九州インド哲学

インドの宗教・文化、インド哲学・仏教学、九大印哲に関係する情報の個人サイト

PHOTO by KEI KATAOKA
■ サンスクリット語を学ぶ意義

九大文学部インド哲学史講座では「サンスクリット語をマスターすること」を軸にカリキュラムを編成しています.なぜ,「サンスクリット語を学ぶ」ことが必要なのでしょうか?インドの宗教や文化を理解するのに,サンスクリット語を学ぶことはそれほど重要なのでしょうか.日本語や英語ができれば十分ではないのでしょうか?あるいは,どうして現代語であるヒンディー語などではないのでしょうか?

また,インドで起こった仏教を理解するのにどうしてサンスクリット語が重要なのでしょうか?漢訳や和訳などの翻訳を通して理解すれば十分なのではないでしょうか?時間をかけてサンスクリット語を習得する意義はどこにあるのでしょうか?

■ サンスクリット文化について

サンスクリット語(および関係する俗語プラークリット)では多くの文献が残されています.他のインド諸語を圧倒しています.時間的にも空間的にもです.範囲としては,ヨーロッパ大陸にも比すべき広大・多様なインド亜大陸全体に渡っています.またカンボジアにも碑文が残っています.時間的にもヴェーダ聖典は紀元前1000年から残されています.また,紀元前4世紀以降,文法家パーニニによりその文法が固定化されたことも大きな要因です.つまりパーニニ文法を押さえていれば,パーニニの時代から近現代に至る様々なサンスクリット文献を「文法的に正しく」読むのに用は足りるのです.

サンスクリット語を学ぶのは,まずもって,これらサンスクリット語で著され残され伝えられてきた多くの文献へのアクセスのためです.それらの文献は,当時のインド社会・文化にとって支配的な価値観や意見を表明しています.そして実際の文化を推測し再構築するのに重要な文献証拠を提供してくれるのです.古代インドの文化を学ぶための「文献学」の重要性がここにあります.

「古典のサンスクリット世界と現代インドとは無関係ではないのか」という疑問があるかもしれません.われわれ日本語話者にとって『古事記』や『日本書紀』,『枕草子』や『源氏物語』は古典として重要ではありますが,どの程度,実際の考え方に影響を及ぼしているのでしょうか.あるいは,どの程度,我々の発想法を代表しているのでしょうか.

しかし,この比喩をインド世界にあてはめることはできません.テレビシリーズの『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』を通じて,古典の世界は現代インド人の価値の世界において,むしろ強調される傾向にあります.ヒンドゥー原理主義の傾向は,古典の価値観を称揚しています.古くアーリヤ・サマージは「ヴェーダに帰れ」という復古主義を唱えました.ネオ・ヒンドゥイズムと総称される運動において,後8世紀の宗教家シャンカラによる一元論の影響は看過できないものがありました.またイギリス統治時代に,サンスクリットの法典である『マヌ法典』の世界が「ヒンドゥー教徒」の統治のために現実化するという動きもありました.良くも悪しくも,サンスクリット文化は「復古主義」の対象となって現実に影響力を持ってきたのです.これらは「外から与えられた」というよりは,インド社会・文化の中に生きる人々の思考に内在していたものが喚起され・方向付けられたと見なすことができるでしょう.

混沌としたインド世界.その多様性を整理し,その中に何らかのストーリーを与えたいというのがインド社会を眺める多くの旅行者の思いでしょう.実際,様々な時代の文化の堆積として,現代インドの宗教・文化を眺めることが可能です.宗教儀礼一つを取ってみても,その中には様々な要素が溶け込んで,一つの全体を形成しています.「オームむにゃむにゃスワーハー」とバラモンが唱える多くのマントラ(真言)がヴェーダから取られています.3000年前のテクストです.後7世紀以降,アーガマといわれる聖典を整備し,王侯に寄進された寺院を中心に影響力をもつに至ったシヴァ派の影響もそこかしこに見られます.それらを時間軸に沿って整理するのにサンスクリット文献の知識は欠かせません.

