会津人 山川健次郎

東京帝国大学、京都帝国大学、
九州帝国大学の総長を歴任
明治の魂ここにあり

2008.2


<会津の山川三兄妹>

先年、会津を訪れた際、山川三兄妹の存在を知った。

再度の訪問も含めて、その後彼らに関する資料を集めたり、書物で読んだりした。幕末の会津は過酷な運命に翻弄された。武士道の精神が他のどの藩より徹底され、日常的に厳しい鍛錬を受けた会津武士団。かれらが正義と信じて戦った戦だが、どこでどうなったのか分からないうちに逆賊の汚名を着せられていた。

往々にして幕末と明治維新は薩長土肥の英雄伝として語られることが多い。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、坂本竜馬、伊藤博文・・・・・。
 しかし勝てば官軍、負ければ賊軍という結果を単純にインプットされてしまうと、歴史認識を誤らせることが多い。したがってここでは、薩長・維新政府の立場ではなく、会津側に立って会津の悲劇と、その逆境にもめげずに活躍した三兄妹のことを少し書いてみたい。

もう1年早く生まれていたら、謹厳な教育者山川健次郎の後半生はなかった。
 幕末の会津に誕生した山川は他の会津の武家がそうであったように自己犠牲の精神を徹底的に教育された。あの会津戦争における白虎隊の飯盛山の惨劇もその結果だといえる。山川も、その当時1歳若かったために白虎隊に入隊できず(後に入隊するが)、地団駄踏んで悔しがった。がその結果彼は生き残った。神が生き残って世のため人のためにがんばれ、と彼を救ったのかもしれない。

<山川健次郎・概略>

明治、大正から昭和の初期にわたり『星座の人」と呼ばれた教育界の大御所がいる。社会を導く人という意味である。その人の名前を、山川健次郎という。生地は会津若松で、嘉永7年(1854)の生まれ。幼少の頃はあの有名な白虎隊の隊士だった。17歳のときアメリカ留学の機会に恵まれ、名門エール大学に学び、長じて東京帝国大学に奉職し、薩長藩閥政府の中で二度も総長を務めた。これは異例中の異例といってよい。

日本人初の東京大学の物理学科の主任教授であり、湯川秀樹、朝永振一郎ら日本の物理学者は皆、健次郎の流れをくむ。
 山川健次郎の生家は、会津鶴ヶ城の北出丸に面した本二ノ丁にあった。山川家は代々、3百石の中級武士の家柄だったが、祖父兵衛の時代に家老に取り立てられ、以来、家老職の家格だった。父重固は郡奉行を務めたが、安政7年に病没し、以来、兄大蔵(おおくら)が家督を相続したが、兄は不在がちで、この家は祖父が家長といってよかった。祖父はもう80になっていたが矍鑠(かくしゃく)たるもので、杖を突いては城下を歩き回り、昨今の動きを聞きまわる日々だった。

健次郎も兄弟は多かった。母は子供12人を生み、5人が夭折したが、健次郎を入れて7人が育った。一番上の姉双葉(25)、その下が兄の大蔵(23)、二番目の姉美和(20)、三番目の姉操(17)、健次郎は15歳で下に妹が二人いた。常盤11歳、咲子9歳である。咲子は後に捨松と改名する。(慶応4年=1868会津戦争当時の年齢)
(2008年2月21日)


<会津藩と幕末という時代>

慶応4年の正月から会津藩は未曾有の困難に遭遇していた。“京都守護職”という聞きなれない役職は、京都で騒乱を起こす脱藩の浪士たちを取り締まるべく新たに編成された武力集団だった。
 家老西郷頼母はこれに反対した。「薪(たきぎ)を背負って、火の中に飛び込むようなものだ」 と。しかし幕命であり、断ることは出来なかった。
 それから6年、事態は意外な結末となった。薩摩長州が同盟を組んで倒幕に転じ、将軍慶喜が大政を朝廷に奉還した。

幕末の会津藩の行動は純粋無垢のものだった。薩摩や長州が台頭して、反幕運動を繰り広げ、京都が騒乱状態になったとき、会津藩は家訓の存在によって京都に上る羽目になった。担ぎ出したのは徳川慶喜や越前藩主の松平春嶽だった。
 「松平容保は魂の清らかな、立派な人だった。藩祖保科正之公(家光の異母弟)の家訓を守り、京都守護職として懸命に努力したのだ」
 しかし歴史は残酷だった。徳川慶喜らは情勢が悪化すると、すべての責任は会津にあると罪をなすりつけ(会津からはそう見える)、自分たちは生き延びた。

