ratugede

INTRODUCTION
はじめに

Beryl De Zoete & Walter Spies
『Dance and Drama in Bali』
p.1-p.45
1973(Reprint) Kuala Lumpur :
Oxford University Press
Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938
ratuayu
その2・ 2008年5月30日更新・ DDBHome
はじめに−その1                p.1〜p.7(32)
はじめに その3               p.11(24)〜p.16(17)
 
はじめに その4               p.16(18)〜p.19(25)
はじめに その5               p.19(26)〜p.22(7)
はじめに その6               p.22(8)〜p.25(17)


p.7の33行目から

 この本はバリの舞踊の紹介書であるが、申し分のないものにするためには、バリの舞踊はもちろん、インドネシアの各島で今も伝えられている舞踊の概要も加えるべきだろう。そしてバリの舞踊というかたちにならしめているものを明らかにすべきだろう。しかしそれらのことは別の本に任せる。バリだけでも舞踊はとても豊富でバラエティに富んでいるから、あつかましくもこの本でバリ舞踊の全体像を記述するなんて言えないからである。けれども筆者や他の人たちが抱いている少しの疑問に答えることだけは、この本でもできるだろう。また、他の国から来た旅行者や民族学者たちの批評と、場合によっては彼らの証言も引き出すつもりである。いっぽう、遠く離れた資料からの疑問に対しては、故意にはぐらかしている。p.8→中国、日本、カンボジア、タイ、ビルマ、ましてやジャワや英領インドの舞踊が、多量の考察や、膨大な数にのぼる振付けの比較のために、材料を提供できることは明らかである(脚注1:アーカイヴ・インターナショナル・ド・ラ・ダンスArchives Internationales de la Dansのメンバーならば、クラレ・ホルトClaire Holtが書いたジャワの舞踊に関する素晴らしい論文を何本か思い出すだろう。彼女の論文は、直接学んだうえに研究したという、きわめて貴重な論文であった。ホルトは同じテーマで本を執筆したが、残念なことに今に至るまで出版されていない。リリーベルドTh.B.Van Lelyveldがジャワ舞踊について著した有名な本La Danse dans le théâtre javanaisは、1931年にフランス語で出版され、入手することができる。しかし筆者にとっていちばん重要なことは、いろんなところからバリへやって来た、あるいはたどり着いたものを、豊かな或る気質によって純バリ式のものへとずっと変え続けてきたというバリ自体が、バリ舞踊の起源であるということである。その件について本書では、多少の事実や物語と、舞踊の現場を見て感じた感動とともに、バリ舞踊のもつ社会的・宗教的特徴をとりあげることができるだろう。さらにバリでは今でも発展や混合、部分的な変更が絶え間なく進行中である。流行も急速に変化し、5年前や10年前に見られたものが、今ではもう見られないだろう。しかしもしかすると、皆が経験からも知っているように、つつましい調査が、消滅したものや他の場所では知られていなかったもの、あるいはかつて存在した区域でさえ誰もわざわざ伝えようとしないものといったバリの片隅に、脚光を浴びせる可能性があるかもしれない。それと似たケースで、わずかな刺激が、殆ど忘れられていたものを復活させることもしばしばある。突然、王やヨーロッパの人が古い形式の舞踊劇に関心を寄せたことがきっかけで、古い舞踊劇が以前の輝きと活力を伴って復活するのである。そしてそのようなケースが起きるので、バリ舞踊の紹介はこの本のように部分的にしか成立しえないし、完璧であると自惚れることはできない。また、もしも全ての事実や情報を集めるまで時間を費やすならば、確実にまったく何も書けないだろう。バリのどの村もモノグラフを書くに値するし、どのガムラン、どの舞踊もモノグラフを書くに値する。そのようなわけで、バリ自体は小さな土地にもかかわらず、驚くほどのバラエティに富んでいるので、先述のような計画を完成しなくても10年や50年はあっという間に過ぎてしまうだろう。たとえば人里離れた山岳地方の村には、ほかの村では高度に洗練された芸術の原始的なかたちが残っており、先ヒンドゥの特徴を保っている儀式の数々があることを、あなたは知るかもしれない(脚注2:ヒンドゥ初期がどのようなものであったか、インドと接触する前のバリがどのようなものであったかということを我々はまったく知らない。従って、先ヒンドゥという単語には大して意味がない。それよりもポリネシアという単語を使うほうが好ましい。ポリネシアという単語は先ヒンドゥ期バリに関連して、今でも漠然と使われることが時々ある。さらに北部バリと南部バリでは気質や気風が全く異なるし、互いに別の政治的影響を受け入れている。東部バリと西部バリは、それぞれ固有の特徴を示している。そしてまだ発見されていないものごとが多すぎるので、ただちにやり直したくてウズウズする。たとえば筆者が執筆している時でさえも、最近になってウォルター・シュピースが不意に出くわしたという、10種類の思いもよらない舞踊に関するニュースを受け取った。それらの舞踊についてはのちに記述する予定である。従ってそのような事実は、バリで何か見つけようと期待する傾向がある人にとってはバリ人自身と同じくらい、尽きることのない娯楽に近い。どんなに経験を積んだ民族学者でさえ、バリでは急いで仕事を仕上げることができないとわかるだろう。状況は本当にやって来る。しかし自分が欲していた状況とは似ても似つかぬ状況を迎えるのがしばしばだ。そして、どうあろうと人生は目的を達成するためにあると考え、「そんなことまで望んでいない」と思うならば、その考えは間違いになるだろう。逆に、やってくるものを何でも受け入れることは、あらゆる情報を受け取ることを意味するが、それはそれで簡単な事柄ではない。あなたは情報を集める部門を組織しようと熱心に試みるだろう。しかし職員は辺ぴな村に住む人たちで構成されており、彼らは間近に迫った儀礼の情報をあなたへ伝えることを覚えているかどうかわからない。p.9→あるいは、あなたの関心は儀礼がいつ終わるのかを知りたいことだけにあると、彼らに思われている可能性もある。そのうえ、バリには時計のような正確な時間が存在しないので、どんなことでも実際に始まる時間がきわめて曖昧なのである。 



