観覧遊歩道、
○蓬莱橋を渡ると、入口は不老門と名付けた竜宮城型の門、観覧車もあった。
○動物飼育用の洞窟が現在も残っている。
○大正5年に廃止され、宝塚に移転する。立地的に拡張の余地がないためであるが、付近の住民から動物の屎尿の臭気に対して猛烈な苦情があったのも原因と云う。
【関西財界人クラブ:松風閣】
○現在箕面観光ホテルがある場所に、明治時代中頃(年次不明)、北浜銀行頭取岩下清周らによって、関西財界人クラブが建てられ、松風閣と名付けられる。桃山風の総数寄屋普請で3階建て。土台は清水舞台作りの木組。3つの茶室は全国の銘木を集めて贅を尽くす。
○明治の元勲公爵桂太郎が愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まったので、桂公爵別邸と呼ばれるようになる。
○現在は、箕面観光ホテルの別館「桂」となっている。
<註>桂太郎
・弘化4〜大正2(1847〜1913)、長州藩出身、・陸軍大将、総理大臣3回、公爵、山県有朋の下でドイツ式陸軍を編成し、陸軍大臣を4度、
・第1次桂内閣では日露戦争
・第2次桂内閣では韓国併合、幸徳秋水らの弾圧、
・第3次桂内閣は、大正政変(第2次護憲運動)により53日で総辞職
<註>お鯉
・本名は安藤照、新橋の芸妓の出身、桂太郎の死後は剃髪して妙照尼、目黒の羅漢寺の尼住職。
【箕面観光ホテルと箕面温泉】
○昭和26年、箕面観光ホテルが作られて開業。
○昭和30年、温泉が発見され、昭和40年、箕面温泉スパーガーデンが併設される。山の上にあり、最初はケーブルカー(日本最短のケーブルカー)で上ったが、平成5年にエレベーターとなる。


【神仏混淆】
大聖歓喜天(歓喜天、聖天)を祀る。仏教において天部に属する護法神である歓喜天を、瀧安寺が寺の守護のために、その寺域の入口に祀った僧坊から起こると考えられる。天部はもともとヒンドウ教の神が仏教に取り入れられたもので、仏であると同時に神であると云う神仏混淆の性格をもっている。このため、この寺は、聖天宮と称する神社であると共に、西江寺と称する寺で、高野山真言宗に属する。
【我が国最初の歓喜天出現の地】
伝承によると、役行者が葛城、大峰、熊野で修行をしていた時、北の方角に霊光を見て、その光を追って箕面山に来て、この場所

で一人の老人に出会い、この山の奥に滝があることを教えられ、その教えのままに大滝に至って龍樹菩薩に会うが、この老人は、実は歓喜天であった。従って、この場所は我が国最初の歓喜天の出現の地であると云う。境内には、役行者と歓喜天との対談石なるものもある。 この時、老人は「この山は自分の領地であるが、これをお前に与えるから、ここに伽藍を建てよ」と語り、伽藍用地を寄進したと云う。
【地主神・氏神】
この伝承のように、この歓喜天は、箕面山の地主神でもある。このため、地元の平尾村はこの聖天宮を氏神としている。従って、この聖天宮は瀧安寺がその地主神を祀ったものと云う性格も持っている。
山間寺院の建立に当たっては、以前からその山で暮らしていた人たちと、外部からやって来た行者との間で、土地争いが起きるのが常である。(高野山における丹生明神、狩場明神、比叡山における日枝山王権現、勝尾寺における大荒神など)滝安寺ではこの問題を、このような形で収めたものと見られる。


歓喜天は仏教において天部に属する護法神の一で、歓喜自在天、大聖歓喜天、略して聖天とも呼ばれる。ヒンドウ教におけるガネーシャが仏教に取り入れられたものである。障りをなす魔神を支配する神とされ、除障・富貴を目的として祭られる。象頭人身の男女の相擁する姿で表される。
【巾着と大根】
歓喜天は象頭人身の男女が抱擁する姿で表されるので、歓喜天のシンボルは女陰と男根を象徴する巾着と大根である。お堂に懸けられている大提灯、線香立て、建物の釘隠し、お堂の屋根の軒丸瓦などにも巾着や大根の絵が見られる。
【おだん】
歓喜天へのお供えとして「おだん」と云うものを作る。これは油で揚げた巾着型のものである。こ

れが「紅葉の天ぷら」の原型である。当初は「もみじの葉衣」と呼ばれていた。
紅葉の葉は、黄色に色づき葉が大きい「一行寺楓」(いちぎょうじかえで)に限定されている。これを塩漬けにして用いる。
【天狗の祭り】
この聖天宮の秋祭りは「天狗の祭り」として知られ、天狗の面をかぶった人が子供を叩いて回る。天狗は、修験道の行者、すなわち、山伏の転じたものとも考えられる。
【沿革】

・斉明天皇の頃、役行者が箕面大滝の下に草堂を建てて修行、水の神である弁財天を祀り、箕面寺と称する。
・それ以後、山林修行の道場として、滝周辺に五十余の堂塔が立ち並び、「聖」(ひじり)の住処として知られる。
・応和2年(962)村上天皇の勅によって、僧千観が降雨の法を行い法験があった。
・元仁2年(1225)初めて焼亡するも、直ちに再建。
・後醍醐天皇の隠岐脱出を、護良親王の令旨によって修法して功績があり、天皇より瀧安寺(ろうあんじ)(「りゅうあんじ」と読むのは誤り)の名と勅額を賜る。
・永享8年(1431年)に火災にあい、慶長元年(1596年)の慶長大地震で倒壊する。
・慶長8年頃より、下流の現在地に再建が行われる。
・後水尾天皇の勅命によって、明暦2年(1656年)に本堂弁天堂を建立。
・文化6年(1809年)光格天皇から山門を賜り、京都御所から移築する。
・修験道場として、また、滝と紅葉の景勝地として、独自の発展を遂げる。現在は修験道聖護院派(天台系)に属す。
【箕面寺秘密縁起によると】
・役行者が箕面に来たのは白雉元年、箕面山の坂本で老翁に会い、山中に滝があることを教えられる。
・滝の所に行くと、彼が金剛山から投げた三鈷が松の上に懸かって霊光を放っていた。
・滝の上の龍穴に入って龍樹菩薩を拝し、徳善太皇(本地薬師)より伝法灌頂を受ける。
・滝の本で不動明王の像を刻む。大荒神が現れたので、これに荒神供を勤行する。
・龍樹菩薩像と弁才天像を造り、草堂に安置する。
【龍樹菩薩(ナガルジューナ)】
・150〜250年頃、南インドの僧、
・空の思想を説き、大乗仏教の思想を体系づけた最初の人、
・中論、十二門論、大智度論の著者
・中国・日本の諸宗は総てその思想を承けているので「八宗の祖」と云う
【弁才天】
・梵語でサラスヴァティ(Sarasvati)、もともとは川の神、音楽や弁舌の神とされ、学問、芸術の守護神とされ、サンスクリットの発明者とも云われる。中国では「弁才天」「美音天」「妙音天」と訳される。
・聖武天皇の時に日本に伝来した時、宗像(むなかた)三女神の一人、市杵島姫(いちきしまひめ)と習合し、さらに、吉祥天とも混同されて福徳の神ともなり、「才」が「財」に変わって「弁財天」とも書かれた。略して「弁天」と呼ぶ。蓮華座に座し琵琶を奏でる美しい女神である。
・己巳(つちのとみ)が縁日とされるのは、巳は蛇、蛇は水の神、水の神は弁財天と云う連想による。そして、弁財天の使番は蛇である。
<註>光格天皇
江戸時代末期の天皇(明治天皇の3代前)、天明8年御所が火災になり、2年間ほど聖護院を仮御所とする。聖護院は天台系修験道の総本山であるため、修験道に関心を深め、役行者に神変大菩薩の名を贈り、役行者が入滅したと伝えられる瀧安寺に御所の門を下賜する。この天皇は江戸幕府と堂々と渡り合い、それまではお飾りに過ぎなかった天皇のイメージを一新させた。

