ratugede

INTRODUCTION
はじめに

Beryl De Zoete & Walter Spies
『Dance and Drama in Bali』
p.1-p.45
1973(Reprint) Kuala Lumpur :
Oxford University Press
Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938
ratuayu
その4・ 2008年9月1日更新・ DDBHome
はじめに−その1                p.1〜p.7(32)
はじめに その2               p.7(33)〜p.11(23)
はじめに その3               p.11(24)〜p.16(17)
はじめに その5               p.19(26)〜p.22(7)
はじめに その6               p.22(8)〜p.25(17)


p.16の18行目から

『バリの人々が舞踊や舞踊劇を観る時の態度と、舞踊劇の筋書きに示す態度』

 バリの人々が舞踊や舞踊劇を観るということは、筆者たちのように脇目もふらずに集中して観るということではない。バリの人びとは観るという行為よりもむしろ、そこに居合わせているということを感じているようである。我々の場合、真剣に観つづけてしまうので、すべての舞踊が終わるよりもずっと前に疲れ果ててしまっているのだが、バリの人々は東洋の他の国の人たちと同じく、舞踊が放つ雰囲気の中に入り、見慣れた景色のようにそこにとどまっているのである。もちろん、バリの観客は昔から見慣れた自分の景色に、人が登場して演じることを楽しみにしている。それは我々が慣れ親しんだ道を歩けば予想できる景色と同じようなものである。そこで、もしもいつもの場所にいつものものがなければ、彼らがとても驚くのは明らかだろう。しかし我々が慣れ親しんだ道を歩く時と同じように、観客である人びとは、弓を引きしぼるイメージにつながるドイツ語のspannung、すなわち期待を高めたりはしない。バリの人びとが舞踊劇を観る時の態度は、イタリア・オペラのボックス席を借り上げている社交界の人びとの態度と、かなり似ているに違いない。人びとはたまに舞台へ目を向けると演者の技量を批評し、道化役が発する即興や時事問題に関するジョークを楽しみ、舞台に登場したり、引っ込んだりする美しい少女を賞賛する。そして友人たちといちゃつき、一話咲かせたあと、再び舞台を眺める(脚注:舞踊が上演されるシーンを描いたバリのドローイングでは、観客たちの関心はまず異性を口説くことにあるかのようにみえる。しかしそれは恐らく、実際に日常でおこっていることを描いたというよりも、願望を描いているのだろう。かたや、筆者たちはバリの舞踊や舞踊劇に心を奪われ、凝視し続けたあげくに疲れ果ててしまうという有様なのであったが。



