九州インド哲学

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PHOTO by KEI KATAOKA
■ インド哲学研究の現状

西洋哲学を見ると,哲学・哲学史の概説書はいくらでもあり,すぐれた邦訳もあり,さらに,日本人自身がかみくだいて書いたものも数多存在します.そして,それらを材料として自分自身の中で「哲学する」ことは,日本語の中でも可能になっています.デカルトやカントのテクストは西洋人研究者により厳密に校訂され,何ヶ国語にも翻訳され,日本語でも手軽に読むことができます.専門的な研究書は枚挙に暇がないほどです.学界には堅固な常識が存在し,日本人研究者一人が立ち向かったところで,その全体像が覆されるようなことはないでしょう.

翻ってインド哲学(思想・宗教)研究はどうでしょうか?まず圧倒的に研究者の数が少ないのに気がつきます.

では,研究者の数に応じて,研究対象も少ないのでしょうか.現存する文献の量は,わずかなのでしょうか.否.多くが失われたとはいえ膨大な量のサンスクリット文献が残っています.時間的にも空間的にもサンスクリット文献の幅は圧倒的です.南アジアの隅々にまでバラモンは散らばっています.そして紀元前1000年頃からヴェーダを始めとする文献を残してきました.では,それらは西洋哲学のように研究されてきたのでしょうか?

まずサンスクリット写本調査はどうでしょうか?有名なTheodor Aufrecht(1822-1907)の『カタログのカタログ』(Catalogus catalogorum) が出たのが1891-1903年.写本情報を記載するカタログを総合して写本情報をテクスト毎に簡潔にまとめたものです.

それ以降に出版された写本カタログをも収め,Aufrechtを補うべくマドラス大で始まったのが『新カタログのカタログ』.独立前に開始されましたが本格的に始まったのは1960年代以降です.しかし,その作業も最近は遅滞し,aから始まった巻も第14巻のBhaで中断しています.しかも作業開始以後に出版されたカタログについては当然そこには収録されていません.

研究者は,いまだ欧米やインド各地の写本図書館から出版されたカタログをチェックし,各人の研究するテクスト写本について,その情報をまとめざるをえないのです.わたし自身,聖典解釈学関係の写本を調べようと思ったとき苦労しました.というのもMの項は『新カタログのカタログ』からは出版されていなかったからです.

また日本特有の問題もあります.これまでの日本のインド哲学研究においてサンスクリット文献のテクスト校訂や写本調査は主要関心事ではありませんでした.インドで出版されたテクストを用いて,それを和訳・解釈するというのが日本人が行ってきた作業です.結果として写本カタログ類は日本の図書館には余り整備されていません.このようなカタログ類は個人で揃えるには膨大すぎるものです.しかも現在では手に入らないものも多くあります.結果として日本にいながらにしてサンスクリット写本情報をそろえるのは非常に困難にです.

オックスフォードのボードレイアン図書館(下写真).最上階にインド関係のフロアがあります.コピー機の裏の三畳ほどのスペースの三方壁一面が写本カタログで占められています.知らなかった写本の所在を確認しながら,いつかインドに取りに行きたいと心躍らせたものです.そのような作業に辿り着くまでに日本研究者は更に一段,努力をしなければならないのです.

Bodleian Library またボードレイアンには多くのサンスクリット写本が所蔵されています.地上階フロアで注文すると現物が出てきます.白黒のマイクロフィルムで見ると黒く潰れている箇所も現物ではきれいに見えます.やはり本物と複製とは違います.このような現物で訓練を経るのと経ないのとでは大きな違いです.

いい加減なインドの出版を前にして写本に今一度あたることは必須の作業です.不完全なテクストを元に,どうして内容が理解できるでしょうか?このような作業はインド哲学におけるほとんど全ての基本典籍に当てはまります.

また一見して正確に読めるテクストも,今一度疑う必要があります.サンスクリット文献の正誤を判断できる優秀なインド人エディターほど勝手に写本の読みを「正しく」訂正している可能性があるからです.わたしが関わった註釈テクストでも,そのような事がありました.新たに発見したもう一つの写本と比べて異読の多さにびっくりしました.

また,いまだ出版されていないものも多くあります.各人がインド内外の図書館から写本を取り寄せなければなりません.インドの図書館の多くは郵便注文など受け付けてくれません.直接行くしかないのです.暑い中,お役所仕事の図書館員が,わざわざ郵便に応じて仕事するわけありません.もちろん例外はありますが.

写本がなければ校訂のしようもありません.インドで出版された多くのサンスクリット文献は異読のアパレイタスを付していません.「読めればいい」という考えなのでしょうか.写本に実際に何が書いてあったのか,はたしてこの読みはエディターの訂正なのかどうなのか,他に異読があったのではないか云々,異読表のないテクストを前に途方にくれてしまうことはしばしばです.途方にくれるならまだしも,全く疑いもしなかった読みが実は間違いかもしれないのです.

インドから船便で数ヶ月,ようやく取り寄せたテクストも,実際には,このようないい加減なものかもしれないのです.私が研究したあるテクストは,インドから10刊本が出版されています.しかしよくよく調べてみると,後から出たものは前のものの複製です.つまり,最初の一刊本だけが写本に基づいて校訂されたもので,その後に出たものは,そのテクストをそのまま取ってきて適当に訂正を加えたり,悪いことには新たに誤植を加えたりしたものなのです.