○本堂(弁天堂)
本尊=弁財天(60年に一度開帳の秘仏)
江ノ島、竹生島、厳島と並んで日本四箇所弁財天の一つと称している。
建物=後水尾天皇の寄進と云い、屋根瓦は菊花紋
○行者堂
主尊=役行者、脇尊=不動明王、蔵王権現、
○観音堂
主尊=如意輪観音、脇尊=不動明王、毘沙門天、
建物=江戸時代初期元禄時代の建物(豊臣秀吉の母の寄進と伝えているが、これは正しくない)であったが、平成14年10月、解体修理終了

○山門
建物=もと京都御所内の桜町天皇(在位:1735〜1747)の御座所の門、文化6年(1809)光格天皇より賜る。六脚門で屋根瓦は菊花紋。平成15年解体修理終了
扁額=江戸時代後期の聖護院門跡宮盈仁法親王の筆
○護摩壇
毎年、行者堂戸開法要の4月15日、開山忌の7月7日、行者堂戸閉法要の11月7日に聖護院系の山伏が集まって大護摩法要が行われている。
○瀧安寺住職墓地
入口に、京都から移された道標がある。光格天皇から御所の門を山門として賜った時に、誤って一緒に移されたものか。
○一行寺楓植栽林
紅葉の天ぷらに用いる一行寺楓の植林


○箕面の福富とも云われ、牛王宝印(ごおうほういん)の護符を参詣者に抽選で配布するものである。
由来は、古くから行われていた富法会(とみほうえ)に発する。富法会は護符を天皇家に献上する禁裏祈祷の法会である。この護符を一般庶民にも除災与楽のために配布するようにしたが、その配布方法が時代と共に変わっていった。
○最初は参詣者の頭上に午王宝印を押し頂かせたが、これでは参詣者のみに限られるので、宝印を写し押した護符を希望者に手渡すことにした。しかし、これでは混雑するので、参詣人が堂の格子戸の狭間から竹竿を入れておき、勤行が終わって後に、寺僧が護符を竹竿の先に挟むようにした。それでも、ますます参詣者が多くなり混乱が起こったので、自分の名前を書いた札を富箱にいれる方法に変わった。
○すなわち、参詣者は自分の名を書いた木札を富箱と呼ぶ大きな箱にいれる。箱の上の穴から寺僧が錐で突く。錐に刺さって取り出された木札の名の人に護符を授ける。護符を授かった人には福徳があるとされ、大変な人気であった。
○運よく護符を得た者は、いかに遠方でも夜通し駆けて持ち帰る。途中で他家に立ち寄ると福はその家にとどまるので、数人一組で食事や休憩も交替でとり、護符を持つ者は必ず屋外にいたと云う。
○天保年間に幕府は富興行禁止令を出すが、箕面の瀧安寺のものは金品を授受しないので特別に許可されて明治まで存続した。
○現在また復活して、正月1〜3日に行われている。
ただし、従来の方法では時間がかかるので、平成17年から、また方法を変え、太鼓型の箱の中に札を入れ、胴に明けられた穴から手を入れて札を取り出すように変更されている。

○役行者、名は役小角(えんのおづぬ)、後に、光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られる。白鳳時代の山岳修行者で、修験道(しゅげんどう)の開祖として山伏たちに崇められている人物である。

○伝説によると、彼は大和国南葛城郡の茅原村(現在の御所市茅原)で、舒明天皇の六年(634年)に、賀茂氏の流れを汲む家に生まれた。十七才で元興寺(がんごうじ)に学び、やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。
○ある時、北の方角に霊光を見、その光を追って摂津国の箕面山の大滝に至り、龍穴の中へ入って、そこで龍樹菩薩から法を授けられる。龍樹菩薩は二世紀頃の南印度の人であるから、もとより、それは事実ではなく、滝は龍であるとの観念によるものである。
○その後、吉野の金峰山に行き、ここで、蔵王権現を感得する。彼は、

憤怒の形相すさまじいその仏の姿を、悪魔を降伏させ衆生を済度する仏として、桜の木に刻んで堂に祀る。これが金峰山蔵王堂の草創である。
○やがて、彼は全国の霊山をくまなく遍歴し、その足跡は、北は羽黒、月山、湯殿の出羽三山より、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及び、それと共に彼の法力、行力は比類もなく高められて、超人的

な域に至った。
○役行者には、前鬼(ぜんき)(善童鬼)、後鬼(ごき)(妙童鬼)と呼ばれる夫婦の従者がいたと伝えられる。
前鬼の像は斧を持ち、後鬼の像は水瓶と種子の入った袋を持っている。これは、前鬼が役行者の行く道を切り開き、後鬼は、その後に作物の種子を蒔いて水をやる姿であると云う。
○ところが、文武天皇三年(699年)の五月、彼の弟子の一人の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、その能力を妬んで彼を讒言したため、妖術をもって人心を惑わす者として捕らえられ伊豆の大島に流罪になる。(実は、この伊豆嶋流罪の記事だけが、彼について史書が記した唯一のもの)
○そして、二年後の文武天皇五年(701年)一月、罪を許されて帰京するが、それから四ヶ月後の五月、箕面において寂滅した。現在、天上が岳の頂上を役行者の墓と伝えられている。(周囲は総て国有地だが、この山の頂上だけは瀧安寺の寺領になっている)
【修験道】
○仏教は平野部に寺院を構えることによって始まったが、俗塵を離れて静寂な山中に入って研学・修行しようという僧侶たちが現れてくる。役行者はそうした山岳修行者たちの、最も早い段階の人物である。
○そうした山岳修行者たちによって、次第に修験道が形成されてゆく。修験道は山岳信仰を基底に置き、それに真言密教と道教が習合したもので、平安時代の聖宝(しょうぼう)によって体系化された。この過程において、役行者は修験道の開祖者であるとされた。最も古い山岳修行者であったことによる。
○修験道の行者たちが山伏である。彼らは山岳に登り難行苦行を重ねて呪力を体得し、それに基づいて加持祈祷をする。山伏たちは全国の山を修行の場とする。そうした山伏たちの修行の山々に建てられた寺院は、しばしば役行者を開基と称している。