 「何時に?」という粘り強い質問へ、バリ人はどのように答えることができるだろうか。彼は寺院の庭に木陰を作っている或る木を見上げてこう答えるだろう、「2時」と。しかしあなたが以前にも質問していたならば、返答は口から適当に言ったことであるのがわかるだろう。本当の返答はこうだ、「太陽が木の上に昇ったとき」。時を測定するために実際に用いられるのは太陽と月だけなのである。仮に月がちょうど夜の7時に昇ったならば、踊りも7時から始まる。けれども人びとは「10時」ときっぱり言った。そこであなたは月明かりの下、長い距離を歩いて目指したが、寺院で寝ている野良犬と次第に消えていくガムランの響きしか見つけることができないのである。2日後にふたたび同じ場所で、夜の10時から舞踊がおこなわれるらしい。10時という名前の時間が、月の上がる時間だからということである。けれどもおそらく今回、人びとは夜の7時と言うだろう。夜は暗くなる午後6時から始まり、突然明るくなる午前6時まで続く。その時間帯に催されることに関しては、事前に開始時間の正確な情報を得るのはたいてい不可能である。ある種の舞踊、たとえば歌唱舞踊劇のアルジョ(アルジャ、Ardja, Arja)が夜の11時前に始まることは普通ない。さらに主要な踊り手が遅れてやって来る、ガムランが豪雨で立ち往生する。そうなると、あなたがアルジョの始まりを見るのは午前3時や4時にずれこむこともある。しかしそれでもまだ夜であり、アルジョにふさわしい時間帯なのである。誰も待たされていることを気にしない。友人たちに会い、物売りの可愛い少女たちがいて、その少女たちといちゃつく。そもそもアルジョは「夜を忘れさせるもの」として知られており、日が改まったあとに始まるのがお馴染みだからである。その事実は夜遊びが好きな人や、とても気ままな舞踊の神様Choreo-maneをのぞき、当然、読者たち全員失望させるだろう。ゆえにヨーロッパの人たちはめったにアルジョへ好奇心を示さない。しかも明らかに乾季であるにもかかわらず、雨が降って時間をかく乱し、夜の9時に始まる予定が翌朝の9時に始まることも時折ある。その場合、清涼感を伴うその時期最後の豪雨が、アルジョのいちばん大事で見事な瞬間をさえぎるのが唯一の難点である。



