桂公爵の愛妾 お鯉

 
箕面観光ホテルの別館「桂」は、もともとは、明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら7人によって関西の財界人クラブとして建てられ「松風閣」と名付けられた建物であるが、明治・大正の間に総理大臣を3度も勤めた桂太郎が、愛妾「お鯉さん」を伴ってしばしば宿泊したので、人々が冗談口で「桂公爵別邸」と呼ぶようになり、その名が現在も、観光ホテルの別館の名前に残っているものである。
 では、その「お鯉さん」と云う名の女性は、どんな人物なのであろうか。

本名は「安藤照」、「お鯉」は芸者名である。しかし、芸者を辞めた後も、人々は「桂公のお鯉さん」と呼んでいたと云う。明治13年、東京四谷の漆問屋に生まれたが、生家が没落したので、6才の時に新宿の引手茶屋の養女となり、14才で花柳界に入り、新橋芸者となる。
やがて、歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められて結婚するが、結婚は失敗に終わって芸者に舞い戻る。しかし、江戸前の気っぷの良さとその美貌が評判を呼び、その姿が絵葉書に描かれる程の人気となり、新橋の「照近江のお鯉」として有名な存在となる。
明治37年、日露戦争の最中、総理大臣として戦争遂行に日夜心の休まる時もない桂太郎の身を案じた元老山県有朋は、桂に休息のゆとりを与えようと、かねてから馴染みのお鯉を桂に引き合わせる。ちなみに、山県有朋は日本陸軍の創始者であり、桂はその一の子分として山県の路線を引き継いだ人物である。
この時、お鯉は「玩具にされるのなら嫌です。芸者だって人間です。生涯のことを考えて下さるのでなければ御免を蒙ります」と答えたと云う。この言葉も気に入って桂はお鯉を愛妾にする。彼女は赤坂榎町の妾宅に移る。総理大臣官邸内にも「お鯉の間」が作られた。病弱で留守がちな本妻「加奈子」(もと名古屋の旗亭香雪軒の養女)に代わって桂の世話をしながら、日露講和条約締結のために桂や伊藤博文の苦労する様子を目の当たりにする。
やがて、小村寿太郎を全権大使としてポーツマスで講和条約が結ばれるが、その講和条件が日本側に不利であるとした民衆の怒りが沸騰し、遂に日比谷焼き討ち事件にまで至る。すなわち、右翼の巨頭である頭山満らが組織した講和問題同志連合会が日比谷公園で条約反対の全国大会を計画したが、警視庁が公園を封鎖したため、群衆は警察署・交番、教会や電車までも次々に襲って焼き払い、東京府下に戒厳令が布告された事件である。この間、首相官邸もまた群衆に取り囲まれ、お鯉の妾宅までが「国賊桂の愛人を殺せ」と叫ぶ暴漢に囲まれたが、この時26才の彼女は、死装束に薄化粧をして懐に短刀をしのばせ座敷に端座して毅然として耐え抜いたと云う。
大正2年、桂太郎はなくなるが、この時もお鯉は意地を立てる。遺産として月々200円を支給するから、節操を守り外出もみだりにはするなと云って来たのをお鯉は蹴って、「人を侮辱するのも甚だしい。私は誰の指図も受けるいわれはない」と答えたと云う。その後、カフェや待合いを経営するが、勝ち気な気性が警察とトラブルを起こし、ある事件では偽証罪で有罪となる。この時、彼女の身元引受人になってくれたのが、あの頭山満であった。 そして、彼の奨めによって尼僧となり「妙照尼」と名乗り、昭和13年、無住で荒れ寺となっていた目黒の羅漢寺の尼住職となる。
尼となった後も、彼女の周囲には政治家や財界人の出入りが絶えず、あたかも、政財界のサロンのようであったと云う。
そして、彼女は昭和23年、69才でこの世を去る。羅漢寺には、いま、縁結びの神として「お鯉観音」が祀られている。

<註>目黒の羅漢寺
 天恩山羅漢寺は元禄8年、黄檗宗鉄元の弟子の松雲元慶が、563体の羅漢石像を独力で刻みあげ、本所に寺を創建したのに始まる。将軍綱吉の生母桂昌院の後ろ盾で5千坪の境内を擁する大寺院となり、そこで毎年行われる大施餓鬼は東都歳時記に載る程に有名になる。しかし、明治42年に天災によって本所から下目黒に移り、長らく無住で荒れていた所へ、妙照尼ことお鯉さんが入山したのである。

<追記>明治快女伝
 森まゆみ「明治快女伝−わたしはわたしよ」は、50数人の明治期の女性を描き、その中の「横紙破りの人生」と云う分類の中に彼女を取り上げている。たしかに、彼女はその美貌と勝ち気、艶色と侠気によって、横紙破りの人生を送った人と云えるであろう。

<再び追記>市松人形
 テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」に、お鯉さん遺愛の市松人形(栄玉の作)が出されたことがある。(1997年11月18日放送)
 もとは、男の子人形と女の子人形の一対になっていたが、女の子人形はお鯉さんのお棺に納められたので、男の子の方だけであると云っていた。出品者の希望価格50万円に対して、鑑定価格は80万円であった。