兄 妹 結 婚

  
 兄妹の結婚は現代では民法によっても禁止され、社会的にもタブーとされているが、我が国では昔は必ずしもそうではなかったと云う話を書いてみよう。
 なお、本稿の内容は、別稿「塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察」と一部分重複している。

 
(1)異母兄妹婚
 
我が国の古代史の中には、同父異母兄妹結婚を数多く見ることができる。思いつくものの中で、主なものを挙げてみよう。
 仁徳天皇      
 仁徳天皇      
 隼総別皇子     
 履中天皇      
 敏達天皇       
 用明天皇      
 押坂彦人大兄皇子  
 押坂彦人大兄皇子  
 押坂彦人大兄皇子  
 藤原不比等     
 藤原房前      
 物部石上贄古連     
 八田皇女
 菟道稚郎姫皇女
 女鳥皇女
 幡梭皇女
 推古天皇(額田部皇女)
 穴穂部間人皇女
 田村皇女(糠手姫皇女)
 小墾田皇女
 桜井弓張皇女
 五百重娘
 片野
 御井夫人(布都姫) 

これは、当時は母系社会であり妻問婚の時代であったため、子はそれぞれの母の家で生まれ、かつ、それぞれの母の下で育てられていたために、母が異なると父が同じ兄妹でも、別の系統の他姓の人の如くに認識されていたためであると云われている。


 
(2)同母兄妹婚

 
しかし、それだけではない。父も母も同じである同父同母兄妹結婚と思しきものも幾つか見ることができる。



(イ)天智天皇と間人皇后

 舒明天皇は皇后宝皇女(後の皇極・斉明天皇)との間に葛城皇子中大兄(なかのおおえ)皇子、後の天智天皇)、間人(はしひと)女、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の三人の子を儲けた。間人皇女は軽皇子(孝徳天皇)の皇后となる。しかし、中大兄皇子と間人皇女とは相愛の仲であった。

 白雉二年の末、六年の歳月を費やして造営した難波長柄豊碕宮が完成し、孝徳天皇以下朝廷はここに移った。しかるに2年後の白雉四年には、皇太子中大兄皇子は天皇に、大和に都を遷そうと云い出す。もとより天皇は許さない。すると、中大兄皇太子は、母の皇極上皇、弟の大海人皇子、それに妹の間人皇后までをも引き連れ、群臣を引き具し、孝徳天皇一人を難波に残して勝手に大和へ移ってしまう。間人皇后は夫を捨て兄の方に従ったのである。この時、孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が、
「鉗(かなき)着け 吾が飼う駒は引出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」(厩の中から引き出しもせず、いつも棒に頚をつないで大切に飼っている私の駒を、人が見たことであろう)

 ここで、駒が間人皇后、人が中大兄皇子を指すことは明かであるが、これは、それだけの意味ではない。吉永登氏によると、この歌の中にある「見る」という語は、古代、男女の間で用いられる場合は「夫婦の契りを結ぶ」と云う意味であり、従って、この歌は、自分を捨てて、いま、兄中大兄に抱かれている間人への孝徳の怨みの歌であると云う。孝徳は傷心のうちに、翌五年、難波において没する。

 その後、中大兄は間人との間を結婚と云う形で表沙汰にすることは避けた。しかし、孝徳の没後、再び母皇極上皇が斉明天皇として重祚し、中大兄は引続きその後も長く皇太子のままでいたのは、天皇になると皇后を決めねばならないが、さりとて、間人を皇后にすることも出来なかったためであろうと吉永氏は推理している。

 少なくとも、中大兄と同母妹間人との兄妹相姦は当時公然の秘密であった。しかし、二人の関係は、他人の妻を犯したという意味で不倫(姦通)であり、スキャンダルではあっても、天も人も許さない禁忌を犯したものとして断罪されるものではなかったのである。
 


(ロ)木梨軽皇子と軽大娘

 允恭天皇の子の木梨軽皇(きなしかるのみこ)とその同母妹軽大娘(かるのおおいらつめ)(軽大郎女)との相姦はよく知られているところである。木梨軽皇子について日本書紀は「容姿佳麗、見る者おのずから感ず」と記して美男子であったと述べ、軽大娘についても「また艶妙」と記し美人であったとする。日本書紀は二人の相姦は露見し、軽大娘は伊予の国に流刑になる。木梨軽皇子は皇太子であったので罪せられなかったが、群臣の心は彼から離れてゆき、やがて允恭が没した時、穴穂(あなほ)皇子(後の安康天皇)に囲まれて自殺したと述べる。古事記は露見は允恭が没した直後のこととし、木梨軽皇子は穴穂皇子に囲まれて捕らえられ伊予の国へ流されるが、軽大娘は彼を流刑先の伊予まで追って行き、そこで心中自殺したとする。

 近親相姦を論ずる場合、この史談をもって、我が国においては古代より同母兄妹婚は禁忌であったと述べるのが一般であるが、私はこのような論には疑問を差し挟まざるを得ない。