聖(ひじり)とは、本来は高徳の僧の意味であるが、十世紀頃から、正規の寺院での修行に不満を抱き、本寺を離れて周辺に結んだ草庵で修行したり、あるいは、諸国を遊行する僧が現れる。彼らのことを「聖」と呼んだ。特に、念仏行者には「聖」となるものが多かった。
こうして諸国を遊行する念仏僧たちが、しばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があった。このことは、梁塵秘抄の中の次の2首の今様の歌によっても知られる。
○聖(ひじり)の住所(すみか)は何処(どこ)何処ぞ、箕面よ勝尾(かちう)よ、播磨なる、書写(そさ)の山、出雲の鰐渕(わにぶち)や日の御崎、南は熊野の那智とかや
○聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮
<註>梁塵秘抄
平安時代末期の後白河法皇が、当時、巷で歌われていた雑芸の歌を集めて編集したものである。梁塵とは建物の棟木の上に積もった軽い細かい塵のことである。中国の古い書物に、美しい声で歌う歌の響きは棟木に積もった塵を動かすと云う意味の言葉があるので、これによって名付けられた。
梁塵秘抄の歌の大部分は今様である。今様とは当世風と云う意味であり、和讃や雅楽の影響を受けて生まれた。
こうした今様は、遊女や白拍子(しらびょうし)たちによって歌われた。平家物語に登場する祇王、祇女や仏御前、そしてあの静御前らは、その白拍子であった。水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし)に白鞘巻の刀を帯びた男装で歌いながら舞う彼女たちの姿に、男たちは胸をときめかしたのであった。

【教信】
勝尾寺第四代座主証如は沙弥教信から阿弥陀仏の称名を口誦することを教えられたと云われている。教信は播磨国加古川駅の里に住む荷運び人足で妻子も持つ非僧非俗の人。常に南無阿弥陀仏と唱えており、人は彼を阿弥陀丸と呼んだ。自らの遺体を鳥獣の供養に捧げ、また、死に当たって勝尾寺の証如の夢の中に顕れて口誦念仏を伝えたと云われている。
【証如】(勝尾寺)
勝尾寺第四代座主証如は念仏浄土信仰を我が国で初めて唱える。箕面寺や勝尾寺が聖の住所となったのは彼から始まる。勝尾寺裏山の東海自然歩道沿いに証如と教信の墓が並んで立っている。
【千観】(箕面寺)
相模国司の子で、園城寺で学んだ後浄土信仰に入り、箕面寺に居る。応和2年(962)夏、旱天のため、千観に請雨の修法をすべしとの勅令が下る。彼は勅使と共に大滝に至り、滝口を覆う柳樹に登り香炉を捧げて祈ったところ、忽ちに降雨となった。人々は彼を「箕面の尊き聖」と呼んだ。彼は念仏聖としての生活の中で衆人教化のために阿弥陀和讃を作る。これは最も古い和讃である。後に島上郡安満寺に入り、浄土日想観の地として金竜寺を再興する。
【法然】(勝尾寺)
浄土宗の開祖の法然は、美作国久米郡の出身。18才の時、西塔黒谷の叡空の弟子となり法然坊源空と名乗る。43才の時、浄土宗を開創する。この教えは忽ち庶民に浸透したが既存の諸宗派から圧迫を受ける。彼が75才の時、女官たちを出家させたことが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、4人の弟子は死罪、彼も土佐(実際は讃岐)に流罪になる。9ヶ月後には赦免になるが京都に入ることは許されず、勝尾寺の二階堂に4年間逗留する。これは、念仏信仰を初めて確立した勝尾寺第四代座主証如のゆかりによるものであり、また、勝尾寺が念仏行者の聖たちの集う山として早くから知られていたためである。80才になった時、京都に戻るが、日をおかず没する。
【徳本】(勝尾寺)
江戸時代末期、紀州日高郡に生まれた念仏僧。殆ど無学であったが、言語に絶する難行苦行の猛烈な修行を重ねて仏法を感得する。法然の旧跡を慕って、44才から60才まで、勝尾寺の松林庵に居を置き、諸国を巡錫する。彼が書く南無阿弥陀仏の六字名号は蔦文字と呼ばれる独特の書体で、世人から尊ばれ、全国には千基に近い名号碑が残っている。諸大名の奥方・大奥の女中衆たちに多くの信者を持った。
<註>浄土思想の系譜
・証如(〜866)が初めて浄土信仰を唱える。
・空也(903〜972)が民間に浄土信仰を広める。
・源信(942〜1017)が往生要集を著す。
・良忍(1073〜1132)が融通念仏を唱える。
・法然(1133〜1212)が浄土宗を開く。
・親鸞(1173〜1262)が浄土真宗を開く。
・一遍(1239〜1289)が時宗を開く。

○大正4年10月10日、博士が来遊の時の、母堂(シカ)への孝養の様子に感激した料理旅館「琴の家」の女将の妹南川光枝が私財を投げうち、市(町)民からも浄財を集めて昭和30年11月に作った。
「琴の家」は今も残っているが、不動産会社の保養所になっている。
○その日、博士の一行は大阪城を見物し、途中茶屋で一服した後、箕面に向かった。母親のシカは、足が遅いし、茶の湯の作法も知らないからと、一足先に「琴の家」に到着した。琴の家の女中は、この田舎者らしい老婆を、今夜主賓の博士の母とは気付かず、玄関脇の控部屋に通した。やがて、博士一行が到着し、それと知って、女将は平身低頭して恐縮したと云う。
やがて料理が運ばれると、博士は自ら箸をとって料理を母の口に運び、人目を憚ることもなく、懸命に母に給仕することに余念がなかった。その姿に舞妓の八千代は、涙が溢れるのを抑えるることができず、そっと席を外して、ハンカチで眼を拭ったと云う。
○その話を聞いて心を打たれた女将の妹の南川光枝は、自分が所有する土地を処分して50万円を作り、心ある人たちにも募金を募って、250万円で、琴の家に近い高台の上に博士の銅像を建てた。昭和30年11月である。野口英世はすでに昭和3年にこの世を去っていた。アフリカのガーナで黄熱病の研究中に感染し殉職したのである。
○銅像は横浜で造られ、川西まで汽車で、そこから牛車で箕面まで運ばれ、そして、箕面の駅前からは紅白の綱を子供たちが曳いた。
○ちなみに、2004年から発行された新しい1000円札には野口英世の肖像が用いられる。
<註>野口英世、(明治9年〜昭和3年)福島県生まれ、幼名は清作、幼い日、囲炉裏に落ちて手に大火傷をした。

