ratugede

INTRODUCTION
はじめに

Beryl De Zoete & Walter Spies
『Dance and Drama in Bali』
p.1-p.45
1973(Reprint) Kuala Lumpur :
Oxford University Press
Originally published by Faber and Faber Ltd. 1938
ratuayu
その5・ 2008年12月27日更新・ DDBHome
はじめに−その1                p.1〜p.7(32)
はじめに その2               p.7(33)〜p.11(23)
はじめに その3               p.11(24)〜p.16(17)
はじめに その4               p.16(18)〜p.19(25)
はじめに その6               p.22(8)〜p.25(17)


p.19の26行目から

『Dance Style』(前半)

 バリの寺院では、王や女王・王子・廷臣・あらゆる身分の従者たち・魔物たち・猿・卓越した能力を持つドゥルガ女神、といった数え切れないほどの彫像が、それぞれポーズをとっている。もしもそれら彫像が息を吹き返せば、数分間にわたって四肢を動かし、現代のバリ舞踊界から批判されることなく、自分たちの役を果たすことができるだろうに。なぜならば、彫像たちはすでに各々の身分にふさわしい衣装を身につけ、ふさわしいポーズをとっているからだ。彼らの姿は寺院の中の舞台空間であれ、村の中のほこりっぽい舞台空間であれ変わらないだろう。その証拠に彫像たちへ生命を与えてみよう。すると素適な舞踊劇が繰り広げられる。いつの間にか生命を得た王子と2名の従者たちが表現するところによれば、庭にたたずむ恋わずらいの王女を惑わしたとのことである。というわけで、石から肉体への変化は簡単である。そしていつもバリでは木や石はバラバラにすることができる反面、伝統は不変に生きている。P.20→とはいうものの、バリの人びとの「過去を永続させたい」という願望が、数世紀も前に遡るスタイルを、なんどもなんども石像や舞踊で繰り返し表現しているのではない。むしろバリの人びとは目新しいことが好きであるにもかかわらず、新しい態度や感じ方を学ぶ経験があまりなかったからだ。従ってバリの人びとが、遠い昔のもので覆わずに、現在を考えるはずはない。また、バリの人びとが今日の舞台空間で見せる仕草やポーズは、寺院のとても古い石像に類似しているが、それは人びとが持っている宗教儀礼に関する知識にちなむ。宗教儀礼に関する知識は今もなお、一方がもう一方を指図し、演者も観客も同じように精通している舞踊の世界では、宗教儀礼に関する知識が人びとの視線を通して舞踊の行為に目を光らせているのである。同時に、踊り手が持つ技能だけではなく観客の想像力も、おなじみの宗教儀礼へ生気を吹き込み、活気をうながす。また、そのおなじみの儀礼は、人びとの人生にかかわる儀礼と、切り離せないくらい結びついているのである。バリではおそらく「育ちの良い」行儀が、舞踊のゆるぎないテクニックの土台としていつもあるのだろう。そのような「育ちの良い」行儀は、必然の結果として、或る意見を追っ払う。或る意見とは、踊り手は「自分自身」を表現すべきであるというもので、筆者たちにとってもかなり目新しい意見である。しかし、自分自身を表現すべきで、何も飾り立てないことが大事ならば、アラブの女性の気持ちも考えずに「布で顔を覆わずに町へ出かけろ」と言うのだろうか。あるいは「つけ睫をつけなくてもあなた自身に変わりはない」と映画女優へ言うのだろうか。東洋の他の舞踊と同じように、バリでも踊り手は役柄に支配されるものだ。踊り手は舞踊に自分の体を使って踊ることを許し、踊り手の身体は舞踊の媒体として機能する。そのことから、バリではどの程度役柄に支配されているのかが、踊り手への評価の決め手となるのだろう。けれどももちろん、踊り手と役柄の融合は、踊り手個人のインスピレーションといった類のものでただちに発生するのではない。それどころかバリの舞踊は精密な科学であり、その精密さはジャワの舞踊や、インドの舞踊・演劇理論『ナーティヤ・シャーストラNatya Çastra』の系統をひく他の国の舞踊とならぶ。そしてそれらの舞踊のなかでも、ジャワ舞踊はより「古典的」に見えるかもしれない。なぜならばジャワ舞踊では極端に制限されているけども、無限に洗練された数々の微妙な動きを含んでいるうえに、四肢が作るさまざまな角度にとてもうるさいからだ。かたやマラバルMalabar海岸地方のカタカリKathakali舞踊ならば、表現の媒体となる正確で力強い数々のムドラmudrasが生き続けおり、カタカリはそれらムドラに支配されているかのように見える。そしてバリ舞踊は明らかに、ジャワ舞踊やカタカリと同じくらい科学的であり、表現も豊かなのである。バリの舞台空間の豊かな活気は、舞踊劇の構成をたいへん装飾する傾向にあるため、宗教儀礼は即興的に進行しているかのような印象を与える。しかしそのような印象に反して、バリの宗教儀礼は、儀礼が要求するありとあらゆる細かい点に沿っておこなわれているのである。従って、バリ舞踊の見かけの自由さは、中国の筆記体のそれになぞらえることができるかもしれない。中国の筆記体はとても自由で自分勝手な走り書きのように見えるが、そんな見た目にもかかわらず、実際はさまざまな名称の書体や書風に従って書かれており、それ以外の筆記体は古典に通暁していない乱雑で低級な書とみなされる。もしも、育ちの良い中国人へ筆記体について「それには詩趣がありますね?」、つまり「筆記体には詩想がありますね?」と尋ねると、詩を書くことと碁石の置き方に対する自分の関心は同じ程度だといった風情で「筆記体そのものに詩なんてものはないですよ」と答えるだろう。バリの場合、伝統的な舞踊様式を欠いたコメディKomedie/ KomediやスタンブルStamboel/Stambul (脚注:ジャンゲルの章。原著p.214-215を参照という、新しいけども嘆かわしい演劇ジャンルに関して上記のような質問を投げかけると、答えようもなければ無視されるのがおちである。



