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INTRODUCTION
はじめに

Beryl De Zoete & Walter Spies
『Dance and Drama in Bali』
p.1-p.45
1973(Reprint) Kuala Lumpur :
Oxford University Press
Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938
ratuayu
その1・ 2008年3月29日更新・ DDBHome
          
はじめに その2               p.7(33)〜p.11(23)
はじめに その3               p.11(24)〜p.16(17)
はじめに その4               p.16(18)〜p.19(25)
はじめに その5               p.19(26)〜p.22(7)
はじめに その6               p.22(8)〜p.25(17)


p.1から

   小さなバリ島はジャワ島のすぐ東に位置し、船でバリ島とジャワ島間の最長の距離を渡ると12時間、最短の距離ならば1時間未満である。バリ島の大きさはオランダの1/6ぐらい(脚注1:正確には2,095平方マイルであり、オランダ製以外の地図ではバリ島は判然とせず、インドネシアという列島に名もなく連なっている。さて、10世紀からバリ島はジャワ島とたいへん関係が深かった。著名な王として挙げられるアイルランガ(Erlanga, Airlanga)王はバリ島で生まれ、父はバリの王、母はジャワの王女であった。バリ島のタンパック・シリン(Tampak Siring)近くに存在する有名な『王の墓所』は、アイルランガ王の兄弟が埋葬された墓地であると信じられている。しかしかなり高い確率で、それよりもっと遡る頃には仏教僧やシヴァ派の司祭者たちがすでにバリ島に定住していたと思われるのだが、確かなことは次のことだけである。つまり、ジャワを経てバリに辿り着く過程で著しい変更もいくつか受けているのだが、ヒンドゥ文化やヒンドゥ教はジャワ経由でバリの人々の生活へ浸透したこと、そしてインドの神々や英雄たちはバリの神々や英雄になったということである。しかしバリがジャワに示す忠誠は、常に一定していたわけではなかったようである。当時のバリの王たちは自分たちの権利を主張し、ジャワへの貢物を拒否した。そのため定期的に彼らの反乱は制圧されたのである。それはジャワのヒンドゥ王朝中、究極にして最後のマジャパイト(Madjapahit, Majapahit)王朝が陥落してバリへ逃避し、バリの支配権を得る15世紀後半まで続いた。今日のバリでは人里離れた村ですら、マジャパイトという偉大な起源の名のヒンドゥ・ジャワ文化をわずかでも共有している。それはイギリスで名前もない塚を知っては、カエサル(シーザー)の野営跡地だと我々が思うことに似ている。バリ島と隣のロンボク(Lombok)島は、ジャワの歴史や文学が記録されたロンタル(Lontarロンタル椰子の葉に記述された古文書。訳註:貝葉「ばいよう」もしくは貝多羅葉「ばいたらよう」。乾燥させたロンタル椰子の葉の両面に鉄筆や竹筆で彫ったのち、墨の一種をすりこんだもの。一説によると、ロンタル椰子ではなくニッパ椰子を用いるともいわれる)を失わないようにし、ジャワ文化の恩義に報いる以上のことをしている。16世紀にはイスラムがジャワ島でうねるようにさっと広まり、ジャワではイスラムが公式宗教としその地位を徐々に固めていく。同時にジャワの人々は部分的に習慣を変更したに違いないはずだ。しかしジャワのイスラム化がバリの自治共同体へ影響を及ぼしたものは、2〜3の典型的なイスラムのロマンスをとりこんでバリの大量の伝説をさらに豊かにしたことと、ことによると自己防御を目的とした身体鍛錬(脚注2:p.252プンチャックPentjak, Pencakを参照)の秘伝を取り入れたかもしれないというほかには、極めて少ししかない。