 いつもそこにある自然が、人々へ絶え間ない注目を向けてくれるように要求することがないのと同様に、舞踊や舞踊劇の上演がバリの観客たちへ特別な注目を要求することはない。さまざまな方法で楽しまれるものとして、そこに存在するだけである。そんな様子を見た誰かは、「バリの舞踊は、眼をこらして観られるものとしてあるのではない。音楽もまた、絶えず聞き耳を立てて聴かれるものとしてあるのではない。双方とも森の中の樹や小川のように、ただ耳に入ってきて、視界の中に入ってくるものだ」と語った。次に、我々は舞踊劇の筋書きにたいへんな興味や関心を抱くが、バリの人々が筋書きに煩わされることは滅多にない。P.17→人びとは物語のどの部分が舞踊劇で上演され、どの部分が上演されなかったかについては、全く頓着しない。舞踊劇の成功云々は、決して筋書きに関係しないのである。したがって良い筋書きや悪い筋書きもないという点に関しては、バレエと同じである。けれども、ふさわしくない筋書きというものはあるかもしれない。たとえば、呪術の能力をある程度持つ人びとが、舞台空間である種の危険をわざと冒すような場合である。さて、観客の大部分を占めているのは学識のない人びとであるが、どのような筋書きであっても観客は大まかな流れを理解できている。高貴な人物が日常では滅多に使われることのない言語で台詞を語った場合、通訳も兼ねる廷臣役がその台詞をバリ語に翻訳して語り、唄うからである。そして、どんなに有名な登場人物であっても、その役にふさわしい伝統的な様式の衣装に身を包んでおり、各登場人物の演出がパターンから逸脱するケースは、ほんの少ししかない。しかし道化役だけは例外である。人気のある演目に登場する道化役たちの演出は、恵まれたことに昔からほとんど制限が設けられていない。廷臣でもある道化役たちは会話の中で、主要な登場人物たちを知るためには欠かせない情報を観客たちへ伝え、いつも機会ごとに即興のコメントを発する。そんな彼らは、まるでイギリスのミュージック・ホールに登場する役者と優劣つけがたいくらい、機知に富んだ洒落をたくさん発言しつつも、自分たちの主人に対しては歯の浮くような賞賛を述べる。いっぽう、演劇の上演という観点に立つと、観客たちは眺めているものが何であるのかもわからないまま何時間も座って満足しているという状況に、読者たちは違和感を覚えるかもしれない。しかし熱心に観続けるということが悪いのである。そうは言っても、筆者たちは脇目もふらずにひたすら舞踊を観続け、物語に聞き耳を立てていたのであるが。そしてバリの人々はたいてい、舞台空間で繰り広げられている個々の細かい行動の中ではなく、全体のリズムの中に取り込まれている。また一般的に、バリの舞台に上がる踊り手たちの衣装や動きは伝統的で法則化されていると、人びとは確信している。その考えが根付いている理由は、どのバリ人も柔軟な感性を持った子どもの頃から、バリ舞踊の伝統的な動きや体の使い方を見ているからである。したがって、そこから逸脱した動きはどんなものであっても、バリ人の眼には滑稽に映る。そこでカルタラ(Kartala、彼は2番目の従者の地位にある)である。カルタラが滑稽であるのは、彼の舞踊がバリ舞踊の型から逸脱していることも1つの理由である。たとえばカルタラ役は膝を外側へ向けない。また頭を下げて手脚をブラブラ動かすといったありさまで、彼の動きはバリの舞踊の型にあてはまらない。カルタラは日常生活に見られる動きと同じような動きを、ほぼ無頓着におこなっているのである。道化役の構想の中には、演目にふさわしいある種の舞踊スタイルから逸脱した動きを見せることが、組み込まれているにちがいない。次に、粗野な墓堀人夫たち、市場で物を売っている女たち(この役は女形が演じる)、一般の農民たちの場合である。彼らは舞台空間に登場すると、急ぎ足で抜け目なく動き回ることもあれば、学校のクラス全員でおこなうような行進を演じる傾向がある。また、登場したときは洗練されていなかったにもかかわらず、のちには品性を高め、頭につけていた布を威厳のある冠にかぶり替えるような役柄であっても、彼は自身がつけている滑稽な仮面と同じく、型にはまらない動きを展開しつづける(脚注:原著p.188を参照。実際、彼が王宮のシーンで見せる立ち居振る舞いは本当にひどいもので、かなり身分が高い大臣の衣装に触れさえする。彼は学習を経ても、へつらい方を習得することができなかった。そして著者は、一般の無学なバリ人たちが舞踊劇をどう受け止めているのか想像してみた。当然ながら、バリのすべての人びとが、著者たちとまったく同じ観点や視点から舞踊劇を観ているのではない。もちろん、バリ舞踊の技法の細部まで熟知している人ならば、一般のバリ人には気づかない無数のことがらに気づいているだろう。しかしバリの舞踊劇とは儀礼的行為であり、その中における舞踊は花飾りなのである。花のように素晴らしい部分は、数少ない目利きにしか共感を得られないのであるが、人びとは儀礼的行為の大まかな決まりごとを知っている。それは、村でおこなわれるクリケットの試合を見ている観客たちが、大雑把にルールを知っていることと似ている。P.18→もっと正確に言えば、場内の雰囲気は村の草地の雰囲気と似ており、自分たちの村だから誰もがみんなを知っている。同様に、舞踊劇に登場するどのタイプの登場人物も、人びとにとってはおなじみの親しい仲間たちである。そのため、独自の個性を際立たせるものがそこにはない。先にも述べたように男性の道化役は例外であるが、踊り手たち自身が自分たち独自の考え方ややり方を舞踊劇に反映させることは、とうてい無理なのかもしれない。ゆえに、どの登場人物の外見も伝統的で、どの登場人物のキャラクターも見分けがつく。もっと厳密に言えば、衣装や動きの型、登場する順番によって各登場人物のキャラクターを見分けることができる。さらに、正義に属する登場人物たちの登場は、彼らが何をおこなうかに関係なく重要なことであり、実際、誰もが話の筋を練り上げることに関心を抱いていないようにみえる。しかし例外がある。舞踊劇の1ジャンル、アルジョ(Ardja、Arja)である。アルジョでは長時間にわたって一連の出来事が延々と繰り広げられる。のちに筆者は、舞踊劇に登場する各キャラクターについて、再び述べる予定である。ちなみに、どの物語もバリの人びとにとってはお馴染みであり、上演中のわずかな仕草や行為が、演目の全体像を伝える可能性があることも指摘しておきたい。それは1つの単語や言い回しが、全体の状況や複雑な出来事を暗喩し、読み手に喚起させる西洋の詩と似ている。かつて筆者はバリの画家から、内輪でおこなわれている結婚式の様子を描いたという、つつましいデッサンを見せてもらったことがある。そのデッサンには実際に関する写実的な描写はいっさいなかった。しかしそれは結婚式の様子を描いたなどというものではなく、その結婚式にまつわる一連の出来事をすべて描いた詳細なデッサンであることがすぐにわかった。新婦が儀礼的な沐浴をおこなうと、水の精が新婦を盗んだ。新郎は川の下の世界へ向い、水の精を打ち負かして勝利と富を得る。画家はそれらの出来事を、連作となるドローイングの最初の一枚にすべて盛り込んでいた。



