利休、破調の美


(1) 楽焼き 長次郎

 



<長次郎赤楽茶碗 銘 無一物>

穏やかな利休好みの姿。
口縁部がごくわずか内に抱え込ませ、ふっくらとした胴部に腰が丸く、
やや高い腰から高台にかけてしずかにすぼまっていく。

京の堀川橋の東に、“あめや長次郎”は瓦を焼く窯場を開いた。

安土桃山時代のことである。

聚楽第の瓦職人が集まるなか、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔除けの飾り瓦である。

長次郎が鏝(こて)とへらを握ると、ただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となって天に咆哮する。

長次郎が“あめや” (「飴屋」「飴八」「阿米也」)の屋号をもつのは、あめ色の釉薬(ゆうやく)をつかって、赤や碧(みどり)を自在に焼けるからである。

明(みん)からわたってきた父がその調合を知っていたが、父は長次郎に秘法を教えず、長次郎はじぶんで勉強した。

「一子相伝に胡坐をかいていたら、人間があまえたになる。家はそこでしまいや!」

長次郎は新しい釉薬を自らつくり上げた。

***

「わたしは、千宗易という茶の湯の数奇者、長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

千利休が長次郎をはじめて訪ねたシーンである。

「瓦ではなく、茶碗を焼いていただきたい」

「うちは瓦屋や、茶碗やったら、五条坂に行きなはれ」

「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

「茶碗を焼けという話やが、わしは轆轤(ろくろ)をつかわへん。まん丸の茶碗はよう焼かんけど、それでええのか」

「焼いてもらいたいのは、手のすがた、指のかたちにしっくりなじむ茶碗。轆轤を回してはとてもつくれません」

「轆轤をつかうのは、たくさん作りたいからです。茶碗をつかう人のことを考えてのことではない。あなたは、ヘラがあれば、どんな形でも、自在につくりだせるでしょう」

「それが職人の腕の見せどころやさかい・・・・・」

「やらせてもらいましょ。お気に召す茶碗が焼けますかどうか」

***

そして最初の茶碗ができあがった。

「ひとことでいえば、この茶碗はあざとい。こしらえた人間の心のゆがみが、そのまま出てしまっている」

「あざといというて悪ければ、賢しらだ。こざかしくて見ていて気持ちが悪い」

「あなたは掌に媚びた」

「武家のいかつい手でもっても無骨に見えず、女人の白く美しい指でもってもひ弱に見えぬ茶碗。お願いできますね」

―― 毅然として気品のある茶碗。それでいて、はっとするほど軽く柔らかく、掌になじみ、こころに溶け込んでくる茶碗 ――

わがままな注文ばかり並べて宗易は帰った。

***

長次郎はひたすら土を捏(つく)ねた。窯は新しく作った。

鍛冶屋がつかう鞴(ふいご)で風を送ると、炭が真っ赤におこった。素焼きの内窯が溶け出しそうなほど高温になった。

ふいごを強く吹いて、一気に焼き上げた。
 
丸い茶碗が夕日の色に赤く染まっていた。

焼きあがった茶碗は、素直な筒型で、底がなだらかにすぼまっている。ほんのわずかに胴が張り、口が内側にそっている。赤い釉薬をかけてあるが、肌はざらりとした土の感触を残した。それが、かえって柔らか味を引き立てている。

***

「とても軽く焼けましたね」
 
手にもつと、ふっと、魂でも抜けてしまったように軽い。

「肌に、えもいわれぬ潤いがある」
 
「飲み口もいい」

唇をつけたとき、茶が飲みやすいように、そこだけ肉を薄くした。

宗易がひしゃくをとって赤い茶碗に湯を注いだ。
 
茶を点て、長次郎の前にさしだした。

玄妙な気持ちで茶を口にふくんだ。飲みほすと不思議なさわやかさだけが残った。やがて口中に苦味が広がった・・・・・



有名なハタノソリタル茶碗
銘 道成寺  長次郎


2) 武野紹鴎

見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ

利休の師、武野紹鴎は侘び茶の心を説くのに、新古今集「三夕」のうち藤原定家を引いた。

これに対して利休は藤原家隆の一首を上げ、この歌の心をさらに加えて、わび茶の心を得心しなくてはならないと諭した。

花をのみ侍らん人に山里の  雪間の草の春を見せばや

***

利休の少年時代は、年号で言えば天文期であった。茶の湯の歴史上この時代が注目されるのは茶会記が登場すること。それだけ町衆の間で、あるいは武家と町衆とのあいだに茶の湯の会がもよおされ、茶の湯の形式が発展した時代である。