 さて、ふだん定期的におこなわれていた儀礼がとても変則的におこなわれることがある。また、1年に1度おこなわれるユニークな儀礼が無期限で延期されることもある。その理由は儀礼をおこなうには欠かせない複雑な事情が、同時に儀礼を行うのを不可能にしたからである。それはバリの村のシステムの極致であり、バリの村は異変に対して責任を持とうとする。たとえば疫病、死、双子の誕生(脚注1:Jane Beloの論文『A Study of Customs Pertaining to Twins in Bali』を参照のことなど、村の均衡をかく乱するというスブル(sebel、不浄)が起きると儀礼は行われず、各種の暦どおりに日が経っていく。そもそも儀礼は各種の暦をかけあわせた特定の日におこなわれるはずであったが、来たるかけあわせが合致する特定の日まで延期される。人里離れて閉鎖的な若干の村の場合、古くからのとても厳格なアダット(adat)に律されているので、特別な儀礼がおこなわれる機会を辛抱強く待たされる。しかもそういった村では「縁起が悪い、不吉だ」と言ってはそれぞれの出来事を結びつけすぎてしまうので、「いったい特別な儀礼はどうなってしまったのだろう」と、あれこれ思いを巡らす人もいる。



 ときどき、チャンスはあなたをずいぶん曲がりくねった道へ案内する。1人の男があなたのもとへやって来て、男が住む近隣の村で重要な舞踊が催されると売り込む。p.10→その舞踊はガルンガン(Galoengan, Galungan)時期の後半にしか踊られない特別な舞踊であり、夜に踊られるらしい。ガルンガンとは我々の万霊節に相当し、ふだんは山にいる祖先神たちが各家屋敷の寺院へ向って一路に移動する日である。そしてかなり高い確率で、その男の言った舞踊は実際に踊られるだろう。しかしバリス(baris)の踊り手たちが住んでいることで有名な村では、とても珍しいバリスが同日の夕方過ぎから踊られる見込みがある。どんなことがあっても見逃してはならないチャンスだ。そこで当日の午前中は男が言った遠くの村へドライブすることに費やし、その日の夜に手配されていた儀礼を延期してくれるよう、あなたは必死で頼む。その結果、快く変更してもらえることとなった。しかし午後からはバリスを見るのでは?そこで、どうしても見たいという熱意がまさり、あなたは昼寝を切り上げた。そして1時間遅れてホスト宅に到着することができた。ホストと家族たちは、寺院で捧げる供物たちに囲まれながらぐっすりと眠っている最中だ。数時間後には珍しいバリスを見ることができると思うと、あなたはうれしかった。そこで寝静まっている人たちには気づかれぬようこっそりと離れ、1時間後に戻ってこようと考える。その後しばらくして、珍しいバリスが踊られる村に到着すると、雨が降れば踊りをとりやめにせざるを得ないと知らされる(決して降らない)。しかし落胆させられるようなことが起きると、元気を出させるような何かがいつも起きるのがバリだ。やるせない気分であなたたちは僧侶の家の桟敷に座り、僧侶から舞踊の説明を聞く。その説明は、いままでのあなたたちの研究を新しい世界へ導く内容であった。そしてあなたたちはバリスが催される場所へ戻るが、僧侶の説明に熱中しすぎた結果、どうしようもないほど遅刻してしまった。ところがそこで、バリスはまだまだ始まらないことを知る。別の舞踊が踊られている。あなたはバリスの準備が整うまで道で時間つぶしをすることにした。そして日が暮れてからだいぶたってやっと、大勢の人びとたちが集まり、バリスにふさわしいガムランが予告の音楽の演奏を始めた。オードブルとして見るために5時間前から追跡していたバリスがやっと本当に始まった。珍しいバリスは本当に素晴らしい。その素晴らしさゆえに、見逃さまいと1日を費やしたことなんて帳消しになったほどである。