石子詰めは罪人を生きながら穴に入れ、その上に小石を入れて埋め殺す刑罰で、中世、血を見ることを嫌った社寺で私刑として行われた。箕面滝道にある石子詰めの地名が、瀧安寺で実際に石子詰めが行われた跡なのか、それとも、ヒビの入った岩石が地表にむき出しになっているので、石子詰めの跡と考えられただけなのか、どちらとも云えない。
【全国で見られる石子詰め伝説】
(1)奈良菩提院の三作(みのさく)石子詰め伝説
最も有名な石子詰め伝説である。興福寺の南の道を東に入った菩提院に寺子屋があり、ここで、興福寺の稚児の三作が習字の手習いをしていると、春日神社の鹿が来て紙をくわえたので、追い払おうと「けさん」(文鎮)を投げると、運悪く鹿の急所に命中して鹿が死んだ。神鹿を殺した者は石子詰めで処刑されることになっていたので、まだ13才だが、死んだ鹿と一緒に石子詰めで生き埋めにされる。寺ではその供養のために、その年齢にちなんで、明け七つ(午前4時)と暮れ六つ(午後6時)に、合わせて13の鐘を突く。(これを十三鐘と云う)
(2)高野山奥の院の蛇柳(じゃやなぎ)
高野山の奥の院に石子詰めの処刑場の跡がある。縛った罪人を深い穴の中に立たせ、一枚の筵を頭に被せて石や土を放り込んで生き埋めにしたが、処刑は必ず深夜に行われ、その際、傍らの蛇柳に灯明がかかげられたと云う。いま、そこには蛇柳供養塔が建ち、周囲には通常の柳が4本植えられている。
高野山領75ケ村を代表して、高野山による過酷な年貢取り立てを幕府に直訴した島の村の庄屋戸谷新右衛門を、享保7年、報復のために石子詰にした話が伝わっている。
(3)岡山県吉永町八塔寺の五輪塔石小詰めの塚
村に疫病が流行し大勢が死んだ時、たまたまやって来た行者が、村人を救うために自分で穴を掘って入り、村人に石子詰めにしてもらった。今、その跡に五輪塔が立っている。
余りにも道が細く、危険で通れなかったので、中国の人がここから引き返したとの伝承がある岩である。
河中に落ちている巨石や、頭だけを残して地中に埋まっている昔の標柱などが、昔は険阻な路であったことを偲ばせる。
【伝説】
次のような伝説が役行者御伝記図会に載せられている。
時は嵯峨天皇の頃、京の都にやって来た百済の役人(その頃百済は既に滅亡して存在しなかった筈だが)は、何を見ても唐と比べて小馬鹿にした。案内人が比叡山に連れてゆくと、唐の五台山に比べると規模が小さいので、伝教の法力も小さかろうと侮った。他に霊場はないかと云うから、鞍馬か愛宕を案内しようかと思ったが、どうせ何か云って侮辱するに違いないと考えて箕面へ連れて来た。役行者が滝の上の龍穴に入って龍樹菩薩から法を受けたと説明すると、滝など子供の水遊びではないかと侮ったが、でも龍穴は見たい云った。滝道を進んで行くと巨石が道をふさいでいる。案内人は、その岩角をするりと通り抜けたが、百済の役人は足を踏み外しそうなので、岩の上を越えてえて行こうとした。そして、岩に登ろうとしたが、岩から転げ落ちてしまう。三度試みて三度失敗し、遂に諦めて引き返すことにした。そして、滝を見ることもなく京へ帰っていった。
【真実は】
「とうじん」は恐らく「刀刃」で、「守護使不入」の意味であろう。役行者が箕面を去る時、滝を護るために、地中からこの岩が湧き出たと云う伝承が、このことを暗示している
【滝の後退】

箕面大滝は数十万年前に滝道の入口の近くに出来たが、次第に岩石が浸食されて後退してゆき、輝緑凝灰岩(緑色岩)と云う固い岩に行き着いて、ここで後退が止まっているのである。
なお、石澄滝と如意谷の滝(今は存在せず)も、箕面大滝と同時期に出来たが、石澄滝は早々にチャートと云う固い岩に遭遇して後退が止まり、如意谷の滝は固い岩がなく、才が原池まで後退して滝がなくなったものと見られている。
【滝の落差】
現在の箕面大滝は、駅から約2.8kmの場所、滝の落差は33m、滝見橋の標高は約200m、標高83mの箕面駅前からの標高差は約120m、
【3つの滝】
箕面大滝の上にもう2つ滝がある。、瓔珞(ようらく)滝と雄滝である。そのために、大滝は雌滝とも呼ばる。しかし、現在、瓔珞滝は砂防ダムとしてコンクリートで固められてしまっている。
なお、瓔珞とは菩薩像などが着けている装身具で、珠玉や貴金属に糸を通して頭、頸、胸にかけるネックレス状のもの。この瓔珞滝は大日如来の瓔珞であると云われている。恐らく、細い水流が幾筋も簾のように見られたのであろう。
【左岸大崩落】
昭和47年、滝の左岸は地滑りで大崩落した。それ以前は滝は日蔭で薄暗かった。
【後藤夜半の句碑】
滝の左側。「滝の上に水あらわれて落ちにけり」 水の心になって作られた秀作である。募集で首席になったもの。
【頼山陽の詩碑】
文政12年(1829)10月、頼山陽が母を伴って訪れた時の漢詩
【上方落語「蛇含草」】
上方落語「蛇含草」の中に箕面滝が出てくる。



○中の坂
巡礼道との交点に、大井堰水路の分水堰と徳本行者の六字名号を刻んだ道標
○聖天宮西江寺
○一の橋
昔は、ここから瀧安寺まで山腹の道を辿ったが、明治19年に地元民によって、現在の川沿いの道が新設された。
○聖天橋
○大阪府営休憩所「梅屋敷」
明治43年頃に作られた府営の茶店で、ここで全国素人囲碁大会が開かれ、碁会所の発祥地となっている。老朽化しため撤去されることになっていたが、市民の要望により、平成18年に修復された。
○夫婦橋(二の橋、三の橋)、躑躅原
この辺りにはツツジが多かったが、日当たりが悪くなり今は絶滅。
○森秀次像
明治28年より大阪府会議員、明治37年より衆議院議員、大正15年没。府会議員の時に箕面公園の設立に奔走し箕面公園の生みの親と云われる。題字は浜口雄幸。像の後ろのシホウチク(四方竹)は珍しい。
○時雨
○箕面断層の露頭
前に野村泊月の句碑。
○昆虫館(ここには昔、駐在所があった)
約2600種、9500点の昆虫標本が展示され、蝶の飼育も行われている。箕面は北方系の昆虫と南方系の昆虫の両方が見られる場所で、昆虫の宝庫。日本の著名な昆虫学者は、殆どが箕面で研究をしている。前の川にはカワムツが棲息。
○紅葉橋
化石谷への入口
○滝安寺・瑞雲橋
○楓橋
○野口英世像と琴の家
○落合谷・落合橋
谷は前鬼谷と後鬼谷の2つに分岐する。(ただし、どちらが前鬼谷で、どちらが後鬼谷なのかは定かではない)