この時期の茶湯界を先導したのは武野紹鴎であった。

紹鴎は一向宗から転じ、茶味と禅味とが同じであることを料知した。草庵茶の湯の理念は紹鴎によって確立された。

紹鴎は堺・南宗寺の開山、大林宗套(14791568)に参禅し、その先例が手本とされ、以後における茶人の参禅、茶湯の禅宗化をもたらす上で決定的な契機となった。

「山上宗二記」のことばを借りれば「紹鴎の法度」である。

***

茶の湯名人として名高い、その紹鴎が新しく茶室を作ったというので堺の数寄者たちの間で評判になっていた。

紹鴎はまだ、誰も招いていない。

座敷は北向きである。座っていると、“市中山居の隠”にこころが落ち着く。

窓の格子と縁側には丸竹を使ったので、鄙びた味わいが深まった。

冬の茶の湯のために炉を切ったのも、山家めかせるためである。

内庭にはただ一本の大振りな柳。

床がまちには自然な肌のある栗の木に黒漆を塗らせた。

***

紹鴎は与四郎(利休の幼名)のいかにも利発そうな顔を思い浮かべた。

去年、庭の掃除をさせてみると、苔に散っていた紅葉の葉を一枚も残さず丁寧に掃き清めた。それで終わりかと物陰で見ていると、木をゆすって、ほどよいぐらいに紅葉の葉を散らした。なかなかできる芸当ではない。

与四郎に茶杓を削らせたことがある。

村田珠光の時代には、竹の節は醜い邪魔なものとして切り捨てられていた。
 
紹鴎は、それを端近くに使うことで、侘びをかもしだした。

与四郎は、大胆にも、節を真ん中より少し上に持ってくることで、草庵風のわびに毅然とした品格を与えた。

節を残すなら、与四郎が削った場所にあるのが一番美しい。それより、ほんのわずかに上でも下でも、落ち着かない。

若いくせに面白い美しさを見つけている・・・。



利休作茶杓 銘「泪」
死期に臨んで造った
古田織部は位牌がわりに肌身はなさずもっていたという

***

暮れなずんだ空の光が、内庭の柳の葉を淡い藍色に染めていた。人の心を切なくせずにいられないものかなしげな色調である。

(これぞ幽玄)

・・・与四郎を呼んでやろう。

与四郎はあらためて座敷を見回した。

「おもしろうございます。高貴さと破調を同居させた、まったく新しい草庵でございましょう。真行草でいえば、真の気品をもたせながら、いかにくずし、侘びさせるかを、ぎりぎりまでせめぎ合わせなさったのだと存じます」

真行草とは、書道でいう楷書、行書、草書のことである。

耳付の伊賀焼きの花入に白い木槿(むくげ)が挿してある。

「悪いわけではございませんが、いまひとつ、興が足りぬと存じます。わたくしがしつらえてよろしゅうございますか」

「おもしろい。やってみるがよい」

与四郎は左手で花入を押さえると、ためらいもなく釜の蓋を花入に打ち下ろした。

耳の片方が欠けて落ちた。

「寂び寂びとして粗相なるところにこそ、物数寄があると存じまする」


3) 利休の茶

いつもいつも茶の湯のことしか頭になかった。

どうすれば、一服の茶に満ち足りてもらえるのか。それだけに心をくだいてきた。点てた茶をただ気持ちよく喫してもらうことだけを、けんめいに考えてきた。

利休の茶は、室町風の華美な書院の茶とはもちろん、村田珠光が始めた冷え枯れの侘び茶とも違っている。

侘びた風情のなかにも、艶めいたふくよかさ、豊潤さのある独自の茶の湯の世界をつくることができた。

***

茶の湯は一休禅師(宗純 13941481) に始まり村田珠光(14221502) が受け継いでいる。

珠光はそれまでの、茶の薬効や香味の鑑賞を度外視し乱痴気騒ぎばかり先行した茶道に待ったをかけ、元来の姿にもどそうとした。
 
元来の目的とは精神の統一、覚醒の良薬とすることである。

四畳半の小さな茶席をはじめて作ったのはおそらく珠光だろう。

少し難解な話。

珠光は四畳半を、維摩経(ゆいまぎょう=生と滅、善と不善、煩悩と菩提などはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであると教える)の維摩居士(ゆいまこじ=釈迦の在家の弟子)の方丈になぞらえ、この茶室に無限の広さをあらわそうとした。

この考えをさらに推し進めたのが利休の師 武野紹鴎(15021555) だ。

かれは三好家の御用達をつとめて財をなし、和歌や禅の素養もなみなみでなかった。紹鴎は珠光の子の宗珠に師事した。
 
唐物尊重の書院台子(だいす)の茶を、茶禅一昧の理念にのっとって簡素化し、侘び茶の美を創造しようとした。



利休ははじめ北向道陳に茶を学んだが
19歳の春、紹鴎の門を叩いている
その武野紹鴎
財力と教養が姿かたちに現れている!