   バリ舞踊では今もなお、シバ派の僧侶たちが儀礼中に両手で表現するムドラのいくつかと同じ仕草が使われ、ポーズや動きの一連の流れに句読点をつけているように見えるが、それらの仕草は手話と並ぶほどの視覚的な言語ではない。p.21→けれども踊り手たちは専門的な技術をとても正確に磨きあげるため、1つのジャンルの舞踊劇に登場する1キャラクターの登場シーンを描くと、それだけで一章を埋め尽くしてしまう結果になるだろう。たとえば、どのキャラクターも自分の旋律が演奏されると登場する。そして、下は行動やふるまいが「着飾らなさすぎる」キャラクターから、上は非常に気品に溢れる王子に至るまで、どのキャラクターも自身のジェスチャーや歩き方に力強さの陰影をつけ、どんなキャラクターのどんな動きもガムラン音楽のリズムにぴったりと合っている。もちろんどの動きにも名称があり、たいていの名称が動きそのものを説明するものであって、意味深長な名称はない。そして筆者は、少なくとも16種類の動きのアクセントがあることに気づいた(実際はさらにもっと多くあるはずだ)。おびただしい数にのぼる足のアクセント、一連の動きの最後をしめくくるアクセント、重力がかかっている或いは重力がかかっていないアクセント、頭飾りに触れる際のアクセント、衣装をつかむ時のアクセント、頭のアクセント、手のアクセント、そして停止や休止のアクセントである。お辞儀や敬意にもたくさんの種類があり、身のかがめ方も何種類もある。衣装の触れ方や衣装の持ち上げ方も豊富である。前進の仕方も同様に豊富で、落ち着いた様子の進み方や猛烈な様子での進み方、あるいはそれぞれのキャラクターが見せる様式的かつ、微妙に異なった進み方など、多岐に及ぶ。立ち方も同様で、片足や両足を使った立ち方に加えて、立ったときの地面からの高さはどれくらいか、立ちながら腰や膝を動かす或いは静止しているのか、立ちながら揺れているのか、さらには前へ傾きながら立つ立ち方、頭を下げて全身で会話を聞いている様子をあらわす立ち方など、立ち方も豊富にある。そしてどのタイプのキャラクターにも共通することだが、足の動きの種類は数えきれないくらいあるうえに、腕や手の動きと組み合わさった脚の動きも無数にあり、あらゆるポジションをとりながら頭部を動かす種類も数えきれない。頭といえば、頬や口の表情にも無数の種類がある。それから眼の表情の種類は、目を大きく見開く、怒りのまなざし、獰猛な目つきで四方八方を見る、敵がまるでそこにいるかのように見据える、恐怖に駆られている目、目線で距離を測る、優しいまなざし、眠そうな目、だるそうに左右をチラリと見るなど、たくさんたくさんある。また舞踊空間に立てかけられた傘を見つめる様子も、どの役柄が見つめるかによって意味がさまざまに変わる。廷臣たちが見つめる場合は王宮の門や王国を象徴している。バリスの踊り手やバロンが一心に、あるいはイライラしながら傘を凝視している時、誰も知らない謎めいたものを傘が象徴している。