○鶴島橋
ここから地獄谷へ入る。
○姫岩
鶴島橋を渡って地獄谷の入口にある縦に二つに割れた岩。
○修行の古場(しゅげのこば)
○天狗の鼻
対岸の地形が半島状で、山の上から見ると紅葉時は赤い天狗の鼻のように赤く見えるので、この名がある。ここに昔は茶屋があった。対岸(左岸)の鶴島橋〜戻岩橋間は中の千本と呼ばれる。
○長左衛門谷
リョウメンシダの群生地
○石子詰
○唐人戻り岩
○戻岩橋

○大門橋
滝の付近に瀧安寺があった頃の山門のあった所。
大門橋から滝までの道の山側には、人里にしか生えぬ彼岸花が咲くのが見られる。これは、滝の近くに寺があった頃の名残である。
○釣鐘渕
深い青色をたたえた渕で、一世代前の滝壺
○水難救助で殉職した警官(合田百一)の碑
箕面川はダムが出来るまでは暴れ川で、しばしば増水した。
○滝見橋
標高200m。赤い橋。
○一目千本
滝から滝の上に上がる坂を千本坂と云い、ここの紅葉を一目千本と呼ぶ。
○杉の茶屋
この辺りは昔は猿の餌付地。人間はフェンスの中から猿を見た。現在も野猿管理事務所がある。ここから雲隣台に上る道の谷は猿平と呼ぶ。昔はここに約50mの大滑り台があった。
○珱珞(ようらく)滝
今は砂防ダムとしてコンクリートで固められて失われている。瓔珞とは菩薩像などが着けているネックレス状の装身具であり、この瓔珞滝は大日如来の瓔珞であると云われている。恐らく、細い水流が幾筋も簾のように見られたのであろう。

○大日橋・百年橋・雄滝橋
○雄滝
川の中の3m程の落差。ここの岩には、役行者の錫杖と下駄の跡と云われる穴がある。
○八天石蔵の一つ西方大威徳明王の石蔵
○政の茶屋
高山から箕面へ行く道の中間地点。ここで、恋人(下新庄の多吉)に逢いに行く高山の娘「お政」が、横恋慕した村の男に殺されたので、ここを政の坂と呼び、そこに茶屋があった。馬頭観音を刻んだ道標もある。八天石蔵の一つ西方大威徳明王の石蔵もある。
○ばばたれ道
政の茶屋から箕面へ向かう急坂では、荷を積んだ牛も足を踏ん張り、力のあまり糞をするのが名の由来。
○東海自然歩道の西の起点
明治4年に東京の高雄と大阪の箕面とが、我が国最初の公園地となったので、昭和42年、明治百年に、この2つが明治の森国定公園となり、2つを結び東海自然歩道が作られた。

・昭和29年、大阪市立大学の川村俊蔵教授(日本霊長類研究の創始者の一人)が箕面の野生猿の餌付けに成功する。
・昭和30年、滝の上に自然動物園を開園
・昭和31年、天然記念物に指定される。
・その後、個体数が増加し、次第に観光客に被害を与えるようになる。
・昭和51年、自然動物園を廃止し、猿を人間と分離することにし、餌付け場を西の山中に移し管理員を配置する。
・その後、猿を自然に返すために、猿の食餌となる樹木を国有林に植える。

○野生猿に餌付けした野猿公苑は全国的に非常に数多いが、天然記念物に指定されているのは、
| 幸島 |
宮崎県串間市 |
1934年指定 |
| 高崎山 |
大分県別府市 |
1953 〃 |
| 箕面山 |
大阪府箕面市 |
1956 〃 |
| 高宕山 |
千葉県富津市 |
1956 〃 |
| 臥牛山 |
岡山県高梁市 |
1956 〃 |
| 下北半島 |
青森県 |
1970 〃 |
【その他の哺乳動物】
○鹿=滝道の右岸で見掛けることがある。山の中に入ると、リョウブの木の幹が鹿によりめくられている。北摂には約300 頭の鹿がいると云う。「鹿に紅葉」は10月の花札の絵柄
○猪=山の中で猪が土を掘った跡をしばしば見掛ける。滝道 より東の山ではヌタ場も見掛ける。
○他に=キツネ、タヌキ、イタチ、テン、リス、ウサギ、モグラ、 ネズミ、
【大阪府の墓地公園計画】(国定公園誕生前夜)
・昭和41年4月、大阪府は、政の茶屋〜勝尾寺の間に墓地公園を計画かるが、この場所は、日本三大昆虫生息地、シダ類の宝庫、野鳥観察最適地
・箕面生物学研究会、日本自然保護協会などは猛反対
・12月、アセスメントを委託されていた大阪府大の調査団との意見交換会は激論
・突如、翌年1月、厚生省・農林省より明治の森国定公園の計画が発表され、自然は護られ、墓地公園は現在の北摂霊園の場所に変更される。
【明治の森箕面国定公園】
・昭和42年(1967)明治百年記念事業として、東京の高尾山と共に指定される。 (明治4年に高尾と共に我が国最初の公園地となったことによる)(明治元年は1868年)
・面積=963 ha、植物=約1300種、昆虫=約3500種、
<註>国定公園
国定公園は国立公園に準ずる景勝地として環境庁が指定するもので、管理は所在地の都道府県。現在全国で55。
(自然公園は、国立公園28、国定公園55、都道府県立自然公園307)
【箕面ビジターセンター】
・大阪府営、昭和43年(1968)に開設
・明治の森箕面国定公園の内容を説明するのが目的
【東海自然歩道】
・厚生省が計画し、昭和45年(1970)着工、昭和49年(1974)完成、
・総延長1697km、11都道府県を通る。東西の明治の森国定公園を起点とする
・真言宗応頂山勝尾寺、西国三十三番観音札所の第23番、