西郷や大久保ら薩長新政府首脳は慶喜恭順で、振り上げたこぶしのやり場に困り、徹底的に会津を討伐する方針を固めていた。会津が恭順する条件は主君容保の死罪、城の明け渡し、領地の没収であった。飲めるはずもない過酷な要求だった。なにが何でも会津を戦争に追い込むというのが、薩長のやり方だった。

 (徳川幕府は会津一人に罪を負わせてしまった。慶喜は水戸の出身で、黄門様が始めた水戸学〈≒中華思想〉の信奉者だったがために、“天皇への逆賊”の汚名を着せられるのを避け、戦わずして逃げた。会津の立場に立てば、黄門にも結果責任がある。)

会津が京都に上った頃、勤皇の志士を称する彼らの行動は“支離滅裂”なものだった。尊皇攘夷を掲げ、京都の町を荒らしまわっていたが、その理屈たるや日本は神国であり、大砲や軍艦などなくても大和魂で突っ込めば、外国など怖くはないという(太平洋戦争に似た)子供じみたもので、笑止千万だった。
 にもかかわらず開国を主張した幕府、会津を腰抜けとこき下ろし、誹謗中傷の数々を行った。

 ところが下関や鹿児島湾で外国の軍艦と戦い、その威力を知るやころりと態度を変え、たちまち開国に転じた。それならそうと挙国一致で新生日本の建設〈公武合体〉に協力すべきなのに、今度は天皇を担ぎ上げて、幕府を倒し、やり放題の体制を作り上げた。
 〈悲しいかな、革命というのは悲劇とわかっていても、血を血で制する結果がないと終わらない。坂本竜馬は薩長をつつくことで、結果、演繹的に言えば太平洋戦争敗北にいたる種をまいた。)
 会津にすれば、「吾々だけが、幕府に殉じ、何千という人々が戦死し、国を失ったのだ」。


<会津戦争の惨劇>

健次郎の兄大蔵(おおくら)は大砲隊員だった。慶応2年幕府の外交使節小出大和守の随員としてヨーロッパ、ロシアに派遣され、西洋文明を学んで帰国したばかりだった。
 「孝明天皇は会津に最も信頼を寄せていた。それが朝敵の汚名を着せられてしまった。薩長の奸賊め、目にものを見せてくれん」

会津の軍制は洋式で、年齢別に区分されていた。18歳〜35歳の最強部隊を朱雀隊、36歳〜49歳を青龍隊、50歳以上を玄武隊、15歳〜17歳を白虎隊とし、これに砲兵隊、遊撃隊などを加え3000人で正規軍を編成した。

奥羽列藩同盟が結成され、仙台藩や米沢藩も会津の強さを頼んで同盟を結成した。そのころは勝てるという自信もあり、意気盛んであったろう。また同じ東北人への同情の精神もつよかっただろう。しかし、その会津が劣勢に立たされるや彼らは及び腰になり、弱腰の本来の東北人に成り下がってしまう。

大蔵は4月下旬、日光口で旧幕府陸軍の大鳥圭介と会った。お互いに一目見て好きになった。「山川氏は会津藩の若年寄で、小出に従ってオロシャに行ったり、西洋文化を一見してきた人物である。学問もあり、性質が怜悧で、余は一見してともに語れる人物と判断し、百事打ち合わせを行い、大いに力を得た」と日記に印象を記している。

624日、白川に近い棚倉城が敵の手に落ちた。729日には二本松城も落ちた。同じ日、会津がもっとも頼りとする越後の長岡城が陥落した。

健次郎の姉たちは白八巻、たすきがけで長刀(なぎなた)の稽古を始めた。
 「ええい、やああ」
 長姉の双葉の掛け声がとくに凄かった。
 祖父は健次郎に「会津の男は卑怯であってはならぬぞ、敵の一人も叩き切ってお殿様のために尽くすのじゃ」
 「卑怯な振る舞いをしてはならぬ」
 それが会津武士の鉄則だった。たとえ15歳であろうが、国家存亡の危機に立つ今日、死ぬ覚悟が必要だった。どこの家からも黄色い声やしわがれた声が響いた。成人男子は皆戦場に出ており、留守を預かるのは老人と女子供である。老人も婦女子も子供も刀や槍、なぎなたを手に悲壮な覚悟で訓練に励んだ。

会津には、女は敵に恥をさらしてはならないという教えがあった。仮に敵兵に陵辱されるようなことがあれば、それは末代までの恥であり、その前に自決することが武士の妻女の作法とされていた。
 自決の方法も決まっていた。両足を結んで着物の裾が乱れないようにし、喉を懐剣で刺すのである。山川家は兄の言いつけによって家族全員、最後の最後まで戦うことに決めていた。