 ヒーローとヒロインの関係にも、あらゆる表現や種類がある。ヒーローはヒロインの肩に触れることに始まって、彼女を優しく口説き、プンギプッ(pengipoek、pengipuk)すなわち愛の行為へと誘う。プンギプッのシーンでは2人は顔を向け合い、緩急自在に踊る。そのとき、ヒーローとヒロインの顔がとても近くなることもあれば、鼻をすり合わせることさえある。またお互いに向け合った顔を滑らせるかのように交互に動かし、時には相手の首へ腕を回して抱擁することもある。しかしヒーローが一時的にヒロインを疎むと、彼はヒロインを葉でできた鞭で打ったり、蹴ったりする。そしてヒロインは女性キャラクターの動きのカテゴリーに属す、「憂いに満ちた表情で泣く」。すなわち、視線も頭もがっくりとうなだれ、実際に涙を流し、鼻をすすり、手で目を覆うといった仕草をおこなう。そのあとは、ヒロインの優美さを示す舞踊が踊られるように設定されており、彼女はさまざまなステップを使い分けて舞台空間をらせん状に進むと同時に、腕と手の美しいバランスも見せる。さて、脚の意匠を凝らした動きの種類も限りない。そのような意匠を凝らした脚の動きは、特定の登場人物や動物にしか見られないものであるが、脚をひきずった歩き方、サイド・ステップ、旋回をおこなう時の脚の使い方、方向転換の際の脚の使い方、足で地面を打つ、まるで火の上で足を運んでいるかのように素早くジャンプする、あるいはジャンプすることなく即座に脚をまっすぐにすることなどが挙げられる。つけ加えると、脚を使って牛たちへ水をかけるという動きも、意匠を凝らした脚の動きというカテゴリーに入る。→p.22なお、単に歩くということを取り上げても、キャラクターごとに様々な歩き方がある。たとえばバリスの歩き方は、ジャウッの歩き方とは異なるものである。とはいうものの、双方の歩き方のスタイルはとてもよく似ているのであるが。まずジャウッの歩き方の特徴は、手袋につけた長い爪を震わせなければならないことである。それはジャウッの歩き方全体に影響を及ぼすので、ジャウッの歩き方の名称はバリスの歩き方の名称とは異なる。そしてマニスmanisなタイプの王が舞台空間に登場するときは、クラスkerasなタイプの王のそれとは異なる。しかし「優形」と「荒男」の中間とでもいうべき、2つの性格が混ざったタイプの王もいるのである。そしてこれがガンブ(Gambuh)舞踊劇の場合なら、さまざまなキャラクターの登場の仕方を記述するだけで、何ページも費やしてしまうことだろう。



p.22の7行目まで


  