 バリの絵画は、舞踊劇以上にドキュメンタリー的性格を帯びている。バリの絵画は物語である。そのため、筆者たちは舞踊劇と絵画の役目が反対であるように感じ、舞踊劇の筋書きの参考に、人びとが絵画で表現したものが欠かせなかった。バリの演劇は物語を伝えるものではなく、踊ること、つまり身体による行為である。バリ語では舞踊も演劇も同じ単語で言い表されるが、バリの舞踊劇とは舞踊のリズムを最大限に強めて演じられるものであり、音高がほとんど変化しない退屈な音楽のようなものとは全く異なる。そこで、実在しない想像上のキャラクターが登場する場合、物語に描かれている彼女や彼にまつわる描写よりも舞踊劇のそれの方が勝る。たとえばその古典的な例として、グランタン(Grantang、グランタンについては原著p.143の後半を参照のこと)が演じられるケースをみてみよう。グランタンの実の父親はヴィシュヌ神であるが、地上でのグランタンの父はブラフマナ(Brahmin)階級に属す貧しい男性で、田んぼで働いていた。そしてこの世のならいに従えば、疑いなくグランタンはたいへん謙虚な人物であった。しかも彼は生まれながらに、とても洗練されたタイプのキャラクターに属している。ゆえにある時のグランタンは、このうえなく上品で優雅な王子がみせるような態度しかとれないのだが、そのシーンでの彼は衣装を変えることもなければ、彼のために新たな小道具が用意されるわけでもない。グランタンの衣装は変わらないままである。もしも彼が見た目を変えるならばそれは物語の中だけであって、舞踊劇で外見を変えることはない。次に、サンピック(Sampik)という物語がアルジョで演じられる場合をみてみよう(原著p.322を参照)。この物語は中国から伝来し 、ヒロインの名はセンタイ(Sentai、訳註:インタイ/ Ingtai, Intaiともいう)という。物語によれば、センタイは男装の女性で、自動車を運転して学校へ通っているという設定である。しかしアルジョではセンタイも例にもれず、洗練されたヒロインの衣装を身につけ、洗練された女性のタイプの舞踊を踊って、演じ続ける。折に触れてセンタイの頭飾りが変装の役割を果たすこともあるが、首から下の衣装と同じく、センタイの声やジェスチャーが女性そのものであり続けることはまったく問題とならないようである。P.19→また、ワヤン・ウォン(Wajang Wong, Wayang Wong)というジャンルの舞踊劇に登場するラーマーヤナのラヴァナ(Ravana)の場合、シータ(Sita)姫を完璧にだますためには聖職者の帽子をかぶるだけでよい。けれども読者たちは思うであろう、彼の悪魔のような声と暴力的なジェスチャーのせいで、ラヴァナの本性はすぐにシータ姫にばれるだろうと。しかし舞踊劇の世界は、独自の法律によって治められている超俗的な世界なのである。そして現実の世界と呼ばれているものよりも超俗的な世界のほうが、舞踊劇にはふさわしい。