・古くは勝尾山寺と呼ばれ、弥勒菩提院、弥勒寺とも呼ぶ。
・開山は光仁天皇の御子開成皇子、開基は善仲・善算法印
・創建は神亀四年(727年)、本尊は十一面千手観音
【勝尾寺古流記による縁起】
・神亀4年善仲・善算の両上人が草庵をを結ぶ。
・天平神護元年、後の峰で開成皇子が修禅する。
・皇子は両上人によって剃髪染衣する。
・両上人は大般若経六百巻の書写を皇子に託して入滅する。
・皇子は宝亀6年、書写を終了、六角堂を建立し収納。
・宝亀11年妙観比丘が来て観音像を刻む。これが本尊。
【沿革】
・第四代座主証如が念仏信仰を本格的に確立する。
・第六代座主行巡が清和天皇の病気平癒を修し、天慶4年天皇が勝尾寺に臨幸。この頃、総持寺の別院となる。
・源平合戦の時、源氏の軍の侵入により焼失するも再建。
・境界論争が起こり、寛喜2年、?示八天石蔵を作る。
・寛元3年、坂本大鳥居建立、宝治元年、町石を建立。
・鎌倉時代末期、急速に、僧兵による武装化。
・建武中興では宮方につき、総持寺領(浄土寺門跡領)の美河原、外院、高山の領有を主張するが果たせず。
・足利尊氏より高山荘の地頭職を得て、足利勢となる。
・太閤検地により、寺領は7石に転落。山林300町は安堵。
・元和2年、堂塔を焼亡、豊臣秀頼の寄進により再建。
・延宝の頃、真言宗高野山釈迦文院を本寺とする。
・明和3年、再び大火、再建は遅々として進まず。
・寺院経営のため、寺領山林を乱伐・売木し山林は荒廃。

【行巡】
・清和天皇は勝尾寺第六代座主行巡が法力に優れていると聞き、藤原佐道を勅使とし宮中に招こうとするが、応じない。
・佐道が「普天の下、率土の浜、王土王臣にあらざるなし」と、王命に従うように迫ると、行巡は棒を立て、その上に座す。
・念珠と袈裟を献じ、天皇の病は平癒する。
・天皇は勝尾寺に臨幸。行巡は古参道の対面岩なる大石の所で、天皇を迎える。
・かくて、「王に勝つ」と云うことで「勝王寺」の寺号を賜ったが、それでは恐れ多いと云うことで「勝尾寺」とした。
(勝王寺が転じたとするのは伝説に過ぎない。勝尾の「尾」は尾根の意味で、勝尾は最も秀でた尾根の意味である。勝尾寺の裏の山を「最勝ガ峰」と呼び、その山並みは「最勝尾根」と呼ばれる)
<註>清和天皇
平安時代中頃の天皇、生後9ヶ月で皇太子になり、9才で天皇となる。27才の時に、まだ9才の陽成天皇に譲位して上皇となり清和院に住むが、やがて落飾して仏門に入り、山城・大和の山林寺院を回り、摂津の勝尾寺を経て、丹波の水尾に至る。この水尾を終の棲家と定め、31才で没す。、
<註>西国観音霊場三十三個所巡礼(勝尾寺は23番)
・徳道上人=伝説では、奈良時代に長谷寺の徳道上人により 始められたと云う。
・花山法皇=18才で退位し出家した花山天皇が巡礼を中興し たと云うが、これも後世の仮託である。
・行尊と覚忠=平安時代末、三井寺の大僧正行尊、および覚 忠が巡礼したのが三十三個所巡礼の最初である。ただし、 順路は現在とは異なっていた。
・その後、江戸時代に入って次第に現在の順路が確立してい った。(那智山青岸渡寺を1番、美濃谷汲寺を33番とする)

【傍示八天石蔵】
寺域の境界を明示するために、周囲の8個所に、4体の天王像と4体の明王像を埋めた。像は信楽焼の陶器の壺に納めて埋められ、その上に石を積んで3段の壇にしてある。国の重要文化財になっている。
多聞天王
持国天王
増長天王
広目天王 |
丑寅方
辰巳方
午未方
酉戌方 |
降三世明王
軍荼利明王
大威徳明王
金剛夜叉明王 |
卯方
午方
未申方
亥子方 |
【町石塔婆】
西国街道の石造の大鳥居から、古参道に沿って山門までの間36町に、1町(約109m)ごとに、山門までの距離を示す標識が36基作られている。

山門の下乗塔婆から、勝尾寺前山(陣場山)の七町塔婆までの間の8基は鎌倉時代の宝治元年建立の、我が国最古の町石で国史跡。五輪塔形式で下部の地輪に梵字、町数、願主を彫る。多くには若干の破損があるが、一町と二町とのみは完全な形で残っている。
これらよりも南の29町の間のものは、江戸時代に大坂淡路町の小嶋屋長左衛門、もしくはその後室の寄進。これらも、多くは失われ、現存するのは、次の13基(10町、17町、19町、22町、23町、26町、27町、28町、30町、32町、34町、35町、36町)
【開成皇子の墓】
勝尾寺背後の山の頂にある積石塚。
中央に、鎌倉時代の元亨4年(1324年)5月18日に追善供養のために建てられたことを刻んだ宝筐印塔が立っている。
【萱野家の出自】
中世末期、箕面平野に発生した国人(地域的な在地領主)は粟生氏と萱野氏である。いずれも小勢力のため池田氏の配下となっていたが、池田勝正が荒木村重により追放されると村重の配下となる。村重が織田信長に謀叛し滅亡した時、萱野氏は逃れて美濃に隠れる。江戸時代に入ると、美濃出身の旗本大島氏に仕え、大嶋氏の所領椋橋荘(豊中市大島町)の代官となって箕面に帰る。
【三平の経歴】
萱野三平重実、父重利の三男として、延宝3年(1675)萱野村に生まれる。父は美濃出身の旗本大嶋出羽守に仕え、その所領の椋橋庄の代官を勤めていた。
三平は13才の時、大嶋出羽守の推挙で、播州赤穂五万三千石の浅野家に仕官し、内匠頭長矩の中小姓となる。
【赤穂への早籠】
主君浅野内匠頭長矩は元禄十四年、江戸下向の勅使接待に当たり、 礼式指南役の高家筆頭吉良上野介義央の侮辱を受け、江戸城中の松の廊下で義央に刃傷に及ぶ。
刃傷事件は三月十四日の九つ前(午前十一時頃)に起きる。 この事を藩地赤穂へ急報するため、萱野三平と速水藤左衛門は、その日の午後

、鉄砲州の浅野家上屋敷を出発し、早駕篭を乗り継いで赤穂へ向い、十九日の未明に赤穂へ到着する。 その間、四日半、五日五夜。通常なら十日以上もかかる道程を、その半分以下で走り通した。 二人は疲労困憊して息も絶え絶えで、城代家老大石内蔵助の邸にたどりつく。
【母の葬儀】
その途中、十八日、西国街道を西へ急ぐ早駕篭が、街道沿いの萱野村の、三平の生家の前を通過する時、 はからずも、三平の母「小まん」の葬式に出会うが、主君の御用にあるために、 泣いて手を合わせながら、そのまま駕篭を急がせた。
【三平の自刃】
後に、三平は同志と合流するために江戸に上ろうとするが、 その意図をさとった父重利は、大島家に迷惑の及ぶことを考えて許さない。 三平は忠孝の板挟みになり、翌元禄十五年一月十四日の主君の月命日の日に、自宅の長屋門の一室で自害する。 時に二十七歳。