そして利休の登場・・・。

***

茶の湯の真髄は、山里の雪間に芽吹いた草の命の輝きにある。

丸く小さな椿が秘めた命の強さにある。

ただ鄙めいて、田舎っぽく侘びただけの席では、客はゆるりとこころをときほぐすことができない。そう思って、道具にしても、しつらえにしても、さまざまな工夫をかさねてきた。

夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を点てて、仏にそなえ、客にもほどこし、自分も飲んだ。

そんな茶の湯をつくり上げてきた。

美しくないはずがない。

それには成功したが・・・空しさがつきまとう。

***

「仏心は人間に限らず、あらゆるものに宿っている本心・本性である」

「小座敷の茶の湯は第一仏法を以って修行得道することなり」 

禅の心得と茶道をあらわした一文である。

利休は、禅の精神こそが茶の湯の精神としている。禅が利休の精神を支配していたというべきか。

かれは出家して堺の南宗寺(ここには紹鴎や千家一族・津田一族の墓がある)に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わったが、商人の顔も色濃くもっている。

芸術と宗教と企業経営という一見矛盾するかのように思える三者が、利休の中にすっぽりと納まっている。戦国茶人の奇異な特性といえようか。

そして迷いはある・・・。


(4) 古渓宗陳

菓子は、麩の焼き。小麦の粉を水で溶いて、鉄鍋で薄く延ばして焼き、味噌を塗って丸めたものだ。素朴な見かけだが、味噌にひと工夫しておいたので、噛むほどに味わいが深い。

秀吉は薄茶を飲みながら麩焼きを口に入れた。

実はこの麩を、以前のあるとき、裏千家から土産にもらったことがある。外では売っていない。

薄っぺらな表現だが、京都らしい上品さがあった。

***

小さくしわの多い秀吉の顔を見ているうちに、古渓宗陳の頭にひらめきがはしった。

秀吉の本性は、むさぼり、だな。

秀吉という男は、貪欲が着物を着て歩いているようなところがある。

普通の人間は、骸骨が皮をまとった生き物だが、秀吉はちがう。むさぼりの心が皮をまとい、着物を着ている。

だからこそ天下人にもなれたに違いないが、では、人として、心の位がどれほどかといえば、けっして高いとはいえまい。やはり下賤である。

供についてきた家臣たちの一番上座に座っているのは、石田三成だ。聡明そうな顔をしているが、やはり毒に冒されている。

これがすべてではないが、権力の座に座ると人間は傲慢になる・・・。周囲を見回してみてもそういう人間が多い。

***

利休には品性がある。

利休の茶には、たしかにおだやかな品格と気高さがある。

その気高さを嫌味に見せない謙譲がある。

しかし、ただかろやかに、無心の境地で茶を点てているように見せてはいるが、じつのところ、尋常ならざるすさまじい執念がなければ、あれだけの点前はできない。

***

この日、秀吉の母大政所の病平癒のためにできた天瑞寺の落慶法要がおこなわれた。

その席で秀吉は宗陳に、
 
「そのほうなら、法力強く、母者の病気もすぐに癒してくれるな」 と頼んだ。

「わが法力では、ご病気にいかほどお役にたてますやら・・・」

秀吉の眉間がくもっている。
 
そして短気を起こした。
 
「お前の顔など見たくない。消えるがよい。大宰府に落ちよ!」 である。



大徳寺117世 古渓宗陳
利休がもっとも親交を深めた禅における師

***

別れの朝、宗陳は利休を訪ねた。

「人は誰も毒を持っていましょう。毒あればこそ、生きる力も湧いてくるのではありますまいか」 

利休は禅の師宗陳にあえていう。

「肝要なのは、毒をいかに、志にまで高めるかではありますまいか。高きを目指してむさぼり、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかがでございましょう」