訳註


「数世紀も前に遡る」:筆者は喩えとして「数世紀も前に遡る」と表現したと思われる。



インドの舞踊・演劇理論『ナーティヤ・シャーストラNatya Çastra』:音楽に関する記述もある。



マラバルMalabar海岸地方:インドのKeralaケーララ/ケララ州。



育ちの良い中国人:士大夫(したいふ)を指していると思われる。



詩を書くことと碁石の置き方に対する自分の関心は同じ程度だといった風情で
士大夫は琴・碁・書・画の4つの芸からなる琴棋書画(きんきしょが)と、詩の教養を持つのが理想とされた。



Komedie/ KomediやスタンブルStamboel/Stambul
コメディとスタンブルは、コメディ・スタンブル(Komedie Stamboel / Komedi Stambul)劇団やコメディ・スタンブル流バンサワン(Bangsawan)に由来する。 コメディ・スタンブル劇団とは、1891年にフランス系ユーラシアンのアグストゥ・マヒュー(Agust Mahieu)と華人のヤップ・ゴアン・タイ(Yap Goan Thay)が、東ジャワのスラバヤで結成した巡業大衆劇団[田子内1997:143;土屋1992:166-167]である。コーヘンは、「1891年にヤップ・ゴアン・タイがコメディ・スタンブル劇団を設立し、1894年にマヒューが劇団を買収した」と述べている[Cohen 2001:329]。劇団名のスタンブルは、トルコのイスタンブールに由来するといわれているが、どのような関わりがあるのかは不明である。
 コメディ・スタンブル劇団は、大衆演劇の1ジャンルであったサンディワラ(Sandiwara)やフランスのコミック・オペラの要素を導入し、エキゾティックな舞台装置や衣装、アラブやトルコ、ペルシャ起源の演目も取り入れて、芝居だけではなく歌・舞踊・コントも演じた[Kornhauser 1978:131]。(なお、猪俣と田子内は、ベースとなった演劇のうち、サンディワラではなく、当時のマレー半島で流行していた大衆演劇バンサワンを挙げている[猪俣1996][田子内1997]。)猪俣はコメディ・スタンブル劇団の特徴として、「演目に千夜一夜ものが登場したことと並んで幕間ショー(Selingan)の存在を、スマルジョ(Jakob Sumardjo) が著作『Perkembangan Teater Modern dan Sastra Drama Indonesia』(1992)で指摘している」と述べている[猪俣1996:43]。
のちになってコメディ・スタンブル劇団の演目は増え、『白雪姫』『眠れる森の美女』、シェークスピアの『ハムレット』『ロミオとジュリエット』、中国の民間説話『サンピックとインタイ(梁山泊と祝英台)』、マレー系民間説話の『Musang Berjanggut(あごひげを生やしたイタチ)』などもレパートリーに加わった[Kornhauser 1978.:131]。
 コメディ・スタンブル劇団は楽団も擁していた。上演の際にはワルツやポルカ、タンゴ等に並んでクロンチョンKroncong音楽も演奏し、俳優たちが唄った。そして劇団がジャワ各地で巡業をおこない人気を博したこととあいまって、それまではジャワの一部の地域で親しまれていたクロンチョン音楽がジャワの他地域へ伝播し、流行する要因となった[Kornhauser1978、猪俣1996、田子内1997、田中1996]。
 その後1906年にマシューが亡くなるとコメディ・スタンブル劇団は解散したが、コメディ・スタンブル劇団と類似の大衆劇団がジャワ各地でたくさん結成され、それら後発のコメディ・スタンブル系劇団はバンサワンと総称されるのが一般的になった[田子内1997:146]。その背景として田子内はTan Sooi Bengの研究を参考に挙げ「この時期、インドネシアでもバンサワンという用語が使われるようになった背景には、マレー半島のバンサワンが頻繁にジャワ公演を行っていた事実がある。バンサワンは1920年代後半に、マレー半島のみならずスマトラ、ジャワの各都市でも相当の大衆動員力を示していた」と述べる[ibid.:146]。
 後発のコメディ・スタンブル系バンサワン各劇団は、当時バタビア(現ジャカルタ)で人気を博した大衆文学『ニャイ・ダシマ物語(Nyai Dasima)』『チョナット物語(Si Tjonat)』、ヨーロッパの『ヴェニスの商人』などを上演するとともに、座付き脚本家も抱えてオリジナル作品を上演するようになった[ibid.:146]。また、楽団が演奏する音楽も変化を遂げ、西洋の音楽やクロンチョン音楽ばかりではなく、ジョホールやペナンの音楽、インドの音楽、ペルシャの音楽も演奏された[ibid.:147]。巡業地もインドネシア各地のみならず、シンガポール、マレーシア、ビルマ、インド、ヨーロッパに及んだ[猪俣1996:126]。