<官軍の会津城総攻撃>

822日、この日の会津藩の女たちの活躍は目を見張るものがあった。狼狽している男たちを尻目に、山本八重子(のちに新島襄と結婚、同志社設立に尽力)は着物も袴も男装で、両刀を腰にさし、元込めの7連発のスペンサー騎兵銃を抱えて城に入り、近づく敵兵に銃弾を浴びせた。
 弟の三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、敵を撃たんと弟の衣装を身につけての入城だった。

この日、会津城下は約千戸の家が焼け、戦死者は数百人にのぼり、藩士家族の殉職したものが230余人を数えた。

茂四郎も真っ青な顔をして城に入ってきたが、彼の家では祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人は足手まといになるとして懐剣でお互いに首を刺し、叔父柴清助が介錯して家に火を放った。
 壮絶というほかなかった。

家老西郷頼母の家では白装束に身を固めた母律子、妻千重子ら婦女子全員が喉を突いた。その他・・・こうした話しは枚挙に暇がなかったあまりにもむごい話であった。会津城下は地獄の町と化していた。

白虎隊の少年たちも飯盛山で、空腹と疲労で戦況を見誤って死んだ。20人のうち19人は絶命し、一人飯沼貞吉だけは通りがかった老婆に助けられた。飯沼が蘇生したおかげで彼らの行動が明るみに出た。忠烈白虎隊が世に流布されたが、若い命を失った彼らは哀れだった。

<籠城の苦心と降伏調印>

『夫人世界』に山本八重子の手記が残っている。
 「一番、心配でたまりませんでしたのは、厠に入っているときでございました。武家の夫人として一矢も報いずに犬死するようなことがあっては、主君に対しても家名に対してもまことに恥ずかしいわけですから、たとえ流れ弾に当たって死ぬまでも、戦えるだけ戦って、立派な最期を遂げたい一心でございました」

玉砕を避けるという最後の決断に当たって大蔵を支えたのは京都時代の公用方・秋月悌二郎だった。秋月は米沢藩や土佐藩の陣営を尋ね、決死の覚悟で停戦交渉を進めた。

降参すれば皆殺しになるのではないか(太平洋戦争の日本の状況に似ている)、城内に不安も広がったが、秋月らは主君と家臣の命の保障と引き換えに降参するという難しい交渉を見事にやってのけた。

 そして降伏調印式の後、ここに座った重臣たちは緋毛氈をを切り裂いて各自懐にしまった。この怨念を忘れないぞという誓いのしるしでもあった。


<維新の後>

この時代、富国強兵を目指す日本は海外に留学生を送り、海外の知識を吸収し、強国日本を作ろうとしていた。健次郎は北海道開拓の枠によって選ばれた。提案者は北海道開拓使次官の黒田清隆だった。

健次郎はエール大学に合格した。理学校はニューへブンの町にあった。ここは当時のコネチカット州の1年交代の州都で人口75000人、豊かな牧草地に恵まれ、貿易港も持っていた。
 
のちに妹の捨松もここに留学してきて、しょっちゅう顔を合わせることになるが、健次郎にとっての救いは有色人種へのリンチがないことだった。

明治411月、妹の咲子が捨末と名前を変え、日本初の女子留学生としてアメリカにやってきた。まだ12歳の少女である。最年少の津田梅子〈津田塾の創立者〉はなんと8歳だった。
 
捨松がワシントンからニューヘブンへやってきたのは、明治5年の晩秋で、静岡県出身の永井繁子と一緒だった。
 
捨松は健次郎の胸に飛び込んで泣いた。
 
その後捨松はアメリカナイズされていき、日本語を忘れるようになる。

健次郎の運命を考えてみると、さまざまな人の世話になり、その支援によって勉学の道を開いてもらった。会津戦争では敵であった長州の奥平謙輔と前原一誠、明治政府によって移転を余儀なくされた下北半島の斗南藩、薩摩の黒田清隆、そしてアメリカにおけるハンドマン夫人と。
 
しかし健次郎の肩には常に会津藩が重くのしかかっていた。かれには会津に対する責任感と、怨念を晴らさずにいられないという信念があった。

健次郎がバチェラーオブ・フィロソフィー、理学士の学位を得て4年半に及ぶアメリカ留学を終えたのは明治8年(18755月だった。(22歳)
 