 それと云うのも、木梨軽皇子を死に追いやった穴穂皇子自身が同母姉弟婚をしているからである。すなわち、古事記によると、穴穂皇子はやがて皇位につくと、父の異母弟の大草香皇子を殺して、その妃となっていた同母姉の長田大郎女を奪って皇后にするという挙に出ているからである。日本書紀の方は、大草香の妃であった女性を従妹にあたる中磯(なかし)皇女であったとして同母姉弟ではなかったようにしているが、そのために各所に不自然な点がちらついている。大草香皇子が同母妹(幡梭(はたひ)皇女)の娘(中磯(なかし)皇女)を妻とする不自然さは有り得ないことではないとしても、弟(雄略天皇)が兄(安康天皇)の妻(中磯皇女)の母(幡梭皇女)を妻とするという決定的な不自然さになっている。

 従って、私には、この話は穴穂による木梨軽皇子殺害と皇位継承を正当化するための意図をはらんだもののように思われる。木梨軽皇子と軽大娘が深く愛し合ったことは事実であろう。しかし、当時、五世紀頃は、同母兄妹の相姦といえども社会的地位を全て失うまでの強烈な禁忌ではなかったのではあるまいか。
 


(ハ)崇神天皇と御間城姫

 
我が国の古代史の中に、同母兄妹婚とはどこにも書いてないし、また、そうでないように記しているが、どうも、そうではないかと思われる事例が、崇神天皇(紀では御間城入彦(みまきいりひこ)五十瓊(いにえ)、記では御真木入日子印恵)と、その正妃(紀では御間城姫(みまきひめ)、記では御真津比売)とである。記紀はいずれも、姫を大彦の娘としている。大彦は崇神にとっては伯父に当たるから、これは従兄妹婚である。しかし、古事記は他方で崇神の父である開化天皇の段で、御真木入日子印恵と御真津比売を同母の兄妹としている。そして、大彦の子孫について記した孝元天皇の段の記述の中には御真津比売は記されていない。

 そもそも、同母の子たちには類似した命名が行われるものである。
 欝色雄(うつしこお)−欝色謎(うつしこめ)、伊香色雄(いかがしこお)−伊香色(いかがしこめ)、豊城入彦(とよきいりひこ)−豊鍬入姫(とよすきいりひめ)、狭穂彦(さほひこ)−狭穂姫(さほひめ)など、例示に事欠かない。これらから見れば、御間城入彦と御間城姫は同母兄妹に違いない。

 結局、記紀の編者は、同母兄妹婚を忌避しようとして作為しながらも、開化の子女の行において御真津比売の名を消し忘れて、馬脚を現してしまったものではないかと感じられるのである。そして、記紀が編まれた八世紀には同母兄妹婚は禁忌と感じられていたが、それを遡ること四百年前の四世紀には、同母兄妹婚もさほどの禁忌ではなかったのではないかと思わせるのである。
 


(3)民間における兄妹結婚
 
 兄妹結婚は古事記や日本書紀などが記す古い歴史の中にだけ見られるものではなく、民間に伝わる伝承の中にも見ることができる。



(イ)塞の神にまつわる伝承

 塞の神は集落の入り口にあって外部から邪霊が侵入することを防ぐ神で、現在でも、村境の道端に小祠で祀られているのをしばしば見かけることができる。この塞の神は中国の道の神「道祖」の観念と習合して「道祖神」とも呼ばれ、村落の入り口だけでなく、峠や橋のたもとなど交通の切所に祭られ、旅人の道中の安全を守る神とされている。また、この塞の神はしばしば男女二体の像で表され、夫婦和合の神であり良縁・安産・子育に霊験ある神ともされている。そして、その男女は夫婦であり、しかも兄妹であるとされている。

 大島健彦氏は、塞の神にからんで伝えられている兄妹結婚の民間伝承を全国にわたって採録しおり、その数は八十五例以上にのぼるが、それらの幾つかを記す。

 (a)群馬県勢多郡粕川村月田
 美男美女の兄妹がいた。二人はそれぞれに、夫婦となるにふさわしい相手を探すために国中を歩き回る。二人がいずれも探しあぐねて再び家に帰って来た時、求めていた相手というのは、実の兄であり、実の妹であることに気付く。そして、兄妹は夫婦となった。

 (b)栃木県上都賀郡栗野町上粕尾・下粕尾
 兄妹がいた。二人とも性器が大き過ぎて誰とも合わないので、相手を探すために、それぞれに諸国を歩き回ったが、結局どちらも良い相手が見つからなかった。そこで、兄妹同士で合わせてみたら、うまく合ったので夫婦になった。

 (c)岐阜県吉城郡宮川村中沢上
 ある双生児の兄妹がおり、兄は旅に出て行き、妹は女郎になる。幾年か後、兄が旅先で女郎を買いに行き、美しく気立ての良い女郎を見染めて通いつめ愛し合うようになり結婚を約束した。しかし、身の上話で二人が双子兄妹であることを知り、二人は渕に身を投げて心中した。その後、この地方では双生児が生まれると、二人を別々に育てて後に夫婦にしてやると云う。