辞世の句「晴れゆくや 日ごろ心の花曇り 涓泉」 涓泉は彼れの俳号である。彼は、当時名前の知られた俳人の一人でもあった。
大石内蔵助以下四十七人の同士が、江戸は本所松坂町の吉良邸に乱入し、義央の首を挙げたのは、それから十一か月後の元禄十五年十二月十四日。
【涓泉亭】(けんせんてい)
彼の生家は、明治に入って他所へ移築され、長屋門と土塀の一部のみが残った。現在、箕面市が保存し、彼の俳号にちなんで、 涓泉亭と名付けている。
【三平の墓】
彼の墓は三平の死後38年目の元文5年(1740年)に、甥の北河原長好(三平の姉「おとら」の子)と兄の孫萱野重好によって建てられた。
墓は以前は村の南の丘にあったが、現在は千里川沿いの共同墓地に移転している。
その文字は百拙元養の筆、墓誌は堀南湖の撰。いずれも江戸時代中頃の有名な文化人。これは、伊丹の酒造家であった北河原長好が、伊丹の領主近衛家煕を通じて、これらの人と交誼を結んでいたためとと思われる。
・箕面市域には、集落のはずれなどに、青面金剛と云う文字を彫り込んだ石塔が立っている。これらが庚申塔で、昔、箕面でも庚申信仰が広く行われていた名残である。

・60日に一度回ってくる庚(かのえ)申(さる)の日には、一晩中寝ないで徹夜をする。これを庚申待ちと云う。庚申の日と云うのは帝釈天の縁日である。これは、中国の道教に由来する習俗で、人の身中には三尸(さんし)と云う三匹の虫が住み、帝釈天の縁日の夜、人が眠っている間に、この虫がこっそりと身体の中から抜け出して天に昇り、その人の犯した罪を帝釈天に報告し、帝釈天はそれに応じて、その人の寿命を縮めるので、この夜は眠らないで、虫を抜け出せなくすると云うものである。
・青面金剛というのは、この三尸の虫を押さえる力を持った金剛童子で、青い顔で憤怒の形相をし、しばしば、三猿(見ざる、聞かざる、言わざるの3匹の猿)を従者とする。
・この習俗は平安時代に我が国に伝わり、江戸時代に全盛となり、明治になっても行われていた。本来は、この夜は眠らないで身を慎み、夜通し青面金剛をお祭りすべきなのだが、いつしか、夜通し飲み食いして騒ぐ風習に変わっていった。
・この青面金剛をお祭りしている石塔が庚申塔。これには、「庚申」「青面金剛」「猿田彦」などの文字を刻んだ文字塔と、青面金剛の像を刻んだ刻像塔があるが、箕面にあるものはすべて、「青面金剛」と刻んだ文字塔である。
<註>庚申バラ
庚申バラ(または庚申イバラ)と云われる野生のバラがある。正式名はロサ・キネンシス。中国原産で、赤紫に近い紅色、中輪、半八重咲き。冬も夏もなく年中隔月に(つまり庚申のある月に)花が咲くので、この名がつけられた。昔の人は「庚申イバラがもうすぐ咲くから、庚申様のお供えを作る準備をしなければ・・・・」などと云ったとか。
【青少年教学の森】
・昭和49年頃より計画し、昭和55年開所。この場所に民間で宅地造成計画があったので、箕面市が土地を買収し建設。
・キャンプ場3つが中心。テント、バンガロー、宿泊施設、会議場、星座観察スペース、キャンプファィヤー場、など。(隣接する炭焼きはシルバー人材センターのもの)
【六個山の物語】
・六個山の正式名は法恩寺松尾山。この山の南東斜面の森が教学の森。六個山と云う名は、この山が6つの村(平尾、西小路、桜、牧落、瀬川、半町)の入会山(複数の村が共同で持っている山)であったことによる。
・昔の農村の生活では、田畑と同じくらい山林も重要だった。農民は山で下草や柴を刈って燃料としたり堆肥を作る。柿、栗、茸なども採り、家を建てる木材、炭焼きの用材なども山から得ていた。
・ところが、この六個山の入会権をめぐって、江戸時代に訴訟事件が起きた。六個山の南麓に「ないら野」と呼ばれる芝地があった。川辺郡加茂村(川西市加茂)の吉田四郎兵衛(号は卜斎)と云う人が、元和7年(1621年)幕府の開発許可を得て、近隣の小農民を集めて大々的な開墾に着手し、ここに新稲村と云う新しい村を作った。
・しかし、この新稲村には、田畑は出来たが山林がないので、こっそりと六個山で柴を刈る。そのため、6つの村と新稲村とで争いが起こり、訴訟沙汰になった。
・結果的には、新稲村にも六個山への入会権が公認される。新稲村が勝訴したのは、小物成(年貢以外に納める雑税)を納めるから入会権を認めて欲しいと新稲村が嘆願したのに対して、6か村の方は本来納めるべき小物成をずっと滞納していたためである。
【北摂山地】
・箕面公園を含む北摂山地は、古い学説では、秩父古生層と云われる2億5千万年前以前の古生代の地層と云われていたが、新しい研究では、約2億年〜1億5千万年前のジュラ紀(恐竜が栄え、日本列島がまだアジア大陸から分離していない頃)に形成された「丹波層群」と呼ばれる、中生代の海成の付加体と云われるものである。
【千里丘陵】
・300万年〜30万年前の間、第三紀末〜第四紀初に堆積した「大阪層群」と呼ばれる地層によって作られている。
・約300万年前から瀬戸内に沈降地帯が生じて淡水湖ができ、さらに、これに海が進入するが、この沈降帯に土砂が堆積して生成された海成層が大阪層群である。厚みは大阪平野や大阪湾では2千米以上に達している。粘土層、砂層、礫層などが、火山灰層を差し挟みながら、幾重にも重なっている。
・市域東部の粟生丘陵も千里丘陵と同じ大阪層群によって作られている
【箕面平野】
・箕面の平野部は、北の北摂山地と南の千里丘陵から、大雨によって削られた土砂が堆積して出来た陸成の地層で

ある。川が運んできた土や礫によって出来ているので、石ころだらけで水持ちも悪く、農業には必ずしも適していない。こう云う土地を段丘礫層と呼ぶが、箕面では、その厚さは、深い所では7〜8mにも及ぶ。
○この3つの部分は活断層によって分割されている。(活断層が地形を作る。地形の境界には活断層がある)
箕面の平野部は、有馬高槻構造線(断層帯)が作った地溝帯である。断層帯は有馬の西から高槻の東部に至る約55 kmの間を走り、並走あるいは分岐する多くの断層線からなっている。箕面地域にある断層線は次の3本である。
@五月山断層