熱烈な神への信仰表明であるバクティ運動も,地方語とともにサンスクリット語でも形にされています.ヴィシュヌ神信仰の重要な聖典といえば『バガヴァッドギーター』や『バーガヴァタプラーナ』です.さらに影響力をもった『ギータゴーヴィンダ』もサンスクリット語で著されています.「バジャン」や「キールタン」と呼ばれる集団での朗誦において,依然,サンスクリット宗教文献は重要な位置を占めているのです.『ラーマーヤナ』は,ヒンディー語の『ラームチャリットマーナス』や様々な地方語ヴァージョンを通して東南アジアに至るまでインド文化圏に伝播しています.ヒンドゥー原理主義者が「ラーマの理想の統治」を叫び「ダルマの価値観」を叫ぶのも,大衆の中にそのイメージ図式が出来上がっているからこそです.

このように,いわゆる「ヒンドゥー教徒」の価値観を知るのに,サンスクリット文化は第一の参照点となるのです.各時代の思想を代表する多くのテクストと広範な影響力.それがサンスクリット語の重要性を高めているのです.

■ サンスクリット語それ自体の面白味

現代世界において英語が支配的なのは「英語が優れた言語だから」ではありません.これと同様に考えると,サンスクリット語が重要なのは「サンスクリット語が優れた言語だからではない」と言えます.しかし,サンスクリット語それ自体が,他の言語に比して興味深い言語であるというのも否定しがたい実感です.多くの言語学者がサンスクリットに魅せられてきたのは,印欧語族に占める位置だけではなく,サンスクリット語そのものの魅力による所が大きいと思いますがいかがでしょうか.

さらにサンスクリット語を明晰に分析してきたパーニニ等,インド文典家の努力も無視できません.サンスクリット語を分析するためのメタ言語が発達しているのもサンスクリット語の特徴と言えるでしょう.言語学者ソシュールの博士論文は「サンスクリットの属格」についてでした.サンスクリット文法を伴ったサンスクリット語は,実に強力な思考のツールとなりうるのです.インド哲学文献を読めば分かりますが,ある概念を展開するにあたって「語源分析」が大きな役割を果たしています.言葉は思考世界において現実に「力を持つもの」なのです.そしてサンスクリットは,その思考過程を表にし明示するのに便利な言語と言えます.色彩を区別するヴォキャブラリーが豊富であれば,それらの色を明示的に区別するのに便利です.同じように概念を区別するヴォキャブラリーが発達し,そのための分析言語が豊富であれば,思考を分析するのに大きな力を発揮してくれます.サンスクリットはそのような言語の一つであると言えます.

ギリシャ語・ラテン語と並ぶ古典語として重要な位置を占めるサンスクリット語,それは,それを取り巻く分析言語と相まって,その魅力を高めているのです.

■ 仏教を学ぶために

現代日本には仏教に関する本があふれています.いまさらサンスクリット文献をひっくり返す必要がなぜあるのでしょうか?また,仏教のテクストを集成し,経・律・論をおさめる大蔵経は漢文です.漢文さえ読めれば,わざわざサンスクリットに帰る必要があるのでしょうか.

しかし,沢山の情報があふれ,何が真実かが見えにくくなればなるほど,一次ソースに遡る作業は一層重要となります.「本当のところ,釈迦は何を言ったのか」「実際,インドにおける仏教はどうだったのか」というように,仏教を根本に遡って考えようとするとき,サンスクリットの知識は欠かせません.伝言ゲームを見るまでもなく,末端に行けば行くほど,情報というのは不確実性を増します.人の意見を鵜呑みにせず,自分自身で思想を確認し納得しようと思えば,サンスクリット語やパーリ語で書かれたテクストに自分であたることが重要です.日本における「印哲」の歴史は,「漢文を通した仏教」に満足せず,それも有効に活用しながら,インドに始まる仏教の実際を再構築しようとしてきた作業の歴史なのです.

孔子に迫ろうと思えば漢文を学ぶでしょう.ユダヤ教に迫ろうと思えばヘブライ語を学ぶでしょう.インドに始まる仏教の本当のところはどうなのかを知ろうと思えばサンスクリット語を学ぶべきなのです.アメリカやイギリスを旅行しようと思えば,英会話もできるようにと昔習った英語を磨き直すでしょう.ドイツやオーストリアを旅行しようと思えばドイツ語を知らないと不便です.インドに始まる仏教ワールドを散策しようと思えば,サンスクリット語を知らないと窮屈な思いをするだけでなく,思わぬところで道に迷ってしまいます.思索と言語が密接に関わっていることを思えば,サンスクリット語の思考法を知っておくことはインドの仏教を知るのにきわめて本質的なことなのです.

情報が氾濫する時代だからこそ,いっそう自分自身の目を磨き,情報ソースに直接にアクセスする力を鍛える必要があります.