(ロ)妹背島 

 兄妹結婚の話は我が国の古い物語集の中にもある。宇治拾遺物語の第五十六話「妹背島の事」、および今昔物語の第二十六巻第十話「土佐国妹兄、知らぬ島にゆき住めること」に、いずれも同じ内容で、土佐の妹背島の始祖物語として兄妹婚の話を記している。

 すなわち、ある夫婦が、自分の在所から遠く離れた浦に持っている田圃の田植をするために、小舟に稲苗、食料、農具、鍋釜などを乗せ、あわせて、兄妹の子供も家に残すことが出来ないので一緒に乗せて出かけた。そして、田圃のある村の海岸に舟を着け、子供たちを舟荷の番に残したまま、田植を手助けしてくれる人たちを集めに行っている間に、潮は満潮になり突風も吹き出して舟は沖へ押し流され吹き流されてしまう。やがて舟は南の沖の無人島に漂着する。帰るすべもない兄妹はそこで健気にも田を作り小屋を作って自活を始める。そして、兄妹は夫婦となり沢山の子供を作り、子孫が増えてゆくことになると云う物語である。

 現在、高知県の宿毛市に属する「沖の島」がその島であると云われ、その島の最高峰(四百四米)は妹背山と呼ばれている。


(4)いもせ

 このように、我が国では古くは、兄妹結婚は必ずしも禁忌ではなかったようであるが、このことを、さらに強く感じさせるものが、「いもせ(妹背)という言葉である。

 「いも」という語には、(1)女のきょうだい(姉・妹)、(2)妻、の2つの意味がある。「せ」という語にも、(1)男のきょうだい(兄・弟)、(2)夫、の2つの意味がある。従って、「いもせには、(1)兄と妹、あるいは姉と弟、(2)夫婦、の2つの意味がある。

 すなわち、我が国においては古い時代、兄弟姉妹と夫婦とは区別されることのない同一の概念である。
 記号論という学問が示すところによると、人間はそれぞれの事柄を区別する時には、それぞれに名前(記号)をつける。例えば、一日の連続した時間の流れを二つに分割して、それぞれに「ヒル」「ヨル」と云う名前をつけるのは、「ヒル」と「ヨル」とが区別されるべき別のものであると考えられているからに他ならない。区別する必要がなければ別々の名前(記号)はつけず、同じ名前で呼ばれる。従って、現在、兄弟姉妹と夫婦とが別の言葉で表されているということは、兄弟姉妹と夫婦とが区別されるべき全く別のものであると考えられているからである。しかし、古代において、兄弟姉妹と夫婦が別の語で表されるのではなく、どちらもが同じ「いもせ」と云う言葉で表されていたと云うことは、それらが区別する必要のない同じものであったと云うことに他ならない。このことは、現代では禁忌とされている兄妹・姉弟の間の性的関係も、夫婦間と同じように、何等妨げられるものではなかっことを示している。
 

(5)おなり神
 
 このような古い時代における観念が、姿を変えながら今もなお脈々と生きていることを思わせるものが、沖縄に伝わる「オナリ神」信仰である。
沖縄では、女性である姉妹を「オナリ」と呼び、男性である兄弟を「エケリと呼ぶ。そして、「オナリ」は「エケリ」を守護する霊力を持っているという信仰である。姉妹は兄弟の守護神である。従って、男が航海に出る時、そのオナリは自らが作った手帛(テサジ)や、あるいは自らの髪の毛を男に持たせる。

 小野重朗氏によると「おもろさうし」の中の恋歌十三首のうち、半数の六首がオナリとエケリの恋を主題にしたものであり、その中には、航海する船にオナリが美しい蝶になり、あるいは白い鳥になってとまり、その航海を護ってくれると云うものもあると云う。

 谷川健一氏は「日本の神々」の末尾の「あとがき」に、久高島におけるオナリとエケリの成婚の儀式の模様について報告している。それによると、「イザーホー」の祭で霊力(セヂ)を身に着けたオナリは、祭の後、家に帰り表座敷でエケリと向き合って座り、エケリと神酒の盃を取り交わし、庭先では神女たちが祝婚歌を歌う。それは夫婦の結婚の式と何等変わるものではないと云う。

 
(6)むすび
 
 兄妹の結婚は現代では社会的タブーとされているが、我が国では昔は必ずしもそうではなかったことを見てきた。このことに皆様はどのような感想を持たれるであろうか。私は何よりもまず、社会的タブーなどと云うものは、決して絶対普遍のものではないと云うことを思うのである。それと共に、兄妹婚の持つ不思議な怪しいまでの甘美さを思うのである。

掲載誌は、北河内地域文化誌「まんだ」70号、2000年11月、


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