では,その最初の刊本は,それほど信用できるものなのでしょうか?インドの多くの出版は,入手できた数本の写本を校合したものです.そして,しばしば写本のヴァライアティーは限られています.つまり,カルカッタの二写本だけとかベナレスの二写本だけとかです.しかし写本の系統を考えると,できるだけ地域に幅を持たせる必要があります.北インドと南インドの写本を比べると,系統だって分かれているのに気づくことがあります.

写本の親子関係というのは複雑で,必ずしも一写本が一写本に継承されるわけではありません.混交はいくらでもありえます.したがって単純に系統樹を打ち立てるのは理論上は不可能です.どこにどんな読みが眠っているか単純に予測はできません.

また校訂というのは突き詰めれば「間違いを直す」という単純な作業ですが,その単純な作業を行うのは容易ではありません.我々は朝刊を広げて間違いを見つけたとき,容易に,あるいは,ほとんど無意識に間違いを正します.なぜそのような作業が可能なのでしょうか.それは,我々の日本語感覚や日頃の言葉遣いや一般的な知識といったいわば「常識」に基づいています.普通の日本語話者なら「おかしい」と気づくのです.

しかし海外で生まれ育った人にとって,そのような言語感覚・日常感覚を身につけるのが容易でないのは想像に難くありません.言語感覚はもちろん,政治・経済・文化といった「日本にいる人なら誰でも知ってる」ような内容をフォローするのは大変なことです.

同時代ならともかくも,千年以上も前のインドのテクスト,しかも専門家が専門家に向けて書いたものです.一般読者というものは想定されていません.テクニカル・タームの応酬です.全て自明のこととして書かれています.

伝統的な教学のうえに,すこしずつ自説を織り交ぜながら展開していくのがインドのスタイルです.それは,ほとんどの場合,註釈という形をとります.伝統を擁護しながら,その実質を時代に合わせて微妙に変えていきます.最後には原文が意図していなかったものまで「読み込ん」でいきます.はてには原文とは全く逆の意味にまで取ることもあります.

私の研究する聖典解釈学経の第三スートラには「法源を考察すべし」とあります.しかしある註作者は「法源を考察する必要はない」と否定辞を補って解釈します.否定辞をくっつけて全く逆の意味にとっているのです.インドの註釈を読んでいると,このようなウルトラCにお目にかかることしばしばです.註釈者の意図を推測し,それ以前の伝統と当時の状況の狭間で苦労する注釈家達の台所事情を推し量るのは楽しいものです.

理想的には,現代の研究者は作者が持っていたであろう当時の「教養」や「常識」を知っておく必要があります.つまり作者が読んでいたテクストを押さえておく必要があります.その上で,自分のサンスクリット感覚に照らしてテクストを訂正あるいは校訂しなければなりません.

そして,このような作業は,インド哲学文献に関してほとんど為されてきていないのです.信頼できる出来合いのテクストがあるデカルトやカントとは大違いです.あるいは手稿にまで遡って研究する必要のあるウィトゲンシュタインを例に取ると分かりやすいかもしれません.

しかし,インドの場合,作者は千年以上も昔,そして,数百年前に書かれた写本はインドの各地に点在します.ウィトゲンシュタインの手稿のようにCDでまとめて出版というようなこともありません.各地の図書館を回らねばならないのです.役所仕事の図書館が機能するのは大概,11時から5時の間.その間に図書館入り口のガードマンに入れてもらい,証明書とアプリケーションを出し,図書館長のサインを得て,実際にコピーする人をせかさねばなりません.わたしは,一箇所につき一週間の余裕を見るようにしています.それでも成功すればいいほうです.交渉の半ばで断念することも頻繁です.またコピーの許可が出ても,コピー機が動かないのはしょっちゅう.ひどい場合には停電で街中のコピー機が停止しています.お手上げです.

テクストがそのような状況です.インド思想史の再構築が困難なのは言うまでもありません.私の専門とする聖典解釈学をとってみても確立された思想史というものはありません.そもそも各論師の年代からして怪しいのです.その関係や発展を描き出すのは容易ではありません.正確な通史を描くには,まだまだ問題が山積みです.同じようなことは,他の領域にも当てはまります.

隣接する仏教論理学はどうでしょうか?思想史を描くのに,ディグナーガとダルマキールティが重要なことは言うまでもありません.しかしディグナーガの主著のサンスクリット原文は失われています.不正確なチベット語訳が,これまではあるだけでした.最近になってジネーンドラブッディによる註釈が発見され,現在,出版に向けて作業が続けられています.ディグナーガの位置づけが明らかにされるのは,まだまだ先のように思われます.不正確なチベット語だけでは,やはり思想史上の位置を確定するには不十分です.註釈から回収されるディグナーガの生の言葉(PDF版)が彼の新たな面を照らし出してくれることを願っています.それはディグナーガを批判する聖典解釈学者クマーリラの位置を測定するにも非常に重要なことなのです.

写本調査,テクスト校訂,思想史研究が以上のような有様です.準備のないまま思想研究に飛び込むことが,どのような結果を生むのか想像に難くありません.

難解なサンスクリット原典を読みこなしながら,かつ,哲学のグルーブを伝えているような研究書には滅多にお目にかかりません.しかし,それが不可能だとは思いません.が,テクスト研究や思想史研究といった多方面の仕事を,一人で引き受けた上でなければ,その作業は難しいと思います.二次資料に乗っかって仕事をするのは,インド哲学ではまだ危険です.どの分野でも同じでしょうが,「一次資料から(再)出発すること」が肝要です.そして「一次資料」が資料収集や資料批判を前提とするのも,やはり,どの分野でも同じことでしょう.ただし,インドの場合,資料を収集するにも文字通り「汗をかか」ねばなりません.