 (p.2→)ププタン(poepoetan, puputan)として知られる非常に痛ましい『終末』事件を経て、オランダがバリ島の占領をやっと成し遂げたのは1906年のことであった(脚注1:Geoffrey Bles社から出版されたVicki Baumの新作小説『A Tale of Bali』を参照。『A Tale of Bali』は感動的な小説で、バリの習わしである『終末』の状況もきちんと記録している。 訳註:ヴィキィ・バウム『バリ島物語』金窪勝郎訳1997年 筑摩書房。なお梅田英春氏が執筆された同書収録の解説も、必ず一読されたい)。それからは自転車に乗った神が寺院の壁に彫刻され、農民が口を開けながら高速で空を飛んでいる飛行機を見つめ、西洋人風に装ったラクササ(rakshasa, raksasa 脚注2:ヒンドゥ教の悪魔)が旧式の車に乗って沿道に死を放散しているけれども、オランダの占領がバリの文化に及ぼした影響はきわめて少ない。すでに吸収していた外来文化よりもはるかに異質な西洋文明の影響が少ない原因は、バリに心血を注いだ少数のオランダ当局者たちの聡明さと如才なさのおかげである。



 バリは昔からある人々の間で、地上の楽園として有名であった。ある人々とは彼ら独特の、つまり彼らにとっての神々や自然と調和したユートピアのような生活を好む人たちのことである(脚注3:少なくとも、グレゴリー・クラウゼGregor Krauseの美しい写真集『Bali ; Volk, Land, Tanze, Feste, Temple.』が出版された1926年に遡る)。どの人もバリを訪れると強烈に豊かな感覚を経験するものだが、まるでその感覚へ返礼するかのように、ある旅人たちはそこにはない植物や動物や鳥で地面を覆い、空を満たそうとさえする。また彼らは世間に対して感傷的で、秘密のうちにおこなわれる熱狂的な儀礼の存在をほのめかしては、味気ない完成物へマスタードを添えている。当然ながら、筆者はそのような人々の一員ではない。さらに、バリに長く滞在したわけでもないのに「バリは損なわれすぎたので訪れる価値はない」と、婉曲的に言う人もいる。そのような人の言葉には「もしも遠くへ行けたのなら、さらにもっと遠いところ。たとえばメラネシア、ミクロネシア、ポリネシア、そして巨石文化のニアス(Nias)島、最後のドラゴン(訳注:コモド・ドラゴン)が住んでいるコモド(Komodo)島へ行きたかったのに」という意味が含まれている。そして彼らはこう尋ねるだろう、「毎年何千もの観光客が海岸に上がり、その観光客を乗せた車がカタログ化された数々の名所へ通じるけっこうな道を疾走し、観光客には観光客向けに特別にでっち上げられたobject d’art つまり『美術品』が提供されているというのに、どうやってこんなに小さな島が高潔な状態を保ち続けることができるのだ?」と。それについてはこう答えるしかない。バリの人々は自分たちに適さないものへ抗うためには抵抗をしないという方法を持っており、それは頑固に異議を申し立てるよりもはるかに効果を発揮する。それはバリの人たちがキリスト教伝道団たちに対応した例にはっきりと示されている。バリの僧侶たちからも無視され続けている2〜3のとても貧しい村に、キリスト教へ改宗した人が少数いる。ああ悲しいことに、それらの村に汚れた西洋風のシャツとブリキの屋根が見られるのはほんの少しではない。しかしバリの人々は自分自身の生活に対する関心があまりにも高いので、彼らの気をツーリズムの荒海でそらすことはできない。そのことについてはシャツや伝道団、ブリキの屋根に責任はない。