ビジネスマンに対する教訓としては、「高邁なビジョンを持て。毎日を刻苦勉励努力せよ」 ということだろうか。


(5) ひょうげもの古田織部 その1

古田織部の京屋敷は、下京の蛸薬師油小路、空也堂のとなりにある。

美濃で生まれた織部は、信長に仕え、秀吉に仕えた。山崎の明智討ちで戦功をあげ、天王山の麓西岡城主となった。京、大阪を結ぶ要衝の35千石は大きな栄達である。

***

「今日の日和で、タンポポがよく咲きました」

織部は気取らない野山の風情を取り込みたくて、日当たりのよい場所に、黄色いタンポポを植えている。閑雅を好む利休には考えられない作庭だろう。

いくつか置いた路地行灯が、打ち水にぬれた飛び石をつややかに照らしている。

路地には、細長い切石や赤い石を組合せ、大胆な奇抜さを狙ってみた。人の意表をつく躍動的な美が織部の好みである。

織部は、師の利休とじぶんの美意識の違いを、つねに意識しながら茶の湯に精進している。人と同じことをするくらいなら茶の湯などせぬほうがましだ。

利休が、背の高い蹲(つくばい)で手水(ちょうず)をつかい、口をすすいだ。かがまずに水がつかえるようにしたのは織部の工夫だ。

***

「窓をたくさん作りましたな」

「ぜんぶで十一こしらえました。朝の茶事にはまことに気持ちがよろしゅうござる。そちらの窓から愛宕山が見えます」

「居心地のよい席です。よく意を尽くされた」

床の軸は西行。

梢うつ雨にしおれて散る花の

惜しき心を何にたとえむ

織部は、ここ数年、新しい焼き物を生み出そうと腐心している。

白、緑、茶、三色の取り合わせが多いが、時に黒を主体とすることも赤を強調することもある。丸や四角、三角などの模様をつけたりする。

すべて身近な自然から題材をとっている。



織部 筒茶碗
銘“冬枯”


() ひょうげもの古田織部 その2



織部庵

博多の商人神谷宗湛(15511635)は「(織部の)茶碗はヒヅミ(ひずみ)候也 ヘウケモノ(ひょうげもの)」 と書き記している。“ひょうげもの”とは、織部の茶碗がゆがんだり、曲がったり、破れたりと、ひょうきんな形をしていることを形容したものだろう。

***

床わきの窓に、鶴首の花入れをかけ、黄色い花のレンギョウを一枝さした。

ざっくりとした古伊賀の水差しをすえ、肩衝(かたつき)の茶入れを置いた。

鎖でさげた釜は平たい姥口である。

南蛮のどらを鳴らし、水屋でしたくしていると、利休が席入りする気配があった。

織部は大ぶりの茶碗を好む。

黒釉薬をたっぷりかけた茶碗は、呑み口がぼってり厚い。存在感があって頼もしい限りだ。

利休は黙って茶を喫した。

釜の湯音が、夜のしじまに吸い込まれていく。

***

細川三斎とともに利休を淀の舟本に送った織部は、利休よりもらった茶杓銘“泪”を位牌代わりに祀ったという。利休の文を茶掛けに用いたのも織部に始まるようである。

織部は秀吉没後、小堀遠州ら町人たちと吉野に遊んだ際、ニナイ茶屋に「利休妄魂」と書いた額をうち、花見茶会を催している。

はじめて気兼ねなくもつことのできた利休鎮魂の茶会であった。
 
こうして救われることのなかった利休の迷える魂は鎮められ、そしてそれを契機に再生し始めた・・・。

***

その後の古田織部の話。

家康は、関ヶ原の戦いで天下を取ったとはいえ福島正則、加藤清正、浅野長政等を筆頭に知勇に優れた数多くの豊臣恩顧の大名が存在し幅を利かせていた時代のことである。

織部は、師・利休と同じように反骨精神も旺盛で、家康陣営の意向を無視することも少なくなかった。

いや、もっとつきつめれば、利休の理不尽な死を知っている。

織部にも覚悟ができていた・・・。

ことさら家康陣営に媚びへつらう必要も少なく、もちろん勇気のいる行動だが、豊臣恩顧の有力な大名の一人としての織部のふるまいは、死を恐れぬものだった。

***

事件は起こる。大坂夏の陣のおり、織部の茶頭(さどう)である木村宗喜が豊臣氏に内通して京に放火(混乱に乗じて家康暗殺を意図した説がある)を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。

木村の主君である織部も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大阪城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ大坂落城後の611日(76日)に切腹を命じられた。

織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害した。

この潔さに感動を覚えるが!

