武相荘の鈴鹿峠


鈴鹿峠と白州正子

 中学2年の夏、息子君はなにを思ったのか、突然「自転車で岡山のおばあちゃんのところまで行く!」と言い出した。
 わたしは、「その言やよし」と、即座に「行って来い!」と呼応したが、母親はさすがに引いてしまって不安をあらわにした。

 
結果、綿密な計画を立てて送り出すことになり、母親は電話の前にかじりついて、1時間ごとにかかってくる(ようにさせた)息子君のメッセージを待つということになった。
 
1泊目は神奈川県の秦野、2泊目は静岡市、3泊目は静岡県西部の磐田と、待つ身の心配は徐々に募る。そして4泊目の松坂の友人宅に泊ったところで「うーん、お父さん、もう限界のようだから迎えに行って!」と泣きが入った。

 
翌日早朝、東京を発って東名高速をぶっとばし、名四国道から東海道の「関」駅に先回りして待った。
 
やがて、はるか向こうに豆粒のような自転車姿をとらえ、それがえっちらおっちらとこちらに向かって揺れながら来る。「疲れたぁ!」の第一声で感動のご対面を果たした。ゆっくりと休む余裕もなく、すぐに自転車を解体して車のトランクに押し込んだ。
 京都に向かって出発すると、鈴鹿峠はすぐそこにあった。

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写真の鈴鹿峠の石柱は町田市鶴川にある武相荘の裏山に続く上り口に立っている。
 
三重県の鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、坂上田村麻呂が山賊を捕らえたなどという伝承が残り、箱根に並ぶ東海道の難所であった。

白洲次郎・正子夫妻は裏山を鈴鹿山塊に見立てて石柱を置いたのだろうが、わたしはなぜ“鈴鹿峠”なのだろうかという疑念をずっともっていた。そして一つの解答を得た・・・。

 
正子さんは、詩人辻井喬の「もし、あちらでお会いになるとしたら、どんな人に会いたいですか」との問いに、言下に「西行よ」と答えたという。それほど傾倒していた西行法師は、出家前の名前を佐藤義清といった。後の平家の棟梁・清盛と同年代の北面の武士であった。
 
佐藤義清が官としての栄達の道を捨ててなぜ出家したかは、諸説が書かれているからここではふれない。

そしてここに西行の一編の旅立ちの詩がある。
 
  鈴鹿峠 うき世をよそに 振り捨てて
         いかになりゆく わが身なるらん

正子さんはこの詩に感じて裏山への入口に石柱を建てたのではないだろうか。正子さんにとってそれは西行の墓碑銘であり、彼女が感じた虚も実も存在しない世の中の「虚妄」への入口でもあった・・・。
(旧白洲邸「武相荘」へ)

(2006年10月29日)


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