 バリは最後の楽園でもないし、失われた楽園でもない。バリは特有の才能に恵まれた種々雑多な人たちが住んでいる場所であり、バリの人々は素晴らしいユーモアの感覚と非常に磨かれたセンスを持っている。また、バリの人々は自分たちの伝統に関心を寄せている。そして何世紀にもわたって押し寄せ続けた外来文化の波のなかから、自分たちが望むものだけを得て、残りのものは放置することができたのは、人々の柔軟な精神に因る。先に述べたわずかな例外はあるが、バリの人々は残りのものをとても首尾よく見捨てているようである。やって来たかと思うとすぐに立ち去る旅行者たちは、バリのうわべをひっかくことすらない。(p.3→)実際にバリの各地を何ヶ月もかけて車で回ってみたとしても、それは各地を車で訪れたということにしかすぎない。しかし、車が通るような道路から全く遠くないところに素晴らしい一帯が存在するのである。ジャングルや山、湖や海岸。ある村から別の村へ通じる曲がりくねった小道は、太陽が照りつける広々とした浜を、途中で横切る。その浜では大勢の猿たちが、ロンタル椰子の金属に似た葉音をガチャガチャと立てている。あるいは、切り立った岩壁に挟まれた深い渓谷には滴りが落ちる。棚田状になっているサワ(sawah 脚注1:水が張ってある田んぼ)のつるつる滑る水際に沿ってそっと歩いていくと水浴び場や聖なる泉があり、さらに進んでいくと巨大なバニヤンの樹が岩に彫られた空洞を隠している。その空洞は僧院跡である。そして1つの小川を越えるとまた小川があり、そうやって何度も小川を越えていると、沿って歩いてきた水路が小川になっていることも時々ある。そのように、車が通る道からは近づきがたい村々のあいだに、バリの不変の往来がある。そして独特のとても手のこんだ活気を伴っている。



 しかし、そういったところよりもはるかに行きやすいところですら、バリの精髄は犯されていないままである。外来の影響の手が届かないところに、アラビア語を用いてアダット(Adat)と呼ばれる「村の慣習」が完全な姿で横たわっている。バリの人々の申し分ない丁重さと柔軟な社交性は、人々が祖先を祀る祠や家族たちと住んでいる敷地の外壁を飾る優雅な飾り房のようである。招かれもしていないのに個人の敷地へ入ろうとする闖入者を、バリの人々は無礼に拒否したりはしないだろう。そして闖入者は何も起こっていないと思うだろう。たとえその時はプライベートや共同社会に関する儀礼が行われていることがほとんどないとしても、バリの人には闖入者を友人として招く意思はない。



 世界中の多くの原始的な共同体では成人加入のぞっとするような儀礼がおこなわれ、内部の騒乱も漏らされているが、バリにはそのようなぞっとする成人加入儀礼は存在しない。バリの子どもたちは思春期を経て成人へと穏やかに成長し、性に関する態度はまったくあけっぴろげである。特定のムードでの重要なことは非常にはっきりとしていて軽やかなので、男性の思考は美女のことへ向かっているように見えるかもしれない。けれどもバリの人々は肥沃で魅惑的な土地にうっとりしながら呑気に住んでいるのではないし、バリの美しさは天から授けられたマントにように人々のもとへ贈られたものではない。人々はジャングルであった土地を棚田や寺院、そして村へと作り上げ、さらに或るものから別の或るものへといろんなものを作り上げ、それらがたぐいまれなほどに調和しているバリを作り上げた。そのことはバリそのものの特徴をよく示している。人々の生活は調和を実現しており、それは感じ方の表現にもみられる。そしてバリの人々は、生活を脅かす暗黒の力の存在を考えないことはない。それどころか、バリの人々はこの世界はあまりにも危険に満ちていると信じているので、危険をなだめるものや供物を常にささげることなしに、また儀礼や祈りも常におこなうことなしに人間が住むのは不可能だと考えている。そして供物のなかに舞踊がある。バリの舞踊は驚くほど込み入った美を具体化しているので、毎年たくさんの観光客が舞踊を見るためにバリへ来る。バリの人々は恐怖を無数のグロテスクな形や姿で、絵画や寺院の彫刻に外面化させる。そしてもちろん舞台上にも得体の知れない恐ろしい人物が登場する。しかしいつの間にかそれら登場人物の暗くて陰鬱な性質はすべて取り除かれているようである。バリの人々は勿体ぶった陰気な人たちではない。普段の生活でやかましくしゃべることは滅多にないし、感情をむきだしにして声高になることも決してない。それは勝敗を決定する闘鶏の重大な場面でも変わりない。ところが舞台となると、騒々しい喚声を上げて楽しむ。(p.4→)特に、墓場に住む非常に恐ろしい姿の人物を中心として展開する物語では、とても意匠を凝らした寺院の供物のパロディや司祭者的立場の僧侶のパロディとともに、肉体の寿命にしがみついている我々が、神聖なものと位置づけている未知への極端な不安のすべてがパロディになって、あふれ出ている。バリの人々は出産に対して下品になることもできるし、火葬をこのうえもない浮かれ騒ぎに仕立てることもできる。人々は我々が「神聖さを汚す」と呼ぶことも、しばしばやってのける。それはバリの人々にとって生活や人生のすべてが神聖なのであり、人生や生活の小さな部分だけが神聖ではないからである。さらに難解な人生観や生命観はその起源がどのようなものであれ、バリの社会や宗教に欠かせない。人々の生涯は宗教的枠組みにぴったりと適合しており、未熟なものや粗野なものも、すべてがなんとかして調和している。またカーストは重要であるが、バリでは暴君的なものではない。それはおそらくバリの人たちのうち少なくとも90%がジャボ(djaba, jaba)と呼ばれる「外の人」、すなわち高カースト以外の人たちで占められているという幸運な事実に因る。



