映画からは遠く vol.1

2005.1.15
キネマ旬報、その役割の終わりとそれから

 物事の善悪、価値などについて批評し、論じること。また、それを記した文。手元にある辞書で[評論]と調べてみるとこんな答えが返ってくる。では[批評]はどうだろう。事物の善悪、優劣、是非などについて考え、評価すること。こうだ。
 私たちが映画を観たり、本を読み感動したとする。そして、その作家や作品に対してより深く知り、理解したいと欲する。そんな時、私たちは新聞や雑誌、それにインターネットなどで作品の批評を読み認識を深める。その逆もあるだろう、批評を読み興味をもつ。
 今、映画批評誌はどれぐらい発行されているだろうか。ファン雑誌を含めても大した数にはならない。「映画評論」は当の昔に廃刊し、「映画芸術」は季刊誌となっている。
 情報誌は数あれど私たちが映画に関しての批評を欲するとき、もっとも近い場所にある雑誌は「キネマ旬報」になる。
 キネマ旬報は戦前に発行され、何度かの発行元の変遷を経て現在もその名を残している。
 一時期、大物総会屋の手に渡ったこともあるこの歴史ある映画批評誌(正確に批評誌ではないが)は現在、角川グループの傘下にある。
 賢明な方なら疑問をもつだろう。映画批評誌が映画会社のグループに属しているって? 俗な例えならば報知新聞は読売巨人軍を批判するような記事を掲載したりはしない。
 キネマ旬報は角川大映の映画を批判することはしないのではないか? 当然そう思うし、事実そうだ。いや正確には少し違う。キネマ旬報は日本映画を批判するような記事を掲載したりはしない。

 キネマ旬報は歴史的にみても他の映画雑誌とくらべ論調はよく言えば穏やかだった。確かに星取り評では辛辣な意見も見られるが、そこには批評家の名前が大きく記されているし、星取り表に登場する映画のほとんどは洋画か小さな邦画だ。そして愚にも付かないような日本映画でも読者からの便り(読者批評ではない)と編集後記のなかで巧みに褒めることを忘れてはいない。そこにはかつて淀川氏がしたような、貶すことをせずその映画良い場所を絞りだす苦肉の批評というよりは、太鼓持ちの臭いがただよっている。
 私はキネマ旬報を非難しているわけではない。ここは資本主義経済の国だ。広告は時に銃よりも我々を従わせることができる武器になる。
 雑誌は売れない。広告費がなくてはやっていけない。そこに読者など存在しなくても。

 2004年度のキネマ旬報邦画ベスト10。第一位には「誰も知らない」が選出され、昨年の第一位「美しい夏キリシマ」と続いてマーケティングとは離れた所で制作された両作品が第一位に選出された。
 普段、広告記事に依存しているように感じられるキネマ旬報がベスト1にはこのような作品を選びだす。もちろん、選出方法は各批評家の採点を集計したものではあるが、この結果にはキネマ旬報とその編集者の意地のようなものを私は感じる。
 だが果たして、この両作品は優れた映画と言えるのだろうか? 
 私は「キリシマ」では中途で席を立ってしまい観賞したとは言い切れないが、このひどいテンポの映画がベスト1に選ばれた事には驚いた。長くやっていれば名監督というわけでもないだろうに、なにに媚を売るのか。内包するテーマは大切だと思う。我々はまだあの戦争を総括出来ていないように思うし、伝える事も大切だ。
 しかし、映画として優れているかどうかは別の話で、この選出は映画への冒涜だと私は去年怒りの震えたことを思い出す。
 そして今年が「誰も知らない」。私は是枝監督の作品が好きだ。特に「ディスタンス」は素晴らしいと思っている。社会と対峙せず、その現象に反応する人々を見て社会を見ているような振りをする作家(映画監督に限らず)が多いなか、是枝監督は自らの視点で社会を見ることができる杞憂の作家だと思っている。
 その点に置いてはこの作品も悪くはない。だが私はこの映画に乗れなかった。社会があっても生活のない映画。監督には子供がいないと知ったのは映画を見終わった後だった。大人の見た子供、大人のイメージした子供。この映画の中の子供たちはまるで紙人形のようだった。演技者としては疑いようのない子役たちではあったが、親ではなく大人の作り上げた子供たちはあまりにも嘘っぽかった。
 実話を元にしているからリアルだとは限らない。社会問題を題材にしたところで生活者がいなければ、お話でしかないのではないだろうか。

この文章はここで終わっていた。日本映画のことなんてもうどうでもいいから、このままにしておきます。
2007.4
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