額田王と鵜野讚良
古代に咲いた二人の女性
ーー 茜さす ーー

(2010年3月22日)


「茜さす・・・」 の歌から上古の時代の高貴な方たちの清純な恋を想像したのはいつのころだったろうか。

中学生あるいは高校生?

万葉の時代のおおらかですがすがしい恋の世界に、幼稚な憧れを抱いたものである。そういう世界に自分がいたらどんなに幸せだろうかと未熟な感受性で・・・
 
それほどに印象の強い歌である。

額田王(ぬかたのおおきみ)の歌。

     あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
                野守は見ずや 君が袖振る

大意は <紫野を行き、御料地の標野を行き、なんて大胆なことをなさるの。野の番人は見咎めないでしょうか。遠くからわたしに袖を振るあなたを!> ということだろう。

***

これに対して元の夫の大海人皇子は返歌した。

     紫のにほへる妹を憎くあらば
                人妻故に われ恋ひめやも

<紫草の根で染めた紫の色、それほどにも美しく照り映える女よ、もしあなたを厭わしく思うなら、人妻であるのを知りながら、どうしてわたしがあえて恋することなどあろうか。>

溢れるばかりのロマンがただよい、あるいはエロスの匂いまでぷんぷんと感じるが・・・。

***

兄のもとに去った元の妻に変わらぬ恋情を抱く弟、あきらめられなくて追いかけるの図・・・字面だけを追ってみると、兄(中大兄皇子)の目を盗んで、そんな恋のサインを送っているかのように思える。

 短絡的に「後に起きた”壬申の乱”はこの三角関係が原因だったのでは?」などと、感じる人がいても無理からぬところだろうか。

しかし現実はどうであったのかと後世の学者たちは盛んに研究を繰り返し分析する・・・さて真実は・・・。




飛鳥を背景に
額田王

<蒲生野の薬狩り>

これから、ロマンと関係のないことばを連ねなくてはならないのが辛い。

西暦666年のこと、天智大王即位から6年後、白村江の戦いで壊滅的な敗北を喫してから5年後の55日、天智は群臣を率いて近江の蒲生野に遊猟(薬狩り)した。

薬狩りは中国風の当時先端の行事だった。みんなでお弁当を持って薬草を刈り取りに野原をかけめぐる・・・ウコンやウツボグサ、ドクダミや独活(うど)などのほかに、今でいう天麩羅の材料も多々あったのではなかろうか。

現代の企業で言えば決算を終えた管理職のゴルフ大会、当然終了後に大宴会が催される。
 
昔も同じ、猟が終わると華やかな宴が催された。

***

「茜さす・・・」対「紫の・・・」という額田王と大海人皇子との歌の交歓は、宴たけなわに出てきた余興であった?

どうもそれが真実のようである。歌詠みは時の貴族のたしなみ、ウイットネスに富んだ元妻が送ると、元旦那もウイットネスで返す。それもセンスがよく、レベルが高い。

しかし心配するのは、このとき大王・天智がそこにいなかったのだろうかということ。所用があって席を外した隙に・・・?

いずれにしても下地としての“古代のおおらかさ”と、王族の高雅なセンスを実感できるシーンであり、拍手喝采!

***

さて無粋な詮索を・・・このときの主人公たちの年齢捜査?

実はすでに額田は、大海人皇子とのあいだに娘・十一皇女をもうけている。さらに加えると、その十一も天智(てんじ)の皇子・大友と結婚し、子供の葛野王(かどのおう)が薬狩の翌年に生まれている! ということは、額田はもうすぐ婆さんになるわけだから、低く見積もっても三十代後半のオバサンのわけである。

こういったら身も蓋もないが、互いに恋だの愛だのと騒ぐ年齢をはるかに過ぎている。(そうはいえない、という見方もあるが)
 
要するに高尚な大人同士のざれ遊び(座興)だったということ!

額田という女性は非常におおらかで活発であったようだ。万葉集の代表的女流歌人の一人としての活躍は、古代に咲くひまわりを連想させるが、男性遍歴もそうとうなもの。

兄弟の母、斉明天皇にも気に入られていたようだ。

***

この裏にそんな光景をじっと見詰める一人の女性がいた。

当時21歳、歴史上の大人物である・・・。


<母系社会と鵜野の登場>

彼女の名を鵜野讚良(うののさらら 645〜703)という。父は中大兄皇子(天智大王)であり、あの大化改新(乙巳の変)の年に生まれている。
 夫はその弟の大海人皇子(後の天武天皇)で、鵜野は叔父さんのところに嫁に行ったということになる。 (注:鵜は廬ヘンに鳥と書くが、略して鵜を使用)

夫がオバタリアンの額田と戯れているところをじっとうかがっている、その目に嫉妬の炎がめらめらと・・・、こう書くと安っぽい小説になってしまうから止めにするが、彼女こそは夫・大海人皇子(後の天武天皇)を盛り立てて壬申の乱を完遂し、後に持統女帝となった女性である。

ついでにいえば、鵜野の母を遠智娘(おちのいらつめ)という。天智(中大兄皇子)に(結果的に)滅ぼされた蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわのまろ)の娘であり、このことを整理すると、遠智娘は父を死に追いやった天智に嫁ぎ鵜野と姉の大田皇女を誕生させたということになる。

その姉も同時に大海人皇子に嫁して、正式な妃となって大津皇子を産むが、早世している。

***

さて、このときの鵜野の心理と気分はどんなだったろうか・・・。

ここで当時の、今とは違う母系社会のことをすこし説明しておかねばならない。

上古の貴いかたがたの婚姻は妻訪婚(つまどいこん)といって、夫が妻を訪れるのは夜だけで、常日ごろいっしょに住むことはなかった。

したがって子供が生まれたら母親のもとで育つ。母が違えば別の家にいるわけだから異母兄弟の兄弟意識は薄い。

また権力者、特に天皇家はこの妻のほかに妾(しょう)、あるいは嬪(ひん)という、多くの女性を相手に、多くの子供を作った。なかで臣下の娘は妃(正式な妻)にはなれなかったから、同族(皇族同士)の婚姻がはびこる。現代では禁止されているおじさん・おばさんとの婚姻も頻繁であった。

そのなかから後継者を指名するのだから、決定を不服とする輩が突然反旗を翻したりして骨肉の争いを繰り広げる。そういう時代であった。

***

それはさておいて、母系ということが時代の重要なキーワードになる。

母系社会の中で培われた鵜野の心情は母の気持ちと同じである。

憎いのは祖父を倒した中大兄皇子(父)と藤原鎌足。その恨みが”壬申の乱”のエネルギーになったとみてもおかしくはない。父を倒すという今ではあまり考えられないことの裏には、そんな事情があった。

もうひとつ鵜野の中にある怨念、それは祖父の死にざまのこと・・・。


<蘇我山田石川麻呂と山田寺>

 西暦649年鵜野5歳のとき、祖父の蘇我山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられて自殺する。場所は飛鳥の、建築をすすめていた山田寺。周囲を攻め手に囲まれ、一族とともに仏殿前で自害した。



現代の山田寺跡



山田寺の復元模型

***

それより以前、中大兄皇子は蝦夷・入鹿の勢威をねたみ、入鹿の従弟の石川麻呂を甘いことばで味方に引っ張り込んだ。「息女の遠智娘(前述)を嫁にいただきたい。悪いようにはしない・・・」とでもいっただろうか。

蘇我氏の内部抗争をあおり、弱体化をはかるのが中大兄皇子の狙いだ。

結果、石川麻呂を「乙巳の変」に加担させ、入鹿は殺され蝦夷は自決、蘇我氏の分断に成功する。

「蘇我氏の権力は俺が握った!」と石川麻呂が思ったかどうか、それも中・中連合(中大兄皇子と中臣鎌足)の計画のうちで、手に入れた右大臣の位は一瞬の幻に終わる。

中大兄皇子や中臣鎌足のほうが役者としてははるかに上手で、甘い汁を吸わせておいて油断したところをバッサリとやる。すでに石川麻呂の役割は終わり、邪魔な存在であった。

「オレはだまされた・・・」と気がついたときは遅く、無念のうちにみずから命を絶った。 

死に追い込まれるのみならずかれは死後の辱めまで受けた。追討の蘇我日向(ひむか=異母弟)らは、石川麻呂の自死を知りながら死骸の首を切らせた。

***

生き残ったものの傷は深い。

母遠智娘は死ぬまで夫(中大兄皇子)を恨み、嘆き、もだえ、絶望し、そして叫んだ。

鵜野は、そんな怨念の叫びを母から聞かされて育った。父・中大兄皇子が、祖父に謀反の罪をなすりつけ死に追い込んだこと、それまでさんざん利用しておいて捨てられたこと・・・。

そんな鵜野も、13歳になって叔父の大海人皇子(27歳)のもとに嫁ぐことになる。
 蒲生野の薬狩りはこれから8年後、そして壬申の乱(672)まであと15年。その間、日本書紀で<深沈にして大度有します>と評される鵜野は恨みの刃を磨いていたのだろうか。

***

さて少し寄り道して、鵜野の祖父・蘇我山田石川麻呂の発願により創建された山田寺の話。

7世紀半ばに建て始められたが、不幸な自害(649年)があり頓挫した。

天智大王2年(663年)には塔の建設が始められ、壬申の乱をはさみ、天武天皇5年(676年)に最上部の相輪を上げることで完成した。

鵜野にとってみれば、せめてもの供養、という思いが強かっただろう。

そして685年には丈六の仏像が開眼した。
 ここにおいて鵜野すなわち女帝・持統の恨みは晴らされたとしておきたい。
 その後、天武・持統系の支配が100年ほどつづく・・・。



春過ぎて夏来たるらし 白妙の衣ほすてふあまの香具山

持統天皇


<後日譚> 

山田寺の仏像は頭部のみが身体と切り離されて興福寺に現存し、国宝に指定されている。
 昭和12年、興福寺の東金堂が修理された際、須弥壇の下のガラクタといっしょに発見された。



山田寺丈六仏像の頭部(国宝)のみが興福寺にある

どこかローマの石像に似ていないか?

なにやらここにも因縁めいた話が隠されている様子だが、文治3年(1187年)の鎌倉前夜、興福寺(=藤原氏の寺)の僧兵が山田寺に押し入り、講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えたという。

 
 いまの山田寺にかつての伽藍はない。境内跡に「雪冤碑(せつえんひ)」と書かれた碑が建つ。文字通り「冤罪(えんざい)を雪(すす)ぐ」という恨みの記念碑である。江戸時代後期に末裔の山田重貞によって建立された・・・。
 骨肉の争いは現在にいたるまで残るのだろうか・・・?


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