 母親の子宮に生を受けたときから、はりぼての牛の子宮の中に亡骸を入れて火葬されるまでにわたり、バリの人々はそのように調和した生活を送る傾向にあるが、それはまた自然と人間の関係にもみられる。人間のどの体液も、どの知覚も、どの心的機能も、まるでテキスタイルの模様を構成する細部として組み込まれており、さらには地上や空のすべてのもの、すべての木、すべての植物、すべての動物も、テキスタイルの模様を構成する細部として組み込まれている。しかし、人々と自然環境のあいだで確かに感じられている調和を明確に示すことは不可能である。当然のことながら世界ではそれがいちばん自然なことであるのだが、我々には奇妙で普通ではないことのように思える。それというのも我々は景観や地形を乱すことなく住む術を失ってしまったし、植物や鳥たち動物たちという自然物の優雅さとともに我々は景観の一部となる存在であったことを失ってしまったからである。バリのものはすべて見事で入り組んでいて複雑であると同時に、シンプルでもある。神々は、建築・音楽・舞踊・花と果物で構成された供物といった明瞭な楽しみを享受する。途方もなく美しい供物の数々は、単純なものからこの上もなく精巧なものへと作り上げられたのである。バリを訪れた人は、供物たちが女性たちの頭上で順調に移動していくのを目撃するだろう。供物たちは女性たちの頭上に載せられて、背の高い緑色の稲に挟まれて人目につきにくい畦道を、くねくねと進んで行く。のちに寺院に着くと、供物たちは高い壁を巡らせた細い道をつくる。するとそこは鮮やかな色彩に溢れた小さな町である。バラエティ豊かなデザインと見事な創意に溢れた供物たちがモザイクをあしらったような壁をつくり、その上に高くそびえる金色の花の数々はキリスト教美術に見られるような光の輪(訳注:オレオール)を放っている。また、供物としてさまざまな色や形の米菓子もある。白や茶色の薄くて丸いウェハース状の菓子、椰子の葉で巧みに包装された小さな包み状の菓子、固めて乾燥させた雪のように白い色の菓子などである。寺院にはさらに椰子の葉で出来たいろんなデザインのストールが吊るされていて、それにはシュガー・キャンディーのようにひねってある砂糖菓子、ピンク色の模様をつけた円形の菓子、緑色と黄色のバナナ、ドリアン、きゅうり、ライムなどが放射線状に取り付けられている。ストールはまた、枝が伸びたろうそく立てのように、マリーゴールド製の放射線状に広がった飾りを載せている。鶏の丸焼きは鷲の如く羽を広げ、建築物のような供物の一部となっている。そして人間よりも背が高く、凍った噴水のように見えるものは、豚の白い脂身で作られた供物である。豚の腹の内側はいろんな形に細工され、傘や旗、掛け布で飾られている。それらの傘や旗、掛け布はところどころ透き通っているが、それらもまた豚の極めて薄い網脂を用いて作られたものであり、上方や丸い縁には脂身の塊が串状のもので留めつけられている。その冷やりとする珍しい繊維に鮮やかさをもたらしていたのは、少量の緋色と緑色の唐辛子であった。しかしこれらはすべて、つかのましかその素晴らしさを保てない。それにもかかわらず、バリの女性たちは気取ることもなく人目を引くこともなく、家の中で日々平凡に行う創作の一環として、普通のものをあれらのスケールが大きいものへと作り上げた。そしてどこにでも、あの混ざり合いがあり、あの単純なものとの入れ替りがあり、あの精巧さがある。(p.5→)ところで普段は下半身にコットンの布を巻きつけているバリの人々は、優雅さも兼ね備えたとても豪華な衣装を着ることがあり、よく似合っている。そして踊り手は豪華な衣装を着て、たいへん単純な行為ととても複雑で洗練されたジェスチャーが組み合わさった舞踊を、優雅かつ精巧に踊る。幼い少女たちは金色の小さなアイドルといった趣でレゴン(Legong)を踊り、驚くほど洗練された態度と複雑に展開する技量を見せる。しかしその幼い少女たちは踊る少し前までは上半身裸で地面に座って互いにシラミを取り合っていたか、他の子どもたちと同じように何かの作業へ適切に携わっていたらしい。