箕面平野の北を限る山麓を東西に走るもので、多くの支線を持っている。石澄滝断層、箕面断層、如意谷断層などが支線で、これらは北摂山地に北東の方角に刺さっている。箕面公園の昆虫館の手前にある断層の露頭は、この箕面断層が箕面川を横切った所に出来たものである。
A坊島断層
箕面平野の中央部を東西に走っているもので、長さはさほどでないが、横ズレが大きい。
B小野原断層(あるいは野畑断層と云う)
千里丘陵との境界を東西に走るもので、これは断層線が地表に現れず、北向きに落込む撓曲(活撓曲)となっている。
【活断層の活動=地震】
有馬高槻断層帯は過去約3000年間に3回活動している。
@約400年前、慶長元年(1596)の慶長伏見大地震。(秀吉の伏見城が倒壊した大地震) この地震により箕面地域は壊滅的被害を受けた。現在箕面に400年以前の建造物が全くないのは、この地震で、それ以前の建物が総て倒壊したため。
Aその前が、奈良時代〜鎌倉時代の間のある時。
Bその前が、縄文時代晩期の紀元前1000年頃。
平均間隔(活動周期)は、1000〜2000年程度である。
活動では、すべて右横ズレが起こり、1回のズレは約3mである。上下方向にも、横ズレの約1/10程度の変位。地溝帯の北側では北側隆起、南側では南側隆起を起こしている。
地震の規模はマグニチュード7.5前後であったと見られる。
@西国街道(東部)の道すがら
(茨木市域より)春日神社御旅所−楠水井戸(非公開)−飛脚与兵衛の泣き地蔵−小野原春日神社−大鳥居と町石−涓泉亭−萱野三平の墓−芝の高札場−(Aへ続く)
A西国街道(西部)の道すがら
(@より続く)−教学寺−牧落高札場−牧落八幡大神宮−半町本陣跡−瀬川神社−弁慶鏡池−牛回し−瀬川の坪−(池田市域へ)
B大坂道の道すがら
中の坂の道標−牧の荘の道標−郷土資料館−光明寺−郷倉と力石−牧落高札場−(豊中市域へ)
C箕面詣り道の道すがら
西小路八幡太神社−稲荷社古墳−桜ヶ丘洋風住宅街−阿比太神社−半町本陣跡
D萱野道の道すがら
中の坂の道標−平尾の北向地蔵−唐池公園−新池の庚申−箕面最古の道標−萱野中央(ヴィソラ)
E滝道の道すがら
中の坂の道標−西江寺−箕面断層露頭−昆虫館−瀧安寺−野口英世像−姫岩−戻岩−大滝
F巡礼道(中部)の道すがら
中の坂の道標−如意谷銅鐸出土地−如意輪観音堂−小鶴の庭−大宮寺跡−医王岩−白姫神社−シラミ地蔵
G巡礼道(西部)の道すがら
中の坂の道標−徳尾巡礼地蔵−新稲古墳−吉田家墓地−栄松寺−吉田家雪見灯籠(非公開)−一本杉と庚申塔−(池田市域へ)
H勝尾寺表参道の道すがら
勝尾寺−町石−軍荼利明王石蔵−対面岩−善福寺−帝釈寺−為那都比古神社−粟生外院の五字神社−新家春日神社−大鳥居
I余野道(摂丹街道)の道すがら
(豊能町域より)−願生庵と逆修衆石仏−止々呂美神社−薬師堂(豊楽寺跡)−日枝神社跡−止々呂美城跡−日月大高不動尊−(池田市域へ)
【箕面を開拓した高僧たちの墓所を訪ねて】
@役行者の墓を訪ねる(天井ケ岳コース)
箕面大滝−ようらく滝−百年橋−行者道−天上ケ岳の役行者の墓−堂屋敷跡−(五月山へ)
A開成皇子の墓を訪ねる(東海自然歩道コ−ス)
ビジタ−センタ−大威徳明王の石蔵−東海自然歩道西口−開成皇子の墓−勝尾寺二階堂−光明院七重塔−勝尾寺山門
○箕面の野生サクラ (バラ科サクラ属6種)
サクラ亜属
(花の美しい普通のサクラ) |
エドヒガン |
最も早く4月初旬に咲く。 葉の前に花が咲く。 |
| ヤマザクラ |
エドヒガンより少し遅れて咲く。葉と花が同時 |
| カスミザクラ |
最も遅く4月末頃に咲く。遠くから見ると霞のよう |
ウワミズザクラ亜属
(白いブラシ状の花) |
ウワミズザクラ |
ヤマザクラの終わった頃。花柄に葉がある |
| イヌザクラ |
ウワミズザクラから1週間後に咲く。花柄の下に葉はない。 |
| バクチノキ亜属 |
リンボク |
ウワミズザクラのようにブラシ状の花。常緑で花は秋 |
<註>
・染井吉野はエドヒガンとオオシマザクラの交配種。
・枝垂桜はエドヒガンの突然変異。
・全国の名木の古木は殆どがエドヒガン。
・八重桜(里桜)は人為的に作られた園芸品種
○箕面の野生ツツジ (ツツジ科ツツジ属4種)
| コバノミツバツツジ |
2〜3月、葉より花が早い。紅紫色の花、落葉樹 |
| モチツツジ |
5月頃、淡紅色、半常緑樹。芽や葉が粘々した毛で覆われる |
| ヤマツツジ |
赤色の花、常緑樹 。箕面では絶滅した |
| シロバナウンゼンツツジ |
4〜5月、白色の花、落葉樹 |
○箕面の野生ブナ科樹木 (ブナ科14種)
広葉樹林帯に属す箕面の山の優先的植生、ドングリの木。
| ○箕面で普通に見られるもの |
6種 |
アベマキ、アラカシ、ウラジロガシ、クヌギ、クリ、コナラ |
| ○箕面ではさほど一般的でないもの |
6種 |
アカガシ、イヌブナ、シラカシ、スダジイ、ツブラジイ、ナラガシワ |
| ○箕面では希にしか見られぬもの |
2種 |
イチイガシ、ツクバネガシ |
| ○栽植によるもの |
3種 |
ウバメガシ、カシワ、マテバシイ |
○箕面の野生カエデ (カエデ科9種)
| ○箕面公園の大部分 |
1種 |
イロハモミジ |
| ○箕面公園にあるが多くないもの |
1種 |
オオモミジ |
| ○箕面の奥地で見られるもの |
7種 |
コハウチワカエデ、ウリハダカエデ、ウリカエデ、チドリノキ、イタヤカエデ
(その変種→エンコウカエデ、ウラゲエンコウカエデ) |
<註>色づきのメカニズム
(紅葉) 赤色色素アントシアニンが出来る。葉緑素は分解する。
(黄葉) 葉緑素が分解し隠れてた黄色色素カロチノイドが表れる。
(褐葉) タンニン性物質が葉に蓄積する。