 そのような世界にぴったり合うのは地位の高い登場人物たちである。またそのような世界ならば、彼らの行動は裁きをうける範疇にも入らないはずだろう。その顕著な例が、仮面舞踊劇トペン(Topeng)で演じられるケン・アロック(Ken Arok、ケン・アンロックKen Angrok)である。ケン・アロックは権力を掌握して他人の王妃を自分のものとするために、人を裏切り、嘘をつき、殺人に手を染めるという数々の下劣な罪を犯す。その後ずいぶん時間を経て、彼は自分の罪に縁の深い凶器で殺される運命を辿った(見事なその物語の詳細は、原著p.306に記した)。にもかかわらず、彼が裁かれる様子はまったくない。ケン・アロックは神の血を引く生まれであり、子どもの頃には数々の奇跡をおこなった。また、人の王妃を自分のものにするという欲望を達成する前に、霊的な炎がその女王の体から発するのを彼は見ている。すなわち、ケン・アロックは呪的な力であるサクティ(Çakti)を有していた。その力は彼の欠点のすべてを補う取り柄であった。しかし、我々のような人間にはそれに相当する力はない。仮に「徳」(訳注:原文は'Virtue')から、すべての「良き生活」や、道徳的なニュアンスを含むすべてのものを除くと、そこには力が残る。その力に対しては、我々はいちばん近づきやすい。つまり「自分の内部から力が出て行った」である。(訳注:原文では‘The virtue has gone out of him’.引用符もついている。明らかに、新約聖書の『マルコによる福音書』第5章30節「And Jesus, immediately knowing in himself that virtue had gone out of him, turned him about in the press, and said, Who touched my clothes?」(イエスはすぐに自分の内側から力が出て行ったことに気がつき、群集の中でふりかえると「誰が私の服に触ったのか?」と尋ねた)から引用したと思われる。伝説によるとイエスの服を触ったのはベロニカという名前の女性で、彼女は出血が止まらないという原因不明の病気に12年間悩まされ続け、どの医者もベロニカを治すことができなかった。そのため彼女は治療代や薬代に全財産を使い果たし、極貧状態にある。さらに、当時の法律で病身の彼女は「穢れた者」と定められていたため、その12年間は家族や友人に接触することすら禁じられていた。12年間にわたってそのような困難に耐え続けてきたベロニカはある日、「イエスの服に触れば病気が治るかもしれない」と思い、必死でイエスのもとへ向う。そして押し寄せる群衆にまみれながらも勇気をふり絞り、やっとの思いで、イエスの服を触ることができた。その途端、ベロニカは出血が止まり、病気が完治したことを全身で理解する。そこでイエスが述べたのが前出の第5章30節の言葉である。ベロニカは恐ろしくなってそのまま逃げようとしたが、イエスが自分を探していることを知った彼女はイエスの前に進み出て、すべてを説明した(『マルコによる福音書』第5章31〜32節)。ベロニカの話を聞いたイエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい」(『マルコによる福音書』第5章34節)と、ベロニカを祝福したそして中国の「tê」(訳註:道家の「徳」)がまさしくその力を言い表しており、サンスクリットも同じくグナ(guna)という言葉でエナジーをあらわしている。なおラーマーヤナ(Ramayana)に登場する猿のスバリ(Subali)は、自分のtê、つまり自分の「呪力の開花」をスグリウォ(Sugriva, Sugriwa)へ引き渡すまで不死身であった(原著p.159を参照)。次に、ヌサ・プニダ(Noesa Penida、Nusa Penida)の王は見るからに邪悪な人物でサクティを持ち、呪力を使うことに長けていたが、彼を殺すことができるのは特別な呪力に満ちた武器だけであった(原著p.302を参照)。チュパック(Tjoepak, Cupak)に登場するグランタン(Grantang)の兄は貪欲で大言壮語を吐くラクササのようなキャラクターであり、彼は呪的能力に優れた弟をいつも負かしているように見えた。しかし、たかが兄の呪力など弟のグランタンに較べれば非常に限られたものである。兄はすぐに劣った者であることがばれてしまうのであった。

p.19の25行目まで


  

訳註


spannung:意味は緊張、期待。



日常では滅多に使われることのない言語:カウィ/ Kawi語を指している。



イギリスのミュージック・ホール:19世紀中頃からイギリスに登場した演芸場。初期の対象は労働者向けだったが、のちにさまざまな人たちがミュージック・ホールを楽しむようになった。イギリスのミュージック・ホールについては、井野瀬久美恵『大英帝国はミュージック・ホールから』朝日選書395 朝日新聞社1990年などを参照のこと。



舞踊のリズム:この場合のリズムは「効果」というくらいの意味を指していると思われる。



この物語は中国から由来し:中国の民間説話『梁山泊と祝英台』を翻案したもの。バリのサンピック・インタイ物語については、『プトゥ・スティアのバリ案内』鏡味治也・中村潔訳 木犀社 旧版1994・増補新版2007、『踊る島バリ−聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り手たち』東海晴美・大竹昭子・泊真二・内藤忠行ほか 1990・PARCO出版も詳しい。



ケン・アロック:ケン・アロックは、東部ジャワのシンガサリSingasariを中心として1222〜1292年まで栄えたシンガサリ王朝の創始者。シンガサリ王朝の勢力はバリにも及んだ。



「良き生活」:原文では引用符をつけて‘good living’とあらわしている。「倫理的生活」という言葉が適切かもしれない。アリストテレスの『政治学』『倫理学』にもとりあげられている、ギリシャ哲学や西洋哲学の1テーマ。



エナジーをあらわしている:原文では引用符をつけて‘energy’と表記している。Energyの語源はギリシャ語のエネルゲイアENEPΓ EIAに遡り、エネルゲイアはアリストテレスの哲学で重要な位置を占めている。筆者は「良き生活」も引用していることから、energyをアリストテレスのエネルゲイアと関連させたかったのかもしれない。また、道家の「徳」やキリスト教、サンスクリット、ギリシャ哲学にも少しずつ触れていることから、筆者独自の倫理観や徳倫理観に基づいた考えを述べているのだろう。



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