 バリの人々の生活から1つの側面を分離するという愚にもつかない考えは、はっきりしない区別がバリには存在しないことを意味し、1つの活動をわざとらしく目立たせてしまうことになる。西洋では活動や行動を細かく分ける。たとえば1日をお決まりのように細かく分割し、1つの活動がほかの活動を侵犯しない。ダンサーはダンサーであって、大工ではない。またダンサーが俳優と混同されるべきではない。しかしバリではその反対である。西洋の我々が守らされている時間の流れというものは、バリの人々の感覚に一致しない。1時間がねちねちとした特性で他よりも抜きん出ていることはない。そしてまた我々が舞踊とみなす、人々の活動でもそれは同様だ。バリの踊り手は漁師であるかもしれないし、木彫り職人や金細工職人であるかもしれない。あるいはかなりの確率で、サワ(sawah 田んぼ)で働いているかもしれない。しかしバリの人々に関して我々が強い印象を受けたのは、人々の肉体美もさることながら、動きや動作のために人々が舞踊の特別な勉強に専念することは明らかに許されているということである。次に、バリの人々は非凡なまでに可塑的な才能に恵まれており、動きを描写する能力は表現媒体が石であろうと鉛筆であろうと舞踊であろうが、どれも一様に驚くほど素晴らしい。またどこにいても、たとえば仕事をしていない時や仕事をしているとき、家で座っているとき、市場や寺院にいるとき、車が通れるような道を歩いている時や曲がりくねった小道を歩いているとき、水流に供物を供えようと川の中の岩の上で無防備に座り込んでいるとき、重い荷物を運んでいるとき、放水口の下で遊んでいるとき、椰子の木を切り倒すとき、上部を切り倒した振動でまだ揺れている椰子の木の高くて狭い部分に1人で立っているときなども、バリの人々は周囲や環境と見事に調和しているうえに身のこなしがとても優雅なので、我々は舞踊を見ているような印象を持ちそうになる。