 従って本章で挙げられているスタンブルやコメディは、コバルビアスが「後に私はジャゲルは近年できたものだと知った。1925年ごろ、マレーの初めてのオペレッタ(スタンブル)一座が島にやってきたときに、突然始まったのである」[コバルビアス1936, 関本紀美子訳1991:275]と述べているスタンブルとおそらく同じものだろう。そしてコバルビアスが挙げるスタンブルも、本書で挙げられているスタンブルやコメディも、マシューが亡くなった後のコメディ・スタンブル系大衆演劇バンサワン、もしくはマレー半島のバンサワンのいずれかであった可能性が高い。
コメディ・スタンブル劇団ならびに後発のコメディ・スタンブル系劇団に関しては、
・Cohen, Matthew Issac 2001「On the origin of the Komedie Stamboel : popular Culture, colonial society, and the Parsi theatre
  『Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde』157(2):313-357
・Kornhauser, Bronia 1978「In Deffence of Kroncong」in『Studies in Indonesian Music』edit.by Margaret Kartomi, pp.104-183.
   (Monash Papers on Southeast Asia No.7), Centre of Southeast Asian Studies, Monash University
・猪俣良樹1996『日本占領下・インドネシア旅芸人の記録』めこん
・田子内進1997「ダンドゥットの成立と発展(1)−近代演劇の成立とオルケス・ムラユ−」『東南アジア研究』35(1):136-155
・田中勝則1996『インドネシア音楽の本』北沢図書出版
・土屋健治1992「アルマナック・ムラユ論」『東南アジア研究』30(2):113-191
・土屋健治1994「スタンブル」『インドネシアを知る辞典』:231-232同朋社
を参考とした。
 コメディ・スタンブル劇団は1892年にジョクジャカルタを興行し、その時の様子を描いたシャイール(Sair, Syair、詩)が1893年度ブニン社(H.Buning,Djokjakarta)版アルマナックに掲載された。土屋は「アルマナック・ムラユ論」(1992)で、そのシャイールの概要を記している。
 猪俣(1996)は、第二次世界大戦中にマレー半島で上演されたバンサワンを観た日本人たちの報告として、幕間ショーでは演目と全く関係のない世界各国の音楽やバリ舞踊、コントが演じられたことも記している。ただし、猪俣も田中(1996:118)も指摘するように、この場合のバリ舞踊はバリ・ガムランで踊られたものではないだろう。また、猪俣の指摘するバンサワンは、後発のコメディ・スタンブル系バンサワンであったのか、あるいはマレーシアのバンサワンであったのか、不明である。
 マレーシアのバンサワンについては、Tan Sooi Bengの研究書『Bangsawan : a social and stylistic history of popular Malay Opera』(1993)が欠かせないが、入手することができなかった。
 また、2006年にMatthew Issac Cohenが発表した研究書『The Komedie Stamboel : Popular Theatre in Colonial Indonesia, 1891-1903 』Ohio University Pressも未読であるが、コメディ・スタンブル劇団に関する貴重な研究書に違いない。



「憂いに満ちた表情で泣く」:引用元不明。文脈から察して、ヒーローをプリンス・チャーミングに、ヒロインを白雪姫やシンデレラに重ね合わせていると思われる



マニスmanisなタイプの:優形、あるいは優型。



クラスkerasなタイプの:この場合は荒雄、もしくは荒男。



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