 特別に大事な行事のために踊り手たちが外部の村から招かれ、すでに踊り手たちが到着しているというだけでは、ぎりぎりまで成り行きはわからない。特に雨季の場合、小川や畦道が雨で氾濫すると衣装や道具を運ぶことができない。次に、舞踊劇が始まっても演目の成り行きはわからない。もちろんあらかじめ、儀礼にふさわしい演目が決められている。しかし誰がどの登場人物を踊るのかは、その場にやって来ることができた踊り手たちの数と能力によって決まる。予期していたことが起こらないと、失望の原因となるケースも時々あるが、ハプニングがとても興味深くておもしろいことになる場合もしばしばあるだろう。あるいは舞踊劇が儀礼の重要な部分を占めていることが判明する場合もあり、始まった頃には退屈だった舞踊劇が、途中から退屈を吹き飛ばしてしまうようなことがある(脚注1:『バロン・ランドゥンの誕生日』原著p.274を参照のこと。訳注:未翻訳



 さて筆者は、いくつかの釈明をおこなう必要があると感じている。なぜならば、この本ではバリ舞踊を学術的にとりあげていないからである。架空の専門家たちのために、ステップやジェスチャーのわかりにくい名称や、踊り手が舞台空間の地面に描く軌跡の図、あるいはさまざまな動きのアンサンブルを記録した図など多量の資料を入れることも可能であったが、おこなわなかった。なぜならば、知的な深さを装うためにそのようなことをしても、バリ舞踊が見せる活気のかわりに混乱を招くだけだからである。なおコバルビアスが書いたバリに関する概説書は、この本よりも非常に詳細で賞賛に値する。けれども筆者たちがこの本を著した目的は、バリ人の生活に欠かすことのできないものの1つとしてバリ舞踊を提示すること、専門的な研究のために出発点を提供することである。p.11→また、バリ舞踊のそれぞれの動きには名称があるが(「動き」そのものに名称はない)、すべての動きについての詳細な研究は、いつの日か誰かが音楽家と緊密に協力しながらおこなってくれることを筆者は望んでいる。次に、ハッドン博士や他の人たちが提示したプリミティブな舞踊の略図、なかでもジョン・レイヤードが描いたマレクラ島(訳註:バヌアツ共和国で2番目に大きな島)のメイズ・ダンスのドローイング(脚注1:『Folk-lore』誌1936年6月号所収の”Maze-Dances and the Ritual of the Labyrinth in Malekuna”を参照はとても魅惑的であると同時に、研究のテーマにとって絶対に必要であることを表している。しかし、そのようにシンプル化した絵は単独の舞踊を図式的に分析する場合を除いて、バリ舞踊には役立たない。クラレ・ホルト嬢は、ジャワの宮廷舞踊の踊り手が床に描く軌跡を、そのようなシンプル化した手法でいくつか記した。彼女が記した図は非常に美しく、ジャワ舞踊(訳注:ジャワ舞踊家・研究者の冨岡三智さんの指摘によれば、この場合はジャワ舞踊でもジョグジャカルタ様式の舞踊を指しており、ジョグジャカルタにはかねてから舞踊譜を書く伝統が存在していたとのことである)にふさわしい。また彼女が記した図は、その舞踊に精通している誰かだけを対象としている。実際、その人物とはジャワ舞踊の偉大な教師であるテジョクスモ王子(Prince Tedjokoesoema)なのであるが。そしてコードの織り成すパターンは彼の動きを紙の上で実現しており、まるで踊り手の動いている体のようだ。いっぽうヨーロッパでも15世紀以降から宮廷舞踊で、きわめて美しい曲線とシンボルからなる舞踊譜を用いてきた。バレエも同様である。さらにヨースとレーダーのカンパニーや学校では精巧なタンツシュリフト(Tanzschrift、訳註:舞踊譜)を作り上げたが、ヨース=レーダー派のテクニックとメソッドをすでに熟知している人びとにしか役に立たず、その舞踊譜をスコアのように読むことができるのは彼らだけである。しかしその舞踊譜を読むことは、舞踊を思い浮かべるには不可欠で見事な訓練となりうる。その意味では、5線譜の代わりに50線譜を使って新たな舞踊譜を考案し、バリ舞踊に用いることができるだろう。けれども西洋の舞踊に見られるように、現存の各種の舞踊譜は非常に限られた範囲の動きにしか適用できない。そして舞踊譜を用いてみたところで、めまぐるしくアクロバットをおこなう楽園に住む鳥のように、途方もなく複雑な動きを見せるバリ舞踊には無駄だろう。

p.11の23行目まで

謝意:ジャワ舞踊家・研究者の冨岡三智さんが、ジャワ舞踊における舞踊譜の伝統を教えてくださいました。謹んで感謝いたします。


  