 バリの子どもたちの四肢は幼少期から鍛えられ、申し分なく体が柔軟になるよう促されているのは確実である。さらに毎日の田畑での仕事が子どもたちを丈夫にする。そしてバリの人々の日常に、我々が予期できないような機転を働かせた動きと洗練された動きがある。険しく滑りやすい道では農民が私の手を握り、転ぶことのないよう正確に私を支えてくれる。そしてちょうど良い頃に私の手を離してくれるのである。おそらくバリの人々には、我々が意味するところの思考や知的見識はほとんどないだろう。その逆に、身体が認知する能力は非常に幅広い。バリの人々がどこかで四肢をゆるめることは各人や各状況にふさわしい生き生きとした動作の表現であり、その表現方法は本能的であるとともに記憶されているものなのである。繊細な等級づけができる評価や好みは、共同体の身体行為にも存在し、当然ながら舞踊にも関与する。しかしそれは舞踊そのものではない。我々の文化がしきたりや儀式的な行為を消そうという傾向を持つばかりに、バリの人々の普通の動作に見られる完ぺきなテンポや小節(単位)・転調(抑揚、調整)が、我々には舞踊としての質を持ち、体の各部からなるバランスを意識して演出しているように見えるのである。(p.6→)バリの人々は女性たちが頭上に供物や6フィートにも及ぶ多量のココナッツをのせて運ぶ様子を見て面白がるだろうが、その女性たちが踊っているとは考えない。バリの人々にとって舞踊とは、それらとは全く異なった何かであり、別に存在する様式である。バリの人々の日常の調和した体の動きを踊り手の肉体の動きとみなす人たち、あるいは人々の普通の動作にあらわれる単なるリズムを踊りとみなした人たちは、バリへ来る前は異様に混乱している土地に住んでいたに違いない。さて、バリの人々は、共同体内の非常に複雑な慣わしによって規定された相続社会の一員であり、それは人々にとっては当然のことである。なぜならばどう考えても共同体では、それが生まれながらにして当然のことだからである。そしてその型(パターン)の中で、人々は申し分のない満足を得ているようである。村の活力が村の法という秩序に調和して現れているのと同時に、個々人の活力は申し分なく配分されるために、個々人の肉体というふるいにかけられる。



 バリの人々のそれほどまでに非凡な身のこなしが、体だけにあらわれる動きという芸術に表出するのは当然だ。それも音楽のなかで。音楽は我々がほとんど想像できないくらい、人々の生活にかなり浸透している。それは比類ないほど鋭く複雑な音楽であるけれども、呼吸と同じくらいシンプルである。またバリの人々のほかのすべての表現と同様にとりつきやすいが、同時にその多様性と関心は無尽蔵である。ガムラン(gamelan, gambelan)というジャワとバリに特有の(訳注:原文ママ)オーケストラが金属製の素晴らしい音を発し、夜も昼も大気を振動させる。ガムランは宗教儀礼で演奏され、あるいはいくつかの通過儀礼や宗教的行事を祝賀するために演じられる舞踊や舞踊劇の伴奏をつとめる。そして音楽は個人的なものではなく感情を表現するものではない。しかし根源的で喜びに満ちたリズムの生命力とならんで形式と模様(pattern)によって決まる美しさとともに、音楽は絶対的なものであることに首尾よく成功している(脚注1:コリン・マクフィーの論文 ‘The Absolute Music of Bali’『Modern Music』vol.]U, No.4 (published by The League of Composers)を参照のこと 。また、バリのほかのすべての芸術家たちと同じく、いろんな階級や年齢、職業の音楽家たちがいる。素晴らしいガムラン演奏グループを率いる或る人物の職業はお抱え運転手であり、同時に、うろたえさせるほど多作の作曲家でもある。そして彼の重要な協力者は、5歳くらいの男の子である。1年か2年ほど前まで、この男の子は母親の小脇に抱えられてベッドへ運ばれていたものだった。また子どもたちは歩けるようになるまでは、座って楽器を演奏している父親の膝のあいだに座る。子どもたちは父親の膝に囲まれた状態のまま、小さな手でシンバルや金属製の鍵盤を叩いて鳴らし、太鼓のばちを握っている。子どもたちはまるで旋律や複雑なリズムを体へ直接吸収しているかのように見える。と同時に、子どもたちは舞踊のリズムやポーズも吸収しているように見える。さて、バリに存在するのは1種類の音楽だけではない。誕生日、歯を削る儀式、結婚式、火葬の儀式、寺院の祭礼、聖なる神像とともに海へ行進する時、疾病や悪魔を追い払い浄化する時など、各行事にふさわしい各種類の音楽と各種類のガムランがある(脚注2:現在ではバリの音楽を録音した蓄音機レコードが若干数あり、少なくともガムランのテクスチャーがどのようなものであるかを感じることができるだろう。アメリカ(原文ママ)の作曲家コリン・マクフィーはバリの音楽について著述し、特別なガムランに関するモノグラフも明晰に著している。彼が著したモノグラフは、ジャワ研究の立派な季刊誌『ジャワ(Djawa)』に英文で掲載された。マクフィーのモノグラフが掲載されている『ジャワ』誌は1935年秋に出版されたバリ特集号と、1冊がまるごとバリ関係に充てられたうえに非常に関心をそそる記事がたくさん掲載された1937年の9月号である。『ジャワ』誌はKegan Paul & Co.Ltdで入手することができる。またミゲル・コバルビアス(Miguel Covarrubias)も著書『バリ島』(『Island of Bali』 1936 Alfred A. Knoph, Inc. 関本紀美子訳 1991 平凡社)で、バリの音楽と楽器に関する素晴らしい概要を著している(p.7→)そして、各種類の舞踊にふさわしい各種類のガムランと音楽があるのも当然だ。ただしこの本では、舞踊しかとりあげることができないのであるが。しかしリズムやトーンといった音楽の広大な世界に触れることなく、舞踊をとりあげるのは不可能だ。ガムラン音楽の複雑かつ素晴らしいテクスチャーのなかで、見えにくいものをリズムとトーンが絶えず明らかにするからである。ガムラン音楽は個人の及ばない自然のように、あるいはいきいきとした感覚のように、バリの人々の気質や才能を率直に、そして神秘的にあらわしている。人はガムラン音楽を聴けば聴くほど、音楽のリズムにあわせて熱烈な共感をはっきり口にするだろうし、深みや輝きといったものが、金属や牛の皮と竹熱烈の響きの中でバリの風景を振動させているように感じるだろう。



 バリはあらゆる人が踊る土地だと思われている。その理由は、舞踊がバリのさまざまな状況を構成するうえで欠かすことのできないものであり、通過儀礼や寺院の儀礼といった連綿と繰り返される儀礼では、舞踊が重要な要素を占めているからである。しかしバリ以上に舞踊を特殊化しているところは世界中のどこにもない。あとで必ず述べる予定であるが、幼児期から墓場へ辿り着くまでの人生の各段階で舞踊が伴われるのに対し、奇妙なことに、集団が自発的に踊ったりすることはない。また農民たちがある季節に限定した舞踊を踊ることもほとんどない。おそらくそれは寺院の儀礼や行列が、重要な代用となっているのだろう。実際、未婚の少年や少女たちといった同世代のメンバーによるグループが供物や捧げものとしての儀式的舞踊を寺院で踊る。また老女たちも寺院で自分が若かった頃の宗教舞踊をふたたび踊る。しかしそれらの舞踊はたいていの場合、なおざりに踊られ、ふだんの生活の動きとは異なる優美さがない。そして寺院の外には踊り手や役者たちがいる。役者を意味する単語も踊り手を意味する単語もバリでは1つの単語で言い表されるのであるが、それらの人々は高カーストの人物・低カーストの人物・王・僧侶・金細工職人・銀細工師・鉄職人・木彫り師・漁師・田んぼで働いている農民を問わず、「踊る」という事実によって他の人たちとは区別される。踊るためには特別な才能と訓練が必要であり、誰もがすることではないからである。けれども我々にも周知のとおり、踊り手に願望もなく能力が欠けていれば、ほかの踊り手たちの邪魔となるだけかもしれない。そして踊り手や舞踊の教師としてあまりにも有名なので、生活時間が踊りと指導に占有されてしまうような場合を除き、踊り手であることが村でのその人の普段の生活を妨害するようなことはない。バリの踊り手は、文化的な生活をたえず繰り返し、名前を明かさない腕のいい職人とよく似ている。(つづく)

  

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