アメリカはまぎれもなく世界文明の先駆者であったが、その反面、暴力がはびこり、黒人に対するひどい差別があり、それらが渾然と入り混じった不平等な社会であった。だが、理不尽が度を越すと、市民運動が広がり、権力者に立ち向かう勇気があった。

帰国した健次郎の就職先は東京開成学校の教授補で、明治91月から教壇に立った。
 
この学校は幕府の学問所蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に端を発する洋学校でいったん閉鎖されたのが、明治2年に復活した。大学南校と呼ばれた時期もあり、やがて東京帝国大学となる。

そのころ兄山川浩(大蔵改め)は土佐の谷干城の勧めで陸軍に入り、陸軍裁判所に職を得た。そこに征韓論が起こり、一触即発の事態となった。

<萩の乱と奥平の斬首>

長州藩は戊辰戦争で奮戦した戦死者に対する香華料がたったの3両しか払わず、反乱分子に不満がたまっていた。参議の木戸孝允は兵を以て反乱分子を鎮圧する強硬姿勢を打ち出し、それが萩の乱となって爆発した。
 
「木戸は日本精神を忘れ、西洋を模倣し、急速に近代化を進める君側の奸である」
 
結果、健次郎の支援者であった、奥平謙輔と前原一誠の二人〈木戸に反抗)は捕われ斬首される。健次郎にとっては断腸の思いであった。

<西南戦争勃発>

西南戦争が勃発すると、健次郎は岩倉具視の呼び出しを受け、「会津から兵を募り、薩摩征伐に行ってくれ」と要請された。(岩倉は食えない。食えない公家の典型である。)
 これは健次郎にとっても不快だった。岩倉は謀略を尽くし倒幕に奔走した人間である。どれだけ会津が苦しめられたか、その張本人である。しかしながら兄大蔵にさとされて参戦し、みごと熊本城突入に成功した・・・。
(西南戦争では多くの会津人が進んで参戦し、会津戦争の怨念を晴らしたという記述が残る)




山川健次郎
<1854〜1931>




田中舘愛橘
<1856〜1952>

明治10年、東京開成学校は東京大学(旧制)に改変され、健次郎は東京大学理学部教授補に横滑りした。

本格的な教育者としての生活が始まった。
 
明治の教育者としての使命は、欧米と対等の立場でものがいえる人物を育てること。敗者の屈辱を身をもって経験した健次郎教授補は真剣だった。
 
まずかれが出会った人物は、南部藩出身の田中舘愛橘(あいきつ)。南部の武士も、会津に協力して秋田に裏切られ、人々は両刀を取り上げられ、月代をそることも禁じられた。田中舘も、悔しくて何度も泣いた。会津も南部も汚名を雪辱する必要があった。
 「必死にやらねば親から(その責任を問われて)殺される」 寝る時間も惜しんで勉強をした。
 
こうして東京帝国大学物理学教室は、会津藩と南部藩という異例の師弟コンビで始まった。共通の反骨精神があった。

更に新しい才能が加わる。
 長岡半太郎は長崎県大村の出身。目元の涼しい端正な顔立ち、物理学を専攻したいという意思は、当時としては珍しかった。父・長岡治三郎は岩倉具視とともに欧米を視察してきた人で、相当の知識人だった。半太郎は父より、将来のために英語を学習せよと、厳しく育てられており、本人は、西洋に追いつくには理科が大切だと感じていた。
 
健次郎も田中舘も半次郎に愛情を注ぎ、育てた。半太郎もよく勉強した。明治の日本人の勉強は家族も含めて死に物狂いだった。
 (『坂の上の雲』の秋山兄弟からも強く感じるが、生きることへの目的意識が今とは格段に違っていた。)

長岡は後年母校の理論物理学講座の主任教授を務め、東北帝国大学の設立に尽力し、そこで本多光太郎や石原純を育て、さらに大阪帝国大学の初代総長になり、文化勲章受章者の第一号の名誉を得た。

<武士道と東京帝大総長>

「西洋文明や欧米人を無批判に礼賛する輩が増えているが、それは違う。日本には日本のよさがある。アメリカは人種差別がひどすぎる。日本人たるもの日本の心を忘れてはならぬ」。
 健次郎は物理学を教えるかたわら武士道を説いた。
 