訳註


アーカイヴ・インターナショナル・ド・ラ・ダンスArchives Internationales de la Dansは、バレエ・スエドワの創設者としても著名なスウェーデン人の富豪家・芸術支援家ロルフ・ド・マレRolf de Marèが1933年にフランスに創設した、世界で最初の舞踊リサーチ機関および舞踊博物館。機関紙も発行していた。クラレ・ホルトはド・マレのアシスタントを務め、ド・マレはクラレ・ホルトを援助した。



Dr. Haddon、すなわちアルフレッド・コート・ハッドンAlfred Cort Haddon。イギリスの海洋学者、人類学者。1888年から1904年にかけてオーストラリア北方のトレス海峡諸島を数回訪れ、調査・研究をおこなう。ケンブリッジ大学のトレス海峡探検団長もつとめた。1895年にはトレス海峡でイギリス初の民族誌映像を記録。「あやとり」も採集した。人類学的テーマとして「あやとり」に注目したのはハッドンが最初。1900年から1926年にかけてハッドンはケンブリッジ大学で民族学の教鞭をとる。のちにケンブリッジ大学は全6巻からなる、トレス海峡諸島の調査報告書『Reports of Cambridge Anthropological Expedition to Torres Straits』を発刊した。 なおグレゴリー・ベイトソンGregory Batesonはケンブリッジ大学で生物学を、同大学院で1927年から1929年にわたって人類学を学んだ。のちにベイトソンは1936年から1939年にかけてマーガレット・ミードMargaret Meadとともにバリ島で調査をおこない、その成果『バリ島人の性格−写真による分析 Balinese Character ; A Photographic analysis 』(共著,1942)を出版した。ミードとベイトソンはバリに滞在中に、シュピースからさまざまなアドバイスを得た。



ジョン・レイヤードJohn Layard:イギリスの人類学者・心理学者。1940年代にはカール・ユングとともに研究をおこなった。



クラレ・ホルトClaire Holt:ラトヴィアのリガ出身。著作『Dance Quest in Celebes』(1939)、『Art in Indonesia』(1967)のほかにも多くの論文を著し、インドネシアの文化を論じた。ホルトはバリも含めてインドネシア各地に1930年〜38年、1955年〜57年、1969年と3回滞在し、ジャワやバリで舞踊を学ぶとともに、各地の文化の調査・研究をおこなった。1930年にはバリで、考古学者および人類学者シュトゥッテルハイム Stutterheimの助手を務めている。のちにホルトはコーネル大学で教授職を得、ジョン・エコールズJohn Echolsたちとともにモダン・インドネシア・プロジェクトの設立に尽力した。ホルトがコーネル大学インドネシア芸術プロジェクトのために収集した資料はコーネル大学図書館が管理するEchols Collection on Southeast Asia内のClaire Holt Papers 1930−1969で見ることができる(ただしデータベースを見るには、別にブラウザーをインストゥールするよう要求されるので注意)。なお1978年にコーネル大学モダン・インドネシア・プロジェクトは、ホルトが収集したインドネシア各地の舞踊の衣装や舞踊の写真などをニューヨーク公立舞台芸術図書館The New York Public Library for the Performing Artsへ寄贈した。ニューヨーク公立舞台芸術図書館は コレクション・ガイドClaire Holt Collection of Indonesian Dance and Related Arts およびCollection Contentsで、ホルトが収集したバリ・ジャワを含むインドネシア各地の舞踊に関する膨大な数の写真を公開している。



ドイツ出身のクルト・ヨースKurt Joossとジーゴート・レーダーSigurd Leederは1925年に芸術家たちのカンパニーと舞踊学校であるWestfälische Akademi für Bewegung, Sprache und Musikを設立した。1927年には「アバンギャルドすぎる」と評された『死のダンス』を2人で共作。また同年にヨースはエッセンでWestfälische Akademieの設立に参加し、教鞭をとる。Westfälische AkademieはFolkwang Hochschule(フォルクワング芸術大学)の前身である。 クルト・ヨースはドイツ表現主義舞踊を築き上げるとともに、ピナ・バウシュを育てた。クルト・ヨースの代表作は反戦をテーマとする『緑のテーブル』。



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