***

白洲正子と赤瀬川原平との会話の中に面白い一節を見つけた。

「織部は利休のあとを継ぐのに非常に困った。非常に頭を使って・・・知恵を絞ってああいうものを作ったんだけど、わたしの経験から言うと、織部のものって持っていると飽きる。はじめ飛びつくんだけど、少しもっていると飽きるんですよ」



白洲正子は「織部は飽きる」といった

「織部のはデザインだけど、利休はデザインじゃない。あの時代にデザインがあったことが、今のデザイナーなんかかなわないすごいデザインだけど、デザインは飽きる・・・」


(7) 徳川家康 その1

茶の道においては家康も利休の弟子である。

利休切腹の折には、助命嘆願を他の弟子たちとともに為し、また利休の死後、会津に預けられた子・少庵救出のために、蒲生氏郷とともに奔走している。

そのおかげで今日の千家(表・裏・武者小路)の隆盛がある。

***

信長の安土の城で初めて会ってから、家康は、折りあるごとにこの男の点てた茶を飲んでいる。大柄な男で、殊勝な茶頭(さどう)だとの印象だ。ただ、何を考えているのか心底の見透かせぬ不気味さがある・・・。

編み笠のような茅葺き屋根に、両開きの簀戸(すど)がついている。

ここの路地は、いくえにも結界が結ばれているのか、奥に踏み込むほど、異界に誘われてゆく気がする。

目の前の路地の一木一草までも利休の手で磨かれたように清らかで、木漏れ日に光る羊歯でさえ、利休に命じられて、風にそよいでいる気がした。

***

茶道口が開き、利休が瓢(ふくべ)の炭斗(すみとり)を手にあらわれた。釜をわきへ置いて、炉の炭をつぎはじめた。

手の動き、動作の一つひとつになんの衒(てら)いもない。炭が、おさまるべきところに、おさまっていく。湿した灰を撒き、羽箒(はぼうき)で炉の縁を掃いた。

香合を手に取り、中の丸い練り香を火箸でつまんで炭のそばにひとつ、すこし離してひとつ置いた。

「ご一献、いかがでございましょうか」

家康は、朱塗りの盃を取った。

つがれた酒を飲み干した。すっきりしたよい酒であった。

椀の蓋を取り、味噌汁をすすった。具は大きく切った豆腐と千切り大根で、味噌の味わいが軽やかだ。

「あたりまえの味噌でございますが、青竹に塗って焼きましたゆえ、麹(こうじ)の臭みが消えておりましょう」

一口飲んで、洗練された味に感服した。



路地
腰掛とつくばい


(8) 徳川家康 その2

この男、聡すぎはしまいか。

聡い男は重宝されても、聡すぎる男は嫌われる。ちょっとくらい隙を見せたほうが、人には好かれるものだ。

現代企業の組織の中でも同じことがいえる。

聡すぎる、有能な社員を使いこなせる経営者は少ない。というよりも周囲から疎んぜられて自滅する例が多い。

例は適切でないかもしれないが、兎と亀の競走を想起する。

利休という居士号をかんがえついた碩学は、人間観察にも優れていた。よくぞ利休の人となりを見抜いていたものだ。利は鋭いという意味であろう。鋭すぎる男は、人にはじかれる。商人であっても茶頭であっても、よしんば侍であったとて、和が保ちにくい。ときには鋭利な心を休めたほうがよいのだ。

***

天正137月、秀吉は念願の関白職に任じられ、同年10月返礼をかねて禁中小御所で茶会を催した。秀吉は菊の間において自ら茶を点て、正親町(おうぎまち)天皇にこれを献じた。

千宗易(利休)は隣の間にひかえて、後見した。

このとき用いたのが利休という居士号であった。

名実ともに天下一の茶人になった瞬間である。

“利休”の名付け親は<953>に登場した、禅の師・古渓宗陳である・・・。

***

赤い今焼きの茶碗を手に取り、中を見つめた。美しい緑色の茶がとろりと練ってある。

口にふくむと極上の濃茶であった。

「けっこうだ。甘露である」

膝のまえで茶碗をながめた。赤い肌に、おぼろな黒釉が掃いたようにかかっている。

「銘はなんというのかな」

木守(きまもり)でございます」

秋に柿の実を取るとき、来年もまた豊かに実るよう、ひとつだけ取り残す実が木守である。

長次郎の焼いた茶碗をいくつも並べ、弟子たちに好きなものを選ばせたところ、これひとつが残った・・・。



利休茶碗“木守”
長次郎七種茶碗の一

 (「破調の美(2)」へつづく


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