アメリカで学んだ新渡戸稲造が『武士道』を著して説いたように、健次郎も一日たりとも武士道を忘れなかった。

明治34年6月、菊地大麓総長が桂太郎内閣の文部大臣に就任し、健次郎が評議会の推薦を得て公認の第六代東京帝国大学総長に選ばれた。
 
浜尾前総長からも「ここは山川さんしかいない」と説得され、逃げることは出来なかった。学内の誰もが健次郎を推薦した。このとき48歳、まだ若かった。

<松平容保>

 健次郎はこのころ旧藩主の松平容保にもしばしば会う機会があった。
 
「山川、これを世に出してくれ」 孝明天皇から授かった信任状を竹の筒から取り出した。
 
それは京都守護職として天皇に仕えていたとき、天皇から拝領した書翰だった。容保はそのご宸翰をいつも手元に置いていた。会津戦争のときは、この竹の筒を背負っていた。それは、自分は朝敵にあらずという絶対の証明だった。

 健次郎の晩年は「会津戊辰戦史」の執筆に費やされるが、これは会津の側にたった戦史であり、君主・松平容保を代弁したもののように思う。そしてそれが完成したときがまさに、会津の、山川健次郎の怨念は晴れた、というべきだろう。 

 もう少し続く。帝大の学生の中に松平容保の四男恒雄がいた。かれは外交官試験を首席でパスして、後、駐米、駐英大使、宮内大臣を務める大物となった。
 その娘・節子は皇室に入り、秩父宮勢津子(節子改名)妃殿下となる。ずっと時代は下るが、勢津子妃は学習院初等科のとき白洲正子の同級となり、米国留学の時代も含めて生涯の友となった。

昭和6年6月26日、巨星山川健次郎は墜ちた。享年78歳。

一言で言えば会津の悲しみや怒りを終生腹の底に置いて、努力した人であった。それをバネに見事に会津の無念を晴らした人であった。真の武士道を知る人であった。加えて、近代日本の礎となる多くの有為の人材を育てた。
 昨今こういう人がいなくなった。そのことを寂しく思う。


<妹・山川捨松>

最後に健次郎の妹について触れてみたい。
 幼名を咲子といった。
 
厳格にして会津戦争を経験した母“えん”は、兄・健次郎にならって咲子を留学させる。これは明治政府の女子留学第一号募集に応募したもの。
 戊辰戦争で賊軍の汚名に甘んじた徳川恩顧の諸藩、特に東北諸藩の士族は、この官費留学を名誉挽回のチャンスと考えていた。母は咲子のアメリカ行きに際して、名前を捨松と改めさせた。わが子を(いったん)「捨てて、なお待つ」 の意味である。

現代なら女性の留学は何の不思議もなく、むしろ当たり前にも感じるが、明治の初年、この決断には勇気がいった。母親の、(明治という時代に対する)鬼気迫る闘魂を感じさせる。
 〈話はそれるが、山川家の明治以降の隆盛にはこの母の存在が欠かせない。まさに明治の母、優しく、そして厳しい大和なでしこ、の姿である。いまさらながら、家庭教育の大切さを感じる。厳しい母親に育てられて、後に大事をなした傑物は多い。)

捨松は名門女子大バッサーカレッジで国際経済学を学び、優秀な成績で卒業し帰国した。そのとき23歳。日本語を忘れて、アメリカ人になっていた。

当時東京で生活を始めたばかりの山川家にとっては、“不思議なおばちゃま”が突然現れたようなもの。家の人々は、正直のところ捨松の扱いに苦慮した。アメリカでは女子も仕事を得て活躍しているのに対し日本では就職先がない。
 
捨松にとって、日本はなぜこんなに遅れているのだ、というジレンマに悩む日々が続く。

明治16年、その捨松の身に驚くべき出来事が起こった。薩摩出身の参議陸軍卿大山巌が求婚してきたのだ。大山は西郷隆盛の従兄弟で、薩摩藩大砲隊の一人として会津戦争にも参戦、会津城を見下ろす小田山に大砲を運び上げ、連日連夜、砲弾の雨を降らせた人物だった。

「そんなことは許されません」 母は血相を変えていった。
 
「ならぬ」 長兄の浩は即座に断った。
 
しかし大山はあきらめなかった。亡き妻の父吉井友実を通じて再び求婚してきた。
 
推薦したのは留学生仲間の永井繁子だった。大山はこれからの自分の立場を考えれば、才色兼備の捨松は願ってもない話だった。時に大山42歳、捨松24歳。
 
周囲の反対が収まらないなか、捨松は応諾した。大山捨松の誕生である。

やがて欧米との華やかな外交の時代を迎え、捨松の才能は“鹿鳴館の花”といわれるほど華やかに咲いた。捨てて待った花が、幼名の咲子に戻った瞬間である・・・。

(山川健次郎 完)

〈2008年2月27日〉


「会津異聞」へ


△ 読み物TOP

△ 旅TOP

△ ホームページTOP


Copyright ©2003-11